最近の日記(記憶に残っている日)

・花

友だちが引越し祝いに大量の花を持ってきてくれる。家じゅうの花瓶に生けてもまだまだ足りないので、深い鍋に生ける。それでも足りないのでフライパンにも生ける。部屋がほんとうに明るくなって嬉しい。

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・乳首が3つある人

三丁目の上海小吃で大声で話していた日、雷に打たれたように突然思い出した。私は「生存に影響を及ぼさない奇形」が好きだった。生存に大きく不利な奇形(脳がないとか、肺がないとか)の人は生きていくことが難しいので、現世で観測できるのは生存に影響を及ぼさないものばかりだ。
出会った数はあまり多くないが、漏斗胸の人、小さな小指が足の指が六本ある人、首の骨の節がひとつ多くて、言われてみると首が長くカーブしている人を知っている。

昔乳首が3つある人のAVを見たことがある。かなり面白かった。2つの乳首の真ん中にチャクラみたいな乳首があって、冒頭でこんな会話をする。

「乳首が3つあるってどんな感じ?」
「1.5倍気持ちよくてお得な感じ(笑)」

これはいま考えても相当おもしろいんじゃないかと思い調べてみたが出てこなかった。
記憶が確かなら、その女優は別のAVだと乳首2つ状態で出演していて、10代の私は「奇形の特殊メイクなんてやるんだ……!」と衝撃を受けた。本物の奇形のAVよりもそっちのほうがおもしろい気がするので、タイトルを知っている人がいたら連絡ください。

 

・やがて見えなくなる花

南方熊楠は死ぬ直前、「天井一面に紫の花が咲いている、医者がくると花が消えるから呼ばないでくれ」と話したそうだ。自分はいま社会的な去勢の過程にあり、紫の花が日によって現れたり消えたりするので切なく聞こえる。まだまだ余裕で見えているが。

 

・6000円のカット

2021年までずっと髪をなんとなく自分で切っていていたのだが、友だちに勧められて、人生ではじめて6600円(税込)のカットへ行ってみた。めちゃめちゃよくて感動した。

能力如何もそうだが、自分のために贅沢に時間を割いてくれることや、差し出される技術に安心して身を任せる喜びが嬉しかった。あとふつうに見た目がよくなった。みんなこの世界線にいたのか……?2022年はこういう感じでいきます。

 

・写真を始めると何が身につくのか

隅田川で満月を見ながら思ったこと。ピアノを習うと音感がつくし、そろばんを習うと目の前にそろばんがなくとも計算機器を出現させる具現化系の能力が手に入るが、カメラはどんな能力が体に残るのだろう。カメラが目の前になくても失われないパッシヴなスキルってなんなんだろうか。

いまのところの答え→
自分の視覚が所与のものでないことを自覚し、稀有な条件下で見えているだけだとわかる。計器がつく。

たとえば明るいところから暗いところに入った瞬間、「いまF値が1台になった」と気づいたり、露光量がおおよそわかったりする。「センサーが小さいからあまりボケないなあ」「AFめちゃめちゃ速い」などとヒトの視覚をメカニカルに捉え直すことができるようになる。当たり前のように見ている景色も、諸々の数値が少しずれるだけで供給されないことがわかる。

ということを、隅田川で満月を見ながら思ったのであった(月が綺麗ですね、ということはISOはまあ800くらいですね、みたいな……)。

 

・「美術館」と「アート」

Twitterには、興味のあるキーワードにチェックを入れて、それに合わせたレコメンド表示させる、いわゆるおすすめ機能がある。ためしに「アート」にチェックを入れると、とても「アート」に関係あるとは思えない投稿ばかり流れてくるのだが、「美術館・博物館」にチェックを入れると、そこそこの精度で関連のツイートが表示される。これはけっこう面白い話だと思う。

情報伝達や教育の再現性に関わる話なのだ。関連の投稿を呼び出しているのはAIだが、人間もあまり変わらない。身近やレベルでいうと、「アート」の階層で人に何か言っても伝わらないが、「美術館・博物館」の階層で言うと伝わるし、連帯もしやすい。まあもっと卑近な話だと、マッチングアプリで表示する趣味のタグは、「美術館・博物館」にチェックを入れるべきで、「アート」の優先度は低い。間違いない。

 

・風をあつめて

15歳くらいから思っていることだが、

“ひび割れた玻璃ごしに摩天楼の衣擦れが舗道をひたすのを見たんです”

みたいな歌詞を有り難がってたらいかんだろう、という気持ちを突然思い出した。カラオケにて。でも大声で歌いました。

 

 

・一方通行のコマンド、逃げる

湘南へ遊びに行く。釣りに挑戦する。友だちから進路(?)の話を聞く。
IT系の仕事をやめてフリーでしばらくやってみようと思うが、会社に本音を打ち明けてやめるやめないの話をするのは心が折れるので、やめざるを得ない理由を適当にでっちあげて(親の介護とか?)退職してしまおうかと思う、という内容だった。

自分は学生時代、バイト先に制服を返さずやめるタイプだったので、バックれ気味にいなくなってコミュニケーションを絶つやり方はよくわかるのだが、最近はたまたま別のモードだったので別な意見を言った。

その手の「逃げる」ムーブは逆行ができないタイプの動きで、転職だろうとコミュニティからの離脱だろうと、一回やると元々いた場所に戻れなくなる。自分は今までの人生だいたい逃げるムーブで動いてきたので身軽ではあるが、そろそろ可逆性のある動き?水平移動?なーんかそういうのを覚えた方がいいのでは?という声を無視できなくなってるんだよね、だから損しない程度にちゃんと言ってみたらいいと思う、という意見である。進路の話をしていた彼はなんとなく納得したようだった。まあほぼ自分への言い聞かせだった。

余談だが、私の考えだと、逃げるムーブに慣れた人間、自分は逃げた結果ここにいると自認している人間は、「自分は努力によって今の地位を得た」「努力によって可能性は拓ける」というネオリベ的な価値観と親和性がないので、人格的に信用しやすいなと思っている……。

 

 

・最後に思い出すもの

楽しみな予定を前に、美容院の予約をして(6000円のやつ)ゆっくり風呂に入り、仕事を片付けるべく夜中まで作業していたが予定そのものがなくなってしまった。やるせないぜと思いながらなんとなくONE PIECEBLEACHを1話ずつ読んだら元気が出たのだが、こんなので元気を出していたらマジでやばいんじゃないかと突然思った。

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私は母方の祖父を5年前に亡くしているのだが、最期に抗がん剤の治療でせん妄状態になったとき、祖父は就職を断って故郷へ帰る場面に何度も立ち戻った。60年ほど前の記憶である。

祖父はまだ若く、記者志望で、新聞社から内定をもらっている。しかしいざ就職する段になって故郷の親が倒れ、家業を継ぐために戻るよう説得を受ける。彼は悩んだ末に故郷へ戻る決断をする。そこで新聞社の内定を断らねばならなない。彼が立ち戻るのはその場面なのだ。
「でも本当に家へ戻らねばならんのです……申し訳ありません……こんなによくしてくださったのに……あなたのお名前はなんというのでしょうか……?」と。

周囲の家族はその都度新聞社の役をする。素直に自分の名前を答えても、彼を混乱させることはない。なぜなら彼が就職する時点で、周囲の家族は──最終的に棺のまわりを囲む人びとは──まだ生まれていないからだ。彼が逡巡の末故郷に帰ったことで、この世に生を受けた人たちだからだ。
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せん妄状態で、わけがわからなくなった最後の最後で、人生の特別な分岐点に立ち戻るのはあまりに重く、私は最後の最期で彼の人生を痛切に受け止めた。のだが、これがなんの話かというと、人生の最後になにを思い出すだろうか?という話である。

深夜にPCに向かいながら、私はこのままいくと最後に出てくるのがONE PIECEBLEACHなのではないか?というそれなりに切実な悩みを抱いたのだった。最近上司とほとんど同じ話をしたせいで日に日に不安が大きくなっている。

俺たちはやるよ。