本は積んでおくだけで頭に入ってくるので読まなくておk

 

* 序文・積ん読が頭に入ってくる話(1/4)

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 早稲田松竹セルゲイ・パラジャーノフの映画を観た帰り道、身の回りでいちばんシネフィルの友人がこんな冗談を言っていた。「もし上映中に寝ちゃっても、まぶたをとおして光が透過してくるから実質観たのと同じだよ」と。そのとき、一年ほどまえの記憶がフラッシュバックした。

一年まえのわたしは京都の能楽堂にいた。知人の招待で能を観にいったのだ。能は美しいシーンと退屈なシーンが両方あり、うつらうつらしながら観ていた。能楽師である知人はそれ以上で、上演時間の半分を寝て過ごした。そして終わってから後輩が挨拶にくると、「前半はまあまあだったが後半は緩んでたな」と、落ち着きはらって指導をした。居眠りの反省や決まりの悪さは微塵もなかった。横にいたわたしは彼を見ながら思った。マジでかっこいい。彼の態度は、怠慢さではなく、ある種の専門性、プロフェッショナルな感性のあらわれだと思った。

 

= = = = = 

 

 わたしはそんなに映画も能も観ないので、ほんとうのところ、まぶたをとおして作品を見ることができるのか、シネフィルが劇場にいる時間のうち半分を寝て過ごすのかはわからないが(中原昌也菊地成孔のように、寝たエピソードを頻繁に語る映画人もちらほらいる)、本に置きかえていえば、この冗談はかなりのところで真実味を帯びている。もっとはっきり言うと、本は、積んでおくだけで頭に入ってくる。

 

 読書家という生き物は買った本を積むばかりで、蔵書の大半を読まない。自宅を本で埋め尽くすタイプの読書家との交流と、わずかながらの自分の経験からいってこれは間違いないと断言できる。読書家とはまずたくさん本を読む人間のことだが、その生態をもっと正確に描くなら、たくさん読むと同時に、たくさんの読んでいない本に囲まれて暮らす人のことだと言っていい。

読んでいない本に囲まれるとはどういうことなのか。それは何らかの信号を発する本たちを積みあげ、本と本のあいだに形成される複雑な網目のなかに身を置くことだ。網目のなかで暮らしながら、あるときふと問題意識に遭遇したり、ちょうどいま読んでいる本との関わりを思い出し、すっかり忘れていた別の本へ続く回路を発見する、そこでようやく積ん読を手に取る、という行為を繰り返している人のことだ(よね?)。

 

 本を山ほど積んでみてわかるのは、百冊の本を読むことと、九十九冊の本を読むことは、自分のなかに残っていくものとしてほとんど違いがないことや、訳者の違い、装丁やフォントの違い、読む順番、体調、図書館の返却期限など周縁の条件によって内容を左右されること、ひいては、ある一冊の本は別の本と別の本のあいだに存在するもので、そもそも本を一冊、ただそれ単体で読むことはありえないということだ。本を読むうえでは、ページからはみ出た予備知識や周縁の情報が常につきまとう。

例をあげよう。

 

・序文を立ち読みした→要旨が書いてあったので大筋は把握できた

・タイトルでだいたいわかる気がする→最近だと、『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと*1

・付随する情報→作家が「このような本です」とSNSで宣伝していた、あるいはその作家のSNSをふだんから見ている

・誰かのレコメンド→◯◯さんのおすすめということは、彼の最近のこういう問題意識に合致した本なのだろう

・三部作の真ん中→最初のはこうで最後のはああだから、たぶん内容もその中間にあたるのだろう

・文学的、学問的な価値→『君の膵臓をたべたい』の作者だから読む必要はないだろう、尖ったSF賞の受賞作だから自分の好みには合わないだろう

……エトセトラ。

 

ぱっと思いつくだけでもこれだけある。普段の暮らしのなかで、この手の予備知識や部分的に読んだ箇所、友人との会話から察した内容等々、断片が自分のなかに蓄積されていく。その総合がある閾値にとどくと、読まなくてもだいたいわかるし、読んでみてもほとんど想像どおりの内容が書いてある、という状態に達する。タイトルに書いた"積んでおくだけで頭に入ってくる"とはおおよそこういう意味である。

 

 また、時代が遠すぎたり、予備知識があまりに乏しいと、じっさいに本を読まずに、周縁をうろうろするだけで済ますほうがかえってよく理解できる場合も多い。たとえばわたしは高校生のころ、突然にカントの『純粋理性批判』を読んでみようと思いたち(たんに哲学に興味があったからで、ビッグネームなら誰でもよかった、カントはたまたま便覧で目にとまっただけにすぎない)、友人と日に何ページかめくっていく試みをしてみたことがあるが、当然まったく理解できなかった。

当時の自分にアドバイスするとしたら、「ちくまから出ているカント入門や、光文社の出してる別角度の講義録をまず読んで、それでもまだまだ興味が尽きないなら、三世紀もまえの人間でコスパは悪いと思うけど読んでみたらいいんじゃない、でもカントって人文書で死ぬほど言及されるから、“こういうことを言った人”程度の常識なら、適当に本読んでるだけで勝手に頭に入ってくるぞ」くらいのことは言ってあげたい。

ともあれ、予備知識もなくいきなりカントを読む行為の愚かしさ、その田舎者っぽさをいま思うとけっこう恥ずかしい。ここでは掘り下げないけども、インターネットが普及した現在でも情報の偏在は平気であって、都会の読書家は同時代のものをよく読むが田舎の読書家は古典ばかり読む。

 

 

* 社交における文化のゲーム(2/4)

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 ピエール・ブルデューが文化と社会の関係について記した著書、『ディスタンクシオン*2』において明らかにしていることだが、映画好きの人々、だいたい同じくらいの頻度で映画を観る人たちのあいだで、社会階級によって明確に差の生じる部分がある。それは映画の予備知識である。

労働者階級の人々は映画をたくさん観ても、監督や俳優の知識はあまり広がっていかないが、上流階級*3の人々は、観ている映画の量に比して、監督や俳優のことをかなりよく知っている。しかもそれは、辞書を開いて暗記するわけではなく、それ以前の育ちのなかでごく自然に身につけた能力なのだ。

 

 ようするに、ハイソな人たちは映画を観るとき、画面で起きていることを視界に入れるだけでなく、俳優や監督についての知識を得て、頭のなかで網目状の体系を作りだしている。この網目は応用が利くので、じっさいに作品を観たことがなくとも、作品の内容を補うことができる。たとえば◯◯監督の19XX年の作品で、△△主義の影響下にある、という情報さえ知っておけば、つまり網目のどこに位置づけられるのかわかってさえいれば、他人とその映画について世間話をするぶんには支障がない。そしてハイソな人々は、映画や劇、音楽、本等々についてある程度知識があることが嗜みとされ、社交のファッションとして身につけておくべしというプレッシャーがある。

 

 文化貴族的な理解の枠組みについて、上で“網目状の体系”と書いたが、この枠組みの存在感はかなり大きい。世の中では、クリエイティビティが評価されているようでいて、実のところは社会において特定の位置を占める椅子の、ようは枠組みの問題であることも非常に多い。

たとえば櫻井よし子や稲田朋美のような右派の女性論客たちは、べつに発言内容が優れているから人気があるわけではない。彼女たちは前時代的な家父長制を推すとき、不遇な扱いを受けるはずの女性という立場から男性的なシステムに賛同する比較的珍しい立場であるがゆえ、名誉男性枠として取りたてられているのだ。

もうひとつ例を挙げる。欧米のメディアが九十年代のポップ・ミュージックでベストリストを作るさい、日本からBoredomsCorneliusが加えられていることがちょくちょくある。両方とも素晴らしい作品を残したことは間違いないのだが、あれは欧米のメディアが第三世界にも目を向けていることを示すため、免罪符のような感覚で入れてあるのであって、日本の音楽を聴きこんでいるわけではないだろうと訝ってしまう。音楽にかぎらず、映画やレコード屋、書店などのベストリストを世界規模で作るときには毎回存在を感じる二十一世紀枠である。

 

 本についても同様のことがいえる。中高生の青春小説というジャンルでも、綿矢りさは文学的だが住野よるは子供だましなんだろうとか、ミステリーという枠に収まってはいても、東川篤哉(『謎解きはディナーのあとで』の人)が書いてるのは他愛のない作品で、森博嗣はおもしろみがありそう、というふうなことは、ほとんどの人が読むまえのどこかで判断を下しているのであって、じっさいの中身も、世のなかでどんな位置を占めているかでおおかたの予想がついてしまう。そして表面的な社交においては、作品の中身などという審美的なレベルまで話が立ち入ることはほとんどなく、基本的にこの位置づけだけが問題となる。

 

 もちろん予想が覆ることもある。たとえば村上春樹をはじめて読んだときのことだ。「よく茶化されているように、寡黙な男がやたらと女を口説いて寝る、そして“やれやれ”と不満をこぼす、感傷的な小説なんだろう」というイメージで最初の二作を読んだら、想像をはるかに越えるレベルの高さと複雑さに面食らった覚えがある。ナメててすみませんでした……。まあこんな具合で、ときおり世間的な評判と好事家の知見がきれいに割れず、複雑に分裂したり合致したりする場合があり、そのとき作品はリトマス紙のような、あるいは踏み絵のような効果をもたらす。twitterで盛り上がる論争は、おおかたこの踏み絵をもとにして、様々な陣営に分かれて行う文化のゲームと言っていい。

たとえば今年の大ヒット映画、『天気の子』についていえば、「宮崎駿の後釜」「まさか、宮崎駿とは比べようもない粗雑なエンタメ作品」「エンタメ作品として受容されているが、じつは人新世(アントロポセン)という現代思想の潮流を汲んだ哲学的な作品なのだ」「とんでもない、そんな哲学を持ち出すほうがお門違いだ」云々。

たまたま今日見かけた例も挙げると、「ナチスほど芸術に造詣が深く美的感覚に鋭敏だった政党はなかなかいない、これは動かしがたい事実。」というブコメ*4に、「ナチスは結局のところ音楽の趣味が悪い」と反論するツイート。これぞ文化のゲームという好例である。

  この手の論争はどれも、ある作品を審美的に検討する作業はいったん棚上げにして、それを社会のどの位置に置くのがふさわしいかを論じる文化のゲームをしているのである。それこそあいちトリエンナーレの話題だって、じっさいに芸術展でどんな展示がなされているかは無視されがちな現状を思い出されたい。

  

* 予感の最大化(3/4)

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 どこで読んだのだったか思い出せないが、青土社バタイユブランショ、サド、ロートレアモンなんかのデロデロしたフランス文学特集を組むとよく売れるけれども、取り上げられた作家たちの翻訳本はその特集の十分の一しか売れない、という話を読んだことがある。そうだろうなと思う。ここで挙げた作家の名前は置き換え可能で、アメリカ文学特集でもいいし韓国文学特集でもいい。

つまり、ある作品が浸透するよりもずっと速いスピードで、その作品の周縁の言説が生成されていくのである。ある作品の入門書、その入門書を書いた人物についての解説書、あるいは作品の位置する潮流を紹介する書籍……というふうに。もとの作品をさしおいてこのような周辺の補遺ばかりが増幅されると、もとの作品の絶対性が弱まるのはもちろんのこと、なにを見ても、なにに触れても、まえもって予感されたものばかりという事態に陥りかねない。

じっさい、その年ナンバーワン級の大ヒット映画だと、劇場で観るまえに「晴れ女のヒロイン」「前作よりも暗いらしい」「東京の街並みがめちゃめちゃ金をかけて描かれるらしい」「人新世がどうのと言われている」「世界かヒロインかというセカイ系おなじみの二択でヒロインをとるらしい」等々をある程度了解したうえで多くの人が映画を観たはずだ。直近の作品では、タランティーノの『ワンスアポンアタイムインハリウッド』のように、予備知識を前提として成立する作品も珍しくはない。

 

 また、最近ではフィルターバブルという言葉が聞かれるようになった。この単語は、SNSやブラウザを巡回するうち、そのユーザーに最適化された広告やおすすめばかりが表示されるようになり、見たい情報・都合のいい情報しか見えなくなる──そうして観測できる世界が閉じてしまうと、自身の発言に同調するような内容ばかりがはね返ってくるようになり、異質な言説に出会うことがなくなってしまう──現象のことを指す。

インターネットとフィルターバブルが前景化した現代は、過去に存在したどんな時代よりも予感が大きくなり、異質なものに出会うチャンスが減じた時代であるといえる。しかし、そういう時代だからこそ、否定的な感想の持つ価値が大きくなっていて、否定がアイデンティティやテイスト(趣味嗜好)の拠り所になるのではないだろうか。

ある人が映画を観にいき、あまりのひどさに憤りながら劇場を出てきたとして、彼/彼女が、なぜそんな事態に陥ったのか考えてみよう。大抵の人はひどい映画だと予感しながら観にはいかないので、その人物が属するコミュニティの力──SNS上の「絶対観たほうがいいよ!」「まだ観てないの?」──や、あるいは広告の力が劇場に足を運ばせたことになる。ネガテイブな感想とは、コミュニティのなかでの孤立か、マーケティングのミスマッチなのだ。

なにが言いたいかというと、否定的な感想が出るとき、その人はようやくマーケティングから、フィルターバブルに包まれた均質なコミュニティから脱することができるということだ。twitterで「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ!!!」という言葉が名言風に流れてきたことがあるが、コンテンツも人間関係も選択縁の割合が増えた現代においては、ふつうに生きていると好きなものに包まれながら生きていくことになる(そして特定のコミュニティの一員であることを発話するbotに近づく)。だからこそ、自分の趣味嗜好を定義するには、なにが好きかだけを語るよりも、決定的に自分に合わなかったコンテンツについても語るほう適している。まだ記号的な段階ではあるが、個性が浮かび上がってくることになる。

 

* 読書の駆動性、ダイナミズム(4/4)

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 ここまで書きながら、あえて手を触れず、自明であるかのように扱ってきた倫理がある。 それは、本や映画などあらゆる文化は情報であって、実物を通さずとも伝達したり、転写したりできるという倫理である。

だが、読書家たちが読んでいない本について知ったかぶりをし、表面的な社交に精を出すために本を読んでいるのかというと、まったくそんなことはなく、文化のゲームはちょっとした余技にすぎない。読書好きは社交のために読むのではないし、なんらかのスキルを身につけるためでも、情報として頭に入れるために本を読むわけでもない。そんなふうに静的で、取り出したり検索したりできる知識のために本があるわけではない。

少し長いのだが、『百年の孤独』について、ひいては読書の魅力について書かれた保坂和志氏のエッセイ*5を引用する。彼の読書の姿勢には頷けるところが多い。

百年の孤独』の本当に凄いところは、それらひとつひとつのどれをとっても薄い一冊の本にはなりそう内容を惜しげもなくなく消費し──だから『百年の孤独』の面白さを語るときに一つのエピソードを抜き出すのはいわば辞書的な知識のようなものでしかなくて──、それら次から次へと続いていく出来事が何年間のうちに起こったことなのかほとんど不明瞭で、その時間的な定着の困難さがゆえかページをめくるそばから読む私は書かれた出来事を忘れていって、そんなことはいっこう気にせずに今読んでいる部分の出来事の連鎖にどっぷりとつきあい…(中略)

とにかく静的な記憶として極めて定着させがたいページをめくりつづけるという行為そのものの中に『百年の孤独』があり…(中略)

読書とは第一に“読んでいる精神の駆動そのもの”のことであって、情報の蓄積や検索ではない。ということをたまに素晴らしい本を読むと思い出させられる。

 わたしにとってオールタイムベストの一冊が『百年の孤独』であるために、彼の評にはいっそうの共感を覚える。あれほどまでに没入してしまい、読んでいる時間が鋭利に際だち、本のなかの世界がこちらの世界に干渉してくる本は他にない(人文書だとフーコーの『言葉と物』なんかもちょっとそうかも)。

勉強のため、あるいは資格のために“読んでおかなければならない本”や、“読んでいれば(あるいは読んでいるふりをしておけば)バカにされない本”はある。しかし、読書の愉しみの文脈で、“読まなければならない本”などというものは存在しない。とりあえず積んでおけば、なにがしかの文脈をとおして本のことは頭に入ってくるので、ある本について語るためにその本を読んでおく必要はほとんどない。気軽に情報ににアクセスでき、いくらでも知ったかぶりができる現代だからこそ、文化のゲーム領域は拡大している。そしてまさにそういった理由で、文化のゲームは深い理解を必要としないのだ。深い理解や本質や審美なんて水準とはかけ離れた場所で、ゲームはこれからも生き延びていく。労力の削減やコミュニティ生成のためのスノッブな遊びとして。

だが読書の愉しみはゲームとは別のレベルにある。それは読んでいる瞬間のダイナミズムなのだが、動的であるがゆえになかなか人と分かちあえるものではない。読んだ本の価値は自分にしか測れない。

 

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

 

 ※読んでません。目次は見た。だいたい似たようなことが書かれているのだろうと想像したが、はたして……。

 

twitter:  

 

・追記

 書いているうちにジェームズ・マーフィーのことを思い出した。LCD SoundsystemのLosing My Edgeという曲をご存知だろうか?詳しい説明は省くけども、中年の音楽家が、自分のうしろから続々と登場する若者たちによって立場を脅かされている、と嘆くダンス・トラックである。

vimeo.com

 

1962年から1978年までのすべてのいかしたグループの、すべてのメンバーの名前をおれに向かって暗唱できるインターネット・オタクのせいで、おれはキレを失いつつある。
おれはキレを失いつつある。
東京やベルリンのガキどものせいだ。

 ずっとこんな調子だ。中年の男が、音楽に詳しく、センスもいい若者たちに不満をこぼすラインが続く。彼は若者たちのことを快く感じていないが、それでも「おれよりも才能があり、優れたアイデアを持っていて、しかも見た目がいい、そして実際、音楽もすごくすごくいいんだ」と認めている。認めたうえで、でも待ってくれ、おれはキレを失って、クールな存在じゃなくなりつつあるが、でも……と弁明するように語りだす。そのときの言葉がこうなのだ。

でもおれはそこにいた。
1968年のあの場所に。
ケルンで行われた最初のカンのライブに。

 おれのほうがよく知っているはず、レコードを持っているはず、と苦し紛れに語るこの文化のゲームにおいて切り札となる一言が、「でもおれはそこにいた」であることはなかなか興味深い。音楽という、要約や言語化がむずかしく、精神的なものと捉えられやすい芸術において、自身をもっとも卓越化する(マウントをとると言い換えてもいい)言葉が「でもおれはそこにいた」なのか、という。

あじっさい、カンの最初のライブにいたとか、キャプテンビーフハートが音楽はじめたときに口出ししてやったとか言われるとこっちもおおっと思ってしまうのだが、もっとも、こういう卓越化に価値を置くことが、もしかすると自分が古い人間であること、歴史についての歴史に通じていること、文化がわかることを誇示すること、また、業界のプロップスを上げることを示すのかもしれないと思えば、いろいろと感慨深いものがある。追記なのと、もう疲れたのであんまり掘り下げませんが。

 

藤田祥平氏による和訳と解説は以下。おもしろい記事です。 

kakuyomu.jp

*1:著者の奥野克巳氏の文章をLexiconや現代思想の人類学特集で読んでいることと、タイトルがあまりに直球で、“人類学者のエッセー”というあの一大ジャンルを要約しているため。おそらく日本の現代社会とは異なる倫理や経済の利害計算を語る一般向けのポップな本なのだろう。

*2:余談。サッカーを習わせている家よりも、テニスを習わせている家のほうが裕福そうな気がするのはなぜ?中産階級がやたら印象派を好む(そしてそれはしばしば笑いの対象になる)のはなぜ?というふうな疑問、すなわち、文化と、その文化が社会で占める位置について疑問に答えうる見取り図がきっちり示されている本。ハイソな文化貴族は表象に留まるが、そうでない者はその意味が明らかにならないと満足しない──ようするに深読みしてしまう──という話も載っていて小気味がいい。これさえ読んでおけば、最初から装備が揃った状態で文化のゲーム(意地の悪いゲームである)をはじめられるぞい!!

*3:ブルデューの調査においては父親の職業で決定される。

*4:https://htn.to/2uEG3FTHuJ

*5:『読書という精神の駆動』より。