戦争に反対する唯一の手段は……/文化的雪かき

 

 ・戦争に反対する唯一の手段は……

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戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。

吉田健一『長崎』

 

一月の末、夜中にtwitterを見ていたら、「ちゃんと生活したい。キーマカレーおいしく作れました。」という投稿が流れてきた。なんとなくその発言のツリーを見ると、こんな会話が続いていた。

 

「おいしそう!ちゃんと料理しててえらい!」

「ありがとう。吉田健一の言葉、『戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである』を忘れないで暮らしていきたいです。*1

 

 

この手の引用は、「戦争に反対する唯一の手段は……」が引っ張り出される典型的な文脈で、特に珍しいものではない。個人が慎ましく暮らす生活のワンシーンに寄り添うイメージだ。

だがわたしはもう何年も、この言葉の使われ方に違和感を覚え、SNSでも言及してきた。そろそろ違和感の正体をはっきり言語化しておきたいと記事を書いている。

 

吉田健一の言葉の文脈を補うと、

戦争に反対するもつとも有効な方法が、過去の戦争のひどさを強調し、二度とふたたび……と宣伝することであるとはどうしても思えない。戦災を受けた場所も、やはり人間がこれからも住む所であり、その場所も、そこに住む人たちも、見せ物ではない。古きずは消えなければならないのである。


戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。過去にいつまでもこだわつてみたところで、だれも救われるものではない。長崎の町は、そう語つている感じがするのである。

になる。毎回引用される部分に加えて、戦争の悲惨さを宣伝することは有効ではない、という主張がつくのだ(話が枝分かれしすぎるので触れないが、この辺に糸井重里っぽさがある→*2 )。いったい何を意図していたのだろう。

『長崎』はちょっとググると全文出てくるが、論証や根拠を示す内容ではなく、ごく短い感傷的な紀行文として書かれたことが読めばわかるはずだ。文庫に収録されておらず、随筆集なんかにもあまり入っていないので、図書館へ行かないとなかなか紙では読めないかもしれない。

 

ともあれここで言いたいのは、吉田健一の言葉には、「戦争の悲惨さを宣伝するのは有効ではない」と付されていること。そして、「慎ましく暮らすこと・生活のメンテナンスをていねいに行うこと」としばしば関連づけて語られること。この二点が伝わればとりあえずは充分だ。

 

  

・雪かき

吉田健一の言葉と並列して、「雪かき」を紹介しておきたい。

内田樹村上春樹論には、「雪かき」という概念が登場する。村上春樹作品本編の『ダンス・ダンス・ダンス』にも、「文化的雪かき」という言葉が出てくるため、かなり知名度が高い。内田樹の方を引用してみる。

 

雪が降ると分かるけれど、「雪かき」は誰の義務でもないけれど、誰かがやらないと結局みんなが困る種類の仕事である。プラス加算されるチャンスはほとんどない。でも人知れず「雪かき」をしている人のおかげで、世の中からマイナスの芽(滑って転んで頭蓋骨を割るというような)が少しだけ摘まれているわけだ。私はそういうのは、「世界の善を少しだけ積み増しする」仕事だろうと思う。
内田樹村上春樹にご用心』

 

内田樹は、村上春樹の世界にはスケールの大きな面がある一方、「雪かき」を大切なものとして見つめる視線があると指摘する。

たしかに村上作品においては、料理や掃除などの家事をていねいに行うことによって、邪悪な存在がもたらす喪失に耐え、抵抗するモチーフが多い。家の内側において、家事はまさしく雪かきのように、「世界の善を少しだけ積み増しする」行為といえる。

 

市井のレベルでは、「これやって何になるんだろう」「誰が見てくれてるんだろう」と自問せざるをえない局面で、「これは雪かき仕事なんだ、些細だけれど世の中をよくしているんだ」と自分を鼓舞するような使い方を見かける。そして場合によっては、雪かきは大きな使命につながっている。たとえば大きな喪失、戦争などへの抵抗。

 

 

さて、こんな風に「雪かき」について書いてみて、なんて魅力的な思想なんだろう、と驚く自分がいる。

もしわたしが十代でこの思想に出会ったら、体に電流が走ったのではないかと思う。そして、「家事や雪かきのような行為で少しずつ世の中をよくすることができて、ひいては邪悪さに抵抗できるはず」と信じたに違いない。

しかし今のわたしはこの思想のスイートさ、思わず飛びつきたくなるやさしさを感じつつも、どこか嘘をつかれているような感覚を覚え、とっさに距離をとる。最初に挙げた「戦争に反対する唯一の手段は……」を見かけたときの違和感もそれに近い。

 

この記事で問題にしたいのは、そのような「やさしい抵抗」の態度を今掲げることの是非である。 

 

 

 

・慎ましい生活を免罪符にする思考回路

ここからは推論だが、「雪かき」や「各自の生活を美しくして……」などの「やさしい抵抗」に惹かれる人にはおそらく共通の精神性がある。思い切って約言してしまおう。

 

「戦争に反対するといってもアクティビストのような振る舞いはできないし、どんなことをすればよいのかもわからない。

ただ、自分が知覚できる範囲で善を積み増しできる行為、つまり家事や雪かき(比喩ではなく、ほぼそのままの意味での家事や雪かき)に勤しむことで世の中が悪くなることはないだろう。

とりあえず自分の生活をよくすることで、ひいてはひとりひとりの生活がよくなることで、世の中全体がよい方向へ向かうと信じたい」

 

「やさしい抵抗」は彼らにとって免罪符になる。なぜならこの思想に帰依しておけば、大声で戦争反対などと言わなくとも(そんなことは恥ずかしくてできない)、積極的に見聞を広めなくても(そんな暇はなく生活で手いっぱいである)、自分の楽しみを追求し、粛々と暮らしていれば戦争反対がセットでついてくることになるのだから。行動的でない人にやさしく、自信のない人にも唱えやすい。しかし、ほんとうにそれでよいのだろうか。反戦の助けになるのだろうか。

 

吉田健一のほうでいうと、「美しく」の部分に、周囲の暴力に対する徹底的な抗戦を読み取ったり、「執着する」のところに積極的な反戦活動(なんらかの署名活動をSNSでシェアするとか、デモに行くとか、ユダヤ人を家に匿うとか)を見出すことができれば違和感も感じないのだろうが、素直にあの言葉を読み、広まっていく文脈を見るに、「とにかく半径一メートル、半径ワンクリック圏内を快適な状態にしておけばあなたに責任はないですよ」と囁くだけの文句になっている気がしてならない。

 

差別や暴力について、とにかく放置して不干渉を貫けばなくなると考える人はいない。しかし奇妙なことに、戦争となると不干渉こそが正しいという風潮が広がり、消極的な「やさしい抵抗」が美しいスローガンとして持て囃される。しかもそれが、自国の利益を第一に考えるナショナリストからではなく、ヘイトスピーチや遠くの戦争を気にするはずの左派の文化系から聞こえてくる。

だが、そこにあるのは遠い他者への想像力ではなく、視野狭窄であり、パーソナルスペースだけを残した責任の切断ではないか。結局はただの逃避ではないか。自分が積極的な関わり方をしなくて済む思想に飛びついて、安全な部屋でまったり過ごしているだけではないか。

 

 

歴史的に見て、「やさしい抵抗」は、文化的な場所で繰り返し発信され、増幅されてきた。たとえば、「雪かき」は吉川宏志歌人)の評論で引用され、短歌という文学の本質に雪かき仕事があると評されている*3

「各自の生活を美しくして……」のほうはいわずもがな、ピチカート・ファイブの小西康陽が広めた言葉である。それぞれの創作活動と連なった説得力があり*4、彼らの指摘がまったくの的外れだとは思わない。しかし受容のされ方を見るに、功罪の両面があると言わざるをえない。

 

あからさまな政治的腐敗、未知のウイルス、中東の情勢不安……少し前には到底信じられなかった悪夢を書き割りにオリンピックへ急ぐ日本で、わたしたちはいかに反戦について考え、いかに生活を描写すればよいのだろうか。

途方に暮れた人々を甘言で誘う思想はいくらでもある。だが少なくとも、戦争を、生活を、想像力の届かない暗がりに隠してしまっていいわけがない。

 

twitter: @LeoLeonni

*1:あまりにとばっちりだと思うので元ツイートのリンクは貼りませんが、その気になって検索すれば今でも見ることができるはずです。ちなみに作家のツイート。

*2:最近、コロナウイルスについての情報が錯綜するなか糸井が自身の過去の発言を再度発信し、話題を呼んだ。https://twitter.com/itoi_shigesato/status/466250875824898048

*3:震災後、と書いていましたが、正確には震災前の09年でした。訂正してお詫びいたします。

*4:余談ですが、ここで挙げた両名ともに多大な影響を受けています。わたしのOMGベストDJプレイはセカロイの周年イベントで7インチを暴力的に繋ぎまくる小西康陽のプレイですし、好きな歌人を尋ねられて真っ先に挙げるのが吉川宏志です。