ナイナイ岡村の「風俗」発言・矢部の説教は、何が問題なのか 〜性差別を正しく指摘するために〜

 

* ナイナイ岡村の「風俗」発言について

 

個人のブログにもウェブメディアにもまともな記事がほとんどなく、これならわたしが書いた方が全然いいじゃん、と思ったので書いています。岡村の発言についてよりも、矢部の説教についていろいろ書いておきたいことがある。

 

コロナ明けたら、なかなかのかわいい人が短期間ですけれども、美人さんがお嬢やります。これ、何故かと言うと、短時間でお金をやっぱり稼がないと苦しいですから。

(中略)

だから今、我慢しましょう。今は本当に我慢して。はい、コロナ明けた時に、われわれ風俗野郎Aチームみたいなもんは、この3カ月、3カ月を目安に頑張りましょう。

headlines.yahoo.co.jp

 

四月の末からこの発言が炎上していた。「コロナウイルスの自粛明けには経済的に困窮した美人が風俗店に在籍する。それを楽しみに今は自粛しよう(大意)」という内容だ。

問題点としては、品性のなさ、露悪性、非対称な社会構造に対する想像力のなさ、背後に見え隠れする芸人のホモソーシャルなノリ*1などが挙げられるだろう。
ただ、不愉快な発言であることはよくわかるが、直接的な差別でも中傷でもないので、表面的な非難(サイテー!下劣!)以上のクリティカルな批判が難しいように思う。

そもそも性風俗で働いている女性は、別に全員が強制されて/不本意な選択としてその職業を選んでいるわけではない。好きな職業に就く自由がある以上、「特別な経験を求められないから」「若さや美貌を効率的に金銭に変えられるから」などの理由で主体的にその仕事を選ぶ女性も少なくない。その一方で、非常に限られた選択肢のなか、不本意な労働で苦しむ女性もいる。
 

たしかなことは、風俗業界をなくせば済む単純な話ではないということだ。主体的に働いている人からすればなくなって困るのは当然であるし、不遇な人にしても別の問題がある。
仮に、困窮して家賃が払えず、ホームレスになるか風俗で働くかの二択だと思いつめた状態で風俗を選んだ人であれば、風俗をなくせばホームレスになってしまうわけで、教育や福祉が困難な人々をどこまでケアできるかという複雑な問題が絡んでくる。

何にせよ、岡村を批判する文脈で持ち出される「セックスワーカーは不遇な人々であり、風俗を利用する男性は差別的だ」という発言は、一部に当てはまる一方で、きちんと背景を踏まえないと、批判者がセックスワーカーに抱く蔑視を吐露するだけのものになってしまう。個人的な観測範囲だが、わたしのtwitterのタイムラインでは、風俗で働く女性数名が「岡村の発言は褒められたものではないが、岡村への批判の方により強い違和感を覚える」と発言していたことが印象深い。
主体的に風俗で働いている人からすれば、「あなたたちは搾取されている」と外野から突然言われれば戸惑うだろうし、彼女たちにとっては一銭にもならない。岡村を批判したいあまり、風俗で働く人々の尊厳を傷つけては元も子もない。結局この問題は、風俗の現場で働く人々の生活や幸福を抜きにして語るべきイシューではない。

 

いちおう性風俗についてのわたしの見解を述べておくと、

職業選択の自由がある以上、風俗を含めた売春を全面的に禁止すべきではない。
セックスワーカーの権利を手厚く保護すべき。
・風俗で働く人々も、風俗に客として通う人々も蔑まれることのない社会が望ましい。

くらいのもの。 

どんなふうに読まれるかわからないので断っておくが、ここまでの文は岡村擁護ではなく、岡村への批判批判である。

 

= = = = =

 

* 矢部の説教について

 

岡村の発言を受け、相方の矢部が4/30にラジオ出演し、岡村に説教することとなった。個人的にかなりまともで誠実な内容だと思ったが、身の回りでも、ネットの有象無象でも批判が多かったため少し驚いた。以下は個人的に重要だと感じた箇所の抜粋。

 

一緒にいる時間が少なくなったことで、たまに会うと「おお、こんなこと言ってまうか」って思うときがめっちゃある。
たとえば、(矢部自身が)結婚生活の秘訣を聞かれたときに、「ありがとうと、ごめんなさいです」とコメントした。それに対して、「白旗上げたんか」って言ったときは、「女性を敵として見てるねんな」って思った。女性にコンプレックスあるのも、相手の女性も知ってるけど、そういうのも含めて岡村隆史の根本なんやなと思った。

 

(中略)

 

マタニティマーク付けてるから席譲ってください」っていうのに対して、岡村隆史は「あれ、いる?見たら分かるやん」って言った、それも無意識に言ってた。あまりに怖いから流したけど。
あれは、3ヶ月、4ヶ月とか見て分からへん妊婦さんが分かるためにするためのもんや。女性と付き合ってたらそういうところも指摘されるし、子供にドキッとしたこと言われたりもする。

これをきっかけに結婚したら?チャンスもらったと思って。
番組でも困ったら風俗ネタに逃げることもあったやん、でもスタッフがカットしてくれるやん、しかもこの時代はもうウケへんやん。それやったら、「今気になってる子おる」ってエピソードの方がおもしろいし、しっくりくる。腑に落ちる。

全く女っ気ないとか誰も思ってないし、50歳で風俗の話ばっかりして、幽霊みたいな話やん。
反省してるのも伝わってるから、今もし一番近い女性がいたりするなら、相手のこと考えてるなら進展させるとか、無理やって思うんやったら解放してあげるとか。

 

(中略)

 

なんも怖くないから。恋愛なんかそこら中で付き合ったり別れたりしてるし、飛び込んでみたらええねん。49歳のおっさんに48歳のおっさんが言うことじゃない。恥ずかしいで。

1yomeblo.com

 

もう一度読んでも、やはりまともで誠実なアドバイスだと思うが、どうだろうか。矢部の発言については様々な角度からの批判があり、そのうちいくつかを取り上げて考えてみたい。

 

 

・既婚者マウント(?)の批判、未婚は半人前とする価値観への批判


大野左紀子氏の引用。これはおそらく、「人は結婚してこそ一人前」という旧来の価値観に対する批判だろう。特に妻帯者の社会的信用の内に「女性を一人所有し、言うことを聞かせてこそ一人前」というミソジニーを見出し、そこを批判しているのだろう(そう考えると理解はできる)。

「男は所有したがり、女は関係したがる」という言*3があり、男性の考え方が所有に寄りがちであること(それこそ「あなたを守ります」という愛の表現がそうだ)はこれまでにも批判を浴びてきた。

ただ、恋愛経験がないから女性のことがわからないのだ、身近に気になる人がまず恋愛してみるべし、という矢部の発言は、所有よりも関係の構築に重きを置いているように聞こえる。結婚も勧めているが、女性を性的客体としてモノにする(所有する)ことで男性の主権は保たれる、という昭和のオジサン的なよくある結婚観とは距離があるように思う。

 

 

 

・「なぜ女がセクシストの矯正をしてやらねばならないのか?」という定番の批判

「女性と関わりを持つことからはじめてみたら?」という矢部のアドバイスに対し、「なぜ女性を利用するのか」という批判が数多く見られた。まあ、なんていうか、歴史上何万回もやってきたやりとりだが、今回の件については正直あまりアクチュアリティがないと感じる。

ハナから女性差別的に出来上がっている社会に物申すとき、今まで女性たちは砂を嚙むような苦しみを味わってきた。最初は女性に参政権すらなかったことを思い出してほしい。偉い男のところへ行って、「女性にも参政権が必要です」と訴え、ほうぼうで「女に政治なんてわからない」「女には判断力がない」「どうせ夫と同じところに入れるんだから意味がない」などと非難されながら活動していたことを考えれば、「女性にだけ参政権がない状態が異常なのに、なぜ私たちが異常な女性差別者の男たちの元へ出向き、理解を求め、説得しなくてはならないのか。なぜ女がいつも男を矯正してやらねばならないのか」という怒りが生じるのは至極まっとうなことだ。

話を戻そう。女性と恋愛経験のない岡村が、女性への理解を深めるため、恋愛を望んでいたとする。それに対し、「なぜ女が矯正してやらねばならないのか」と批判するのは筋が通っているだろうか。
恋愛が女性への理解を深める唯一の手段とはいわないが、有効な手段であることは間違いない*4

ためしに、「女性との関わりはほとんどないが、ジェンダーやセックスについて深い理解があり、女性とのコミュニケーションがきちんと取れる男性」という存在を想定してみよう。ありえないわけではないにせよ、かなり空想的な人間像であることは間違いない。自称ならもっとヤバい。仮に岡村が今後、「相変わらず女性との関わりはないですが、女性についてはちゃんと理解しました」などと言い出したら、そっちの方がよほど危険なはずだ。
だいたい、恋人として交際するのも、結婚するのも、全て相手の女性の合意ありきなんだから文句もつけようがないと思うのだが……。みんな今回どういう論理で「女に頼るな」と言っているんでしょうね。

 

 

非モテ男性に「彼女を作れ」「結婚しろ」と言うのは酷ではないか?

矢部の説教は、いうなれば貯金も収入もないのに、「家を買え」と言われたかのように感じるから、非モテの男性にとっては酷なんじゃないか?と友人に指摘され、一理あると感じた。もちろん、人間の価値は異性からの評価で決まるわけではないので、モテないから人間として無価値だなんてことはない。
ただ、当人が彼女がほしい/結婚したいのであれば、女性から見た自分の価値を高める他ない。そのためにはやはり女性と関係を築き、互いをよく知る必要がある。

そもそも関係を築く以前の段階、デートに行く・デートに誘う・話しかけるなど、最低限の社会資本(容姿や年齢、社交性など)がないと嘆く人もいるかもしれない。しかし結局「女性のことをよく知るため、女性と関わりを持とう、そのために努力しよう」以外のことは言えない気がする。
別に酷なことを強いるわけではなく、「コミュニケーションは取りたくないが女にはついてきてほしい*5」なんて姿勢は都合がよすぎますよというだけのこと。

 

 

・女性蔑視は、女性と関わりを持つことで矯正されるのか?

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もうそんなに言いたいことはだいたい言ったので、この辺でちょっと別の角度から論じて〆としたい。

今回の発言をしたのが一般的な40代男性(恋愛経験なし)であれば、「女性とコミュニケーションを取ってこなかったのがよくないのだ、気になる女性を誘ってデートへ行って、話してみよう、まずはそこから」というアドバイスは妥当だと思うが、岡村はまあ一般的な40代男性(恋愛経験なし)とはかけ離れている。人と話すのが苦手でもないだろうし、お金も名声もある。おそらく、女性と食事に行って、面白おかしく話す能力は非常に高いだろう。しかし、だからこそ問題があるのかもしれない。

どういうことか。岡村は芸人としては否定しようがないほど傑出していて、「ここでこうすれば面白い」を並外れた感覚で嗅ぎつけるセンスがある。だからこそ、あらゆる会話やコミュニケーションを「ここでこのボタンを押せばウケる」規則の総体として、すなわち「音ゲー」として認識しがちなのではないか。したがって、利害や打算を二の次に、敬意を持って相互理解に努めるコミュニケーションがうまくできず、社会的なペルソナを脱ぐのが人よりずっと難しいのではないか。
ここまで書いて、「サイコパスの治療を試みようとグループワークや対話に参加させてみても、コミュニケーション療法のメタゲームがうまくなるだけでサイコパス的な気質は変化しなかった」という話*6をふと思い出した……。

まあだから、岡村の抱えている問題は、女性差別的なヤリチン(◯◯人斬りを自慢するタイプ、自傷と同じ感覚で女と寝るタイプ)と似たような分かり合えなさ、つながれなさなのかもしれない。知らんけど……。

 

 

twitter: @LeoLeonni

*1:これ、炎上が全く予期できなかったわけではなくて、“敢えて”ゲスい発言をすることで男性だけが笑える状況を作り、結束を強めようとする典型的なホモソノリですよね。

*2:

https://twitter.com/anatatachi_ohno/status/1256063044662132738

*3:社会学者の言葉だったと思うのですが誰だったか思い出せません。とりあえず斎藤環じゃないです。

*4:そもそも女性と関わらず、害を与えることなく生きていけという意見もあるかもしれないが、それはフェミニズムというよりミサンドリーであるし、「何を言ったらセクハラになるかわからないから何も言えない」に対して「何も言うな」と返すタイプの人(わりといる)に通ずるこいつわかってないなー感を感じます。クソリプ避雷針の註

*5:イケメンならそういう状態もあるだろうと書いててふと思いました。クソリプ避雷針で書いておきますが、「ただしイケメンに限る」は基本的にコミュニケーションを頑張ってない人の言葉です。

*6:ケヴィン・ダットン『サイコパス 秘められた能力』

理想のデート

やってみたいことリスト(思いついた順、2020年3月12日)

 

  • ふたりで東京堂書店ジュンク堂池袋店へ行く。「あ、おれこの本すごく好きなんだよね」「私はこの雑誌のこの号がクソだと思ったな」的な会話をしながら棚を移動する。

 

  • 味園ビルの飲み屋街へ行く。別行動で三軒の店をはしごして、二時間後に集合する。四軒目で、互いの得た知見を交換する。(同性のグループで経験済み)

 

  • 町田リス園へ行く。

 

  • バイクに二人乗りする。十中八九大丈夫であろう場面で十秒目隠しをして、二人に加護がついていることをたしかめる。

 

  • 勝手にあがれそうな雑居ビルを探して屋上にのぼる。適当に写真を撮って帰る。(済)

 

  • オールタイムベストソングを収めたプレイリストを作る。その曲の素晴らしさを互いに教え合う。

 

  • エゴグラム的な心理テストをやる。互いにチェックする。次に、全ての回答を裏返したバージョンの人間像もチェックする。しばらくその人格になりきって話してみる。(©︎カタワレガタリの会・友人Kの案)

 

  • 互いが一緒にいるための積極的な条件と消極的な条件をそれぞれ考える。条件がふたりにとってどの程度重要かも考える。

 

  • 手頃なものを燃やして心を落ち着かせる。場所は公園や河川敷が望ましい。

 

  • 片方がUberの配達員をやってみる。もう片方はそれに付き合う。搾取に対するささやかな抵抗をあらわすため、つまみ食いをする。
    注意: すぐ飽きそうなのでそのままピクニックにでも行く

 

  • 互いに知らない人のふりをして、同時に美容院へ行く。美容師との会話を通し、架空のプロフィールが出来上がっていくのを隣同士で聞く。
    注意: 美容師に迷惑をかけないこと。絶対に笑わないこと。

 

  • ウォータースライダーのあるラブホテルへ行く。
    注意: 水着持参

 

  • ふたりで将太の寿司を読んだあと、寿司屋へ行く。(済)

 

 

  • 夏がくるまでにやめたいことリストを互いに発表する。簡単なものからひとつ履行してみる。
    例: しょうもないゲームをiOSから消去する

 

  • トランポリンの体験へ行く。
    注意: スカートを履いてこない

 

  • 他に自分と同じ主張をしている人を見たことがないけれど、これってこうじゃない?という文化的な発見を共有する。ポップなやつが望ましい。
    例: ジャームッシュの『パターソン』に出てくる妻の名前、LauraってアウラauraにL足してんじゃない?『ノルウェイの森』ってジッドの『田園交響曲』の姉妹版じゃない?その他ロレックス(なにが似ているとは直接的に名指すことができないが似ているもの同士を挙げる)など

 

  • 有名人の真似をして記念撮影をする。地味なのでいい。カメラや照明、衣装などをそこそこ本格的にやる。
    例: 派手な題材でなくていい。入団当初の落合、フェリーニの『8 1/2』におけるアヌーク・エーメなど

 

  • 最低の飲食店をGoogle Map上で閉店させる。(友人R、友人Hの案)
    例: 店主が隣の席で人種差別的な言動を行っていた、店主からマルチ商法に勧誘された、喫茶店のマスターと会話中、BGMでクソ有名な曲(Waltz for Debby)が流れてきて、「あれ、これ聴いたことないバージョンですね」と言うと店主がそもそもWaltz for Debbyを知らなかった、など

 

  • 家でジャズのヴァイナルをかける。窓を解放して、雑踏や車の音、環境音が入り込んだ方が美しく聴こえるかどうかを鑑定する。7階以上が望ましい。(友人R、友人Hの案)

 

  • これまでに経験した霊的な体験を共有する。状況次第ではその場へ行ってみる。
    注意: 幽霊やお化けを科学的に否定する人間はあまりデートに向かない。

 

  • 家の近くにある高級ホテルに泊まる。

 

  • 夏、大学のプールにポータブルのオーディオと飲み物を持って忍び込む。ひとしきり泳いだり踊ったりしたあと、朝までぼんやりする。(済)

 

  • 裸になって、互いの体の「生存にネガティブな作用を及ぼさなかった奇形」「致命的でない、瑣末な奇形」を見せあう。
    例: 「おれは小指の骨が湾曲しててフックみたいになっているから、買い物袋や帽子を引っ掛けられるよ」「わたしの首が長いのは、骨の節が人より一個多いからなんだよね」

 

  • 「正直タイム」と叫んで(叫ばなくてもいいが)、そのあと正直なことだけを話す。(済)
    注意: ここで意図的に嘘をつく人間にはデートをする資格がない

 

  • その正直さを心のどこかに保存して、しばらくどこへ行くにも持ち歩く。

 

戦争に反対する唯一の手段は……/文化的雪かき

 

 ・戦争に反対する唯一の手段は……

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戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。

吉田健一『長崎』

 

一月の末、夜中にtwitterを見ていたら、「ちゃんと生活したい。キーマカレーおいしく作れました。」という投稿が流れてきた。なんとなくその発言のツリーを見ると、「おいしそう!ちゃんと料理しててえらい!」「ありがとう。吉田健一の言葉、『戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである』を忘れないで暮らしていきたいです。」というやりとりが続いていた*1

この手の引用は、「戦争に反対する唯一の手段は……」が引っ張り出される典型的な文脈で、特に珍しいものではない。個々人が慎ましく暮らす生活のワンシーンに寄り添うイメージだ。

だがわたしはもう何年も、この言葉の使われ方に違和感を覚え、SNSでも言及してきた。そろそろ違和感の正体をはっきり言語化しておきたいと記事を書いている。

 

吉田健一の言葉の文脈を補うと、

戦争に反対するもつとも有効な方法が、過去の戦争のひどさを強調し、二度とふたたび……と宣伝することであるとはどうしても思えない。戦災を受けた場所も、やはり人間がこれからも住む所であり、その場所も、そこに住む人たちも、見せ物ではない。古きずは消えなければならないのである。


戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。過去にいつまでもこだわつてみたところで、だれも救われるものではない。長崎の町は、そう語つている感じがするのである。

になる。毎回引用される部分に加えて、戦争の悲惨さを宣伝することは有効ではない、という主張がつくのだ(話が枝分かれしすぎるので触れないが、この辺に糸井重里っぽさがある→*2 )。いったい何を意図していたのだろう。

『長崎』はちょっとググると全文出てくるが、読めば、論証や根拠を示す内容ではなく、ごく短い感傷的な紀行文として書かれたことがわかるはずだ。おそらくいま文庫に収録されておらず、随筆集なんかにもあまり入っていないので、図書館へ行かないとなかなか紙では読めないかもしれない。

 

ともあれここで言いたいのは、吉田健一の言葉には、「戦争の悲惨さを宣伝するのは有効ではない」と付されていること。そして、「慎ましく暮らすこと・生活のメンテナンスをていねいに行うこと」としばしば関連づけて語られること。この二点が伝わればとりあえずは充分だ。

 

  

・雪かき

吉田健一の言葉と並列して、「雪かき」を紹介しておきたい。

内田樹村上春樹論には、「雪かき」という概念が登場する。村上春樹作品本編の『ダンス・ダンス・ダンス』にも、「文化的雪かき」という言葉が似たような意味で出てくるため、かなり知名度が高い。内田樹の方を引用してみる。

 

雪が降ると分かるけれど、「雪かき」は誰の義務でもないけれど、誰かがやらないと結局みんなが困る種類の仕事である。プラス加算されるチャンスはほとんどない。でも人知れず「雪かき」をしている人のおかげで、世の中からマイナスの芽(滑って転んで頭蓋骨を割るというような)が少しだけ摘まれているわけだ。私はそういうのは、「世界の善を少しだけ積み増しする」仕事だろうと思う。
内田樹村上春樹にご用心』

 

内田樹は、村上春樹の世界にはスケールの大きな面がある一方、「雪かき」を大切なものとして見つめる視線があると指摘する。

たしかに村上作品においては、料理や掃除などの家事をていねいに行うことによって、邪悪な存在がもたらす喪失に耐え、抵抗するモチーフが多い。家の内側において、家事はまさしく雪かきのように、「世界の善を少しだけ積み増しする」行為といえる。

 

市井のレベルでは、「これやって何になるんだろう」「誰が見てくれてるんだろう」と自問せざるをえない局面で、「これは雪かき仕事なんだ、些細だけれど世の中をよくしているんだ」と自分を鼓舞するような使い方を見かける。そして場合によっては、雪かきは大きな使命につながっている。たとえば大きな喪失、戦争などへの抵抗。

 

 

さて、こんな風に「雪かき」について書いてみて、なんて魅力的な思想なんだろう、と驚く自分がいる。

もしわたしが十代でこの思想に出会ったら、体に電流が走っただろう。そして、「家事や雪かきのような行為で少しずつ世の中をよくすることができて、ひいては邪悪さに抵抗できるはず」と信じたに違いない。

しかし今のわたしはこの思想のスイートさ、思わず飛びつきたくなるやさしさを感じつつも、どこか嘘をつかれているような感覚を覚え、とっさに距離をとる。最初に挙げた「戦争に反対する唯一の手段は……」を見かけたときの違和感もそれに近い。

 

この記事で問題にしたいのは、そのような「やさしい抵抗」の態度を今掲げることの是非である。 

 

 

 

・慎ましい生活を免罪符にする思考回路

ここからは推論だが、「雪かき」や「各自の生活を美しくして……」などの「やさしい抵抗」に惹かれる人にはおそらく共通の精神性がある。それは約言してしまうと、

「戦争に反対するといってもアクティビストのような振る舞いはできないし、どんなことをすればよいのかもわからない。ただ、自分が知覚できる範囲で善を積み増しできる行為、つまり家事や雪かき(比喩ではなく、ほぼそのままの意味での家事や雪かき)に勤しむことで世の中が悪くなることはないだろう。とりあえず自分の生活をよくすることで、ひいてはひとりひとりの生活がよくなることで、世の中全体がよい方向へ向かうと信じたい」という自信のなさだ。 

 

「やさしい抵抗」は彼らにとって免罪符になる。なぜならこの思想に帰依しておけば、大声で戦争反対などと言わなくとも(そんなことは恥ずかしくてできない)、積極的に見聞を広めなくても(そんな暇はなく生活で手いっぱいである)、自分の楽しみを追求し、粛々と暮らしていれば戦争反対がセットでついてくることになるのだから。行動的でない人にやさしく、自信のない人にも唱えやすい。しかし、ほんとうにそれでよいのだろうか。反戦の助けになるのだろうか。

 

吉田健一のほうでいうと、「美しく」の部分に、周囲の暴力に対する徹底的な抗戦を読み取ったり、「執着する」のところに積極的な反戦活動(なんらかの署名活動をSNSでシェアするとか、デモに行くとか、ユダヤ人を家に匿うとか)を見出すことができれば違和感も感じないのだろうが、素直にあの言葉を読み、広まっていく文脈を見るに、「とにかく半径一メートル、半径ワンクリック圏内を快適な状態にしておけばあなたに責任はないですよ」と囁くだけの文句になっている気がしてならない。

 

差別や暴力について、とにかく放置して不干渉を貫けばなくなると考える人はいない。しかし奇妙なことに、戦争となると不干渉こそが正しいという風潮が広がり、消極的な「やさしい抵抗」が美しいスローガンとして持て囃される。しかもそれが、自国の利益を第一に考えるナショナリストからではなく、ヘイトスピーチや遠くの戦争を気にするはずの左派の文化系から聞こえてくる。

だが、そこにあるのは遠い他者への想像力ではなく、視野狭窄であり、パーソナルスペースだけを残した責任の切断ではないか。結局はただの逃避ではないか。自分が積極的な関わり方をしなくて済む思想に飛びついて、安全な部屋でまったり過ごしているだけではないか。

 

 

歴史的に見て、「やさしい抵抗」は、文化的な場所で繰り返し発信され、増幅されてきた。たとえば、「雪かき」は吉川宏志(歌人)の評論で引用され、短歌という文学の本質に雪かき仕事があると評されている*3

「各自の生活を美しくして……」のほうはいわずもがな、ピチカート・ファイブの小西康陽が広めた言葉である。それぞれの創作活動と連なった説得力があり*4、彼らの指摘がまったくの的外れだとも思わないのだが、受容のされ方を見るに功罪の両面があると言わざるをえない。

 

あからさまな政治的腐敗や未知のウイルス、中東の情勢不安……少し前には到底信じられなかった悪夢を書き割りにオリンピックへ急ぐ日本で、わたしたちはいかに反戦について考え、いかに生活を描写すればよいのだろうか。

途方に暮れた人々を甘言で誘う思想はいくらでもある。だが少なくとも、戦争を、生活を、想像力の届かない暗がりに隠してしまっていいわけがない。

 

 

= = = = =

 

・補 

ほんとうは反戦にまつわる様々な思想をコンピレーションのように紹介するはずの記事だったのですが、長くなりすぎるのでやめました。たとえば、ラカンを評し、西洋文明の根底に「何か間違ったもの」が這入り込んでいると指摘したシュナイダーマン、「合理的・論理的な判断の帰結として戦争が起きるのなら、非合理的・非論理的な芸術でそれに対抗しよう」という思想で(一枚岩でないにせよ)反戦を訴えたダダイストたち、アナグラムや詩文によって死の受容を考えた後期ボードリヤール、法と人権について語るジル・ドゥルーズなど。元気が出たら続きを公開します。書けたらtwitterでお知らせします。

twitter: @LeoLeonni

*1:あまりにとばっちりだと思うので元ツイートのリンクは貼りませんが、その気になって検索すれば今でも見ることができるはずです。ちなみに作家のツイート。

*2:最近、コロナウイルスについての情報が錯綜するなか糸井が自身の過去の発言を再度発信し、話題を呼んだ。https://twitter.com/itoi_shigesato/status/466250875824898048

*3:震災後、と書いていましたが、正確には震災前の09年でした。訂正してお詫び致します。

*4:余談ですが、ここで挙げた両名ともに多大な影響を受けています。わたしのOMGベストDJプレイはセカロイの周年イベントで7インチを暴力的に繋ぎまくる小西康陽のプレイですし、好きな歌人を尋ねられて真っ先に挙げるのが吉川宏志です。

上司の言うAIがAIじゃない率は異常

・上司の言うAIがAIじゃない率は異常

タイトルどおりです。最近はこんな話も出てきて、物騒な世の中になってきたなと感じるので書いておきたいと思います。

this.kiji.is

 

タイトルの「AIじゃない」体験でいうと、以前青山のデザイン事務所で働いていたころの上司が思い出ぶかい。難関私文出身のイケメンで、あまり人文書は読まないがWIREDを購読していた彼は、「AI時代になったら働かなくてもよくなるんだろうな」「もう少ししたらさ、頭にUSBケーブル挿して、記憶をハードディスクに保存する時代が来るんだろうね」などと自然なトーンで話すので、ときどき軽い疲労を覚えた。とても優秀な人だったが、優秀であることとそのへんの相場感はあまり関係ないのだなとしみじみ思った。

AIについては様々な言説──妥当なものから、希望的観測、SF的な想像力に支えられた終末論まで──が日々登場している。誤解が多いのもたしかで、「AIが意思を持った」「AIが小説を書いた」などの見出しに釣られて記事を読んでみると、結局は人間の指示どおりに動いていたり、見出しが単なる言葉の綾であったりすることが多い。身のまわりでも話題先行というか、あまりきちんと理解されていない気がする。

少なくとも、上司が発言する“AI”や、“シンギュラリティ”などの言葉はかなりの確率で実情とかけ離れている。おそらく全国的に。しかし、いったいなぜそんなことが起きるのだろうか。(まあ答えはわかりきっているのだが……。)

 

少し前に、哲学とロボットの両方を専門とする研究者の方からお話を聞く機会があり、そのときの内容の一部が、「AIじゃない」問題へのわかりやすい回答になっていた。重要な部分を書き出してみる。

 

 

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トークイベント 

 

トークイベントの講師は小山虎さん(経歴*1 )。大学院まで哲学を学んだのち、ロボット研究で有名な阪大の石黒教授の研究所に勤務、現在は山口大学で時間学研究所(!)というわくわくする名前の機関に所属する方で、哲学とロボット、両方のフィールドに明るい専門家だ。

 

イベントは、小山さんが学生時代からどんなことに関心を持って研究してきたか、研究の根本にある疑問とはいったいなんなのか、という話からはじまった。そして、講義ではなくトークイベントだからということで、動物の生態や、人同士のコミュニケーションについて、自身が携わってきた様々な分野を横断的に語るものとなった。最後に設けられた質疑応答の時間では、わたしの隣に座っていた大学生が挙手し、こんな質問をした。

 

Q. わたしは現在大学四回生で、“恋愛するロボット”をテーマに卒論を書いている最中です。“恋愛するロボット”について、なにか思うところ、助言や示唆などがあればお願いします。

それに続く回答がこちら。

A. まず言えるのは、“恋愛するロボット”は、いまのところ“ロボット”の話ではなく、“ロボットの表象”の話だということです。“恋愛するロボットの表象”はたくさんありますが、恋愛するロボットは存在しません。もし仮に、“恋愛するロボット”がもう少しで実現可能で、数年のうちに実用化されるだろう、という段階にあるならコメントもしやすいのですが、まだまだ遠いと思われるので、ちょっとコメントしづらいですね。

仮にそういうロボットが出てくるなら、その手前であらゆるロボットが登場することが予想できますし、そういうキャッチコピーをつけたフェイクな商品が売り出されるはずです。

もし“恋愛するロボット”が修論なら、「その分野で研究していくのはちょっと大変かもよ」と止めるだろうと思いますが、卒論ですし、いろいろな可能性を広げていくのが大事だと思います。頑張ってください。

 

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・表象を区別する

“ロボット”と“ロボットの表象”の区別について、じつはイベントの序盤で言及されていた。「まずはっきり区別しておきますね、わたしは“ロボットの表象”ではなく“ロボット”の話をしますよ」ということを示すためのスライドがあったのだ。写真を撮っていないので自分で再現するが、こういうシンプルなものだった。

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こうして示されると当たり前に感じるかもしれないが、専門家のいない場所、市井の会話のレベルでは、実物と表象を区別して語られることはあまりない、というかほとんどない。だから、“恋愛するロボット”という言葉が出てきても「それは表象だよね」というツッコミが入ることはなく、「なんかありそうだよね」「そういう時代になってきてるのかなあ」とふんわり認識される。そのふんわりした認識から生じるのが、AIについて語る上司なのだ。蛇足だが、エッチなイラストや映画に怒る人たちも、たいていちゃんと区別していない。彼ら/彼女らは、表象と現実の区別を反省することなく、曖昧なまま語ってしまう。

おそらく、表象をその都度厳しく峻別しながら認識する態度は、実のところ研究に打ち込んだり、メディア論や精神分析、哲学を学んだりを通じてようやく得られるものなのではないかと思う。そしていちど習得すると、区別が曖昧なまま話が進んでいくことに抵抗を覚えるようになる。だからすぐに「それは表象ですよね?」と質したくなってしまうのだ。もちろん世の中には、それをよくわかったうえで、AIの可能性を広げる創作や仕事に打ち込んでいる人も多い。ちょっとオーバーな見出しを書いている人だっておそらくそうだろう(と思いたい)。表象を区別することは重要だが、それは前提であって、その前提のうえで様々な可能性を考えることには意味がある。

 

と、いうわけで。これからもし上司が「AIが上司になったらさ……」などと話す場面に遭遇したら、「それは“表象”ですよね!?」と厳しく攻めて、その場を“本質的”にしてみよう!!

 

わたしは言いませんが……。

 

 

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・追記

トークイベントではわたしも質問しました。いただいた回答がおもしろかったので共有したいと思います。

 

Q. 人と会話するロボットの話を興味深く聞きました。先生からは、会話を文字に起こすと成立しているのに物足りない感じ、なにかが違うと感じさせる要素について、動物を例に様々な説明をいただきました。ただ個人的には、ロボットのぎこちなさは自閉症アスペルガーなど、人間の対人系の障害を思い起こさせるものでした。そのような視点からの研究については関心がおありでしょうか。また、どのようにお考えでしょうか。

 

A. 人間の障害をベースにして、ロボットについて、人間についての理解を深めていく研究はこの業界では比較的王道です。研究するさいは、まずはうまく予算を獲得しなくてはなりません。そうなると、医療の分野に関連する研究は予算を得やすいため、多くの人がその道に進む事情があるのです。しかし個人的にはその方向に疑問を感じるところもあります。もとが医療目的の研究ですから、障害のある人を治して健常者に近づける目的を持つことが多いんですね。しかし、それがほんとうによいことなのだろうか?という疑問があります。実は健常者のほうが障害のある人に合わせるべきなのかもしれませんし、そもそも、健常者のことだってわたしたちはよくわかっていないわけですから。総じて、健常者/障害者の区別を自明としてロボットについて考えていくことには違和感がありますね。

 

小山虎先生、ほんとうにありがとうございました……。

ちょっと宣伝です。イベント会場のajiroという場所は、いろいろな分野の専門家が入れ替わり立ち替わりやってきて、ワンドリンク込み千円という驚きの値段でお話が聞けるたいへん素晴らしい場所です。九州の方は普段づかいに、ご旅行の方も気軽にお立ち寄りください。

 

www.kankanbou.com

 

 

註.文章でそれが伝わると嬉しいのですが、小山虎先生は終始笑顔で、たいへん気さくな方でした。質問にも優しく答えていただきました。

註.質問した大学生の方が、ロボット/表象の区別に無理解だったと指摘する向きはありません(おそらくそうではないと思います)。

註.もともとトークイベントの趣旨はAI/AIの表象 の区別について語るものではなく、それを前提として様々な分野に及ぶものでした。

註.録音していたわけではなく、記憶を頼りに書き起こした文章です。事実と異なる点や、誤りなどがあればご連絡ください。

*1:1973年京都府生まれ。大阪大学人間科学部卒業。大阪大学大学院人間科学研究科を修了。博士(人間科学)。日本学術振興会特別研究員PD(慶應義塾大学文学部)、米国ニュージャージー州立ラトガース大学哲学科客員研究員、大阪大学基礎工学研究科特任助教などを経て、2018年度より山口大学時間学研究所講師。

12月14日の日記

友だちと立ち飲み屋で話していて、DVやモラハラの話題になった。

 

人が感じる精神的な苦痛は、ある特定の場で加害を受けている状態から、“ダブルバインド”の状態におちいることでさらに深刻なものとなる、という話をむかしNHKニュースで見たことがある。
たとえば、学校でいじめられている状態から、それを家庭で相談して「甘えるな、学校へ行け」と非難される状態への移行によって、板挟み(ダブルバインド)になることをここでは想定している。ニュースで流れたのは自殺とダブルバインドの関係についての映像で、そら逃げ出す場所がなくなったら自殺もするわなと思ったことを覚えている。

 

立ち飲み屋でこの話をしながらふと、洗脳や依存のメカニズムもこれに近いかもしれないと思った。というのも、前に友人から聞いた女性の話を思い出したのだ。

その女性は職場で上司からハラスメントを受けていたのだが、上司は、「使えない」「お前のせいで全員が迷惑してる」などと罵って自信を喪失させたあとで、「でもな、俺だけはおまえを絶対に見捨てない」という決め台詞を持ってくる人物だったらしい。
いやこの話、思い出すだけで笑ってしまう。新興宗教やDVなんかの典型的なやり口だから。ただ、その上司は効果的な手法とはっきり自覚して実行していたというよりも、ただ暴力を振るうだけの人間より社会的なため、結果としてわたしたちの目に触れやすいのだろうとなんとなく想像した。そういう悪人は、板挟みの状況を作ったのち、自分のところへ向かう戸口だけを開ける。そのやり方でサバイブしている。

 

もうひとつ思い出したのが『罪と罰』だった。「人間行くところさえあればいいんですよ、行くところがどこもないってのはつらいもんですよ……へ!へ!」と飲んだくれのマルメラードフが語る(うろ覚え)シーンだったが、あんまり飲みの場に合わないので口には出さなかった。

アル中はDVでも宗教でもないがもちろん依存症なのであって、患者から世界を見れば、酒への戸口だけが開かれて仕方なく逃げ込んでいるのかもしれない。アル中の人に言ってはいけないのは「酒やめろ、おまえは甘えてる」系のことだとよく聞くが、そらそうだよな……と勝手に納得する。少なくとも、加害に向かうことなく自傷として依存しているうちはそうだ。

 

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で、帰りにずんずん歩きながら、自分に逃げる先があるかどうか考えていた。歩くうちにコートのポケットでずっとチャリチャリ鳴ってるキーホルダーに気がつき、五つ(!)も鍵がぶらさがっているのでかなり嬉しくなった。持っている鍵の数だけはとりあえず行く先がある。その気になれば四つの場所に立てこもれるし、残りの一つはクロスバイクの鍵だからかなり移動できる。やばい超安心!!!!旅に出ようぜ!!!!

12月6日の日記

・12月6日は◯◯さんの誕生日です。

何年もまえのこと。人の記号的なプロフィール集積に関心があり、友人、知人の誕生日をまめにiPhoneのアドレス帳に記入する習慣があった。あれからiPhoneも変わった、住む場所も付き合う人も変わったのに、種々のケーブルやクラウドを経由して、ときには顔も思い出せない人たちの誕生日が生きのびて手元に残っている。

彼ら/彼女らの誕生日は、前日になるとポップアップとしてmacのディスプレイの右上にあらわれる。いまも付き合いのある友人だと「おめでとう!よい一年を」くらいのメッセージを送ることもあるのだが、ときおり、「すごい!よく覚えてくれてるね!」という驚きが返ってくる。そのたびに思う。これは“覚えている”うちに入るのだろうか?

 

目の悪い人が眼鏡に頼るのと同じように、忘れっぽい自分は様々なリマインド機能に頼っている。リマインドは間違いなく仕事に欠かせないツールだが、日々の些事はどんどん流れてゆき、リマインドなしではほとんど掘り出せなくなるのが常である。

では、“リマインドで思い出す”と、“覚えている”の差はなんなのだろうか?と考える。答えに近づけそうな本を何冊か思い出せる気がするので、帰ったら本棚を探してみよう……。

ここまで書いて、ベンヤミンが「機械は忘れる機能を持っていない以上、本質的になにかを記憶しているわけではない」とどこかで言っていたことを思い出す。

 

(昼前の通勤列車にて) 

 

 

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バウハウス的なはさみの入れ方について

ロンドン在住のグラフィックアーティストが、行政の招へいでレジデンシャルとして九州に滞在している。諸々の条件があえば自分の働く書店でも展示をしてもらえないかと連絡をとってみたが、スケジュールが合わず今回は断念した。ただ、書店は見てみたいとのことで、友人とともに書店を訪ねてくれた。昼休みを使ってかれらに店内を案内をしたときの走り書き。

 

拙い英語でやりとりをする。友人として付き添っている美容師の男性がときどき通訳をしてくれるのがありがたい。途中からアーティストのエラ氏が業務連絡やら飛行機の確認やらでiPhoneをチェックしはじめたので、友人のほうと話し込む。福岡出身で、ロンドンに十年住んでいたという彼は、美容師として働き、向こうで芸術も学んで帰ってきたという。店内の棚をザッピングしながらバウハウスの本を見つけると、ごく軽くだがバウハウスと、土地と、ヨーロッパにおける自身の関心事について話をした。

そのとき、突然自分を恥じる感覚が起きた。わたしにとってはほとんどメンテナンスでしかなかった散髪という行為に、じつはもっと上のレベルが隠されていたことを直感した。新たな器官が生じ、なんかこうアレな感じで感覚が拡張した。

ともすればお客の要望にどれだけ応えられるかの満足度や、技術的な範囲でのみ評価される美容師だが、もとより彼らは芸術家なのだ。美容院での楽しみといえば、いままでは差し出された専門技術を信じ、よく分からない手の動きから物事が生み出されることへの期待を楽しむくらいだったが、それだけに収まるものではない。

 

たぶんこういうレベルがある、ここにはさみを入れるか入れないかでモードの二十年代と三十年代を行き来できるんです、とか、ここはあえて残すことで別のパートと関連が生まれて、かくかくの機能が生じるんです、とか。想像でしかないけど。そしてそこまで考えてはさみを入れられる、芸術的で知的な美容師はほとんどいない。

 

もう少し話していたかったが、昼休みが終わりつつあるので店を出る。名刺を受け取る。次に髪を切ってもらうなら彼がいい。

 

もしもそのような、知的で、洗練され、芸術に造詣の深い美容師に担当してもらった場合、その力をじゅうぶんに発揮してもらうためにはどう振る舞うべきか。とりあえずは、

・適正な料金を払うこと。惜しまないこと。

・注意深く話を聞くこと。

・相談はしてもよいが、オーダーはしないこと。

 

メモ。取り急ぎ。

 

草の根で文化活動をやること/“やっていき”のこと

引用が多く、スクラップブックのようにまとまりのない文ですが、ここ一年の活動を通して、文化をつくること・お客さんをつくることについて感じた雑記です。

 

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・草の根で文化活動をやること

約一年まえのこと。わたしは小雨が降って肌寒い九月のある一日に、ミツメとシャムキャッツのライブを観ようと福岡まで来ていた。しかし当日は“猛烈な”強さの台風二四号が北上を続けており、アーティストたちが到着するかどうかは運次第というところ。ライブのチケットを買った誰もが気を揉んで、逐一SNSをチェックしていた。

告知を待つあいだ、わたしと友人はだらだらビールを飲む、サイゼリヤの間違い探しを全クリするなどの活動に勤しんでいたが、結局、大事をとったJALの飛行機は直前で引き返してしまい、わたしたちはボッティリチェリの画のまえで悲嘆に暮れた。前日の公演が札幌だったことも災いし、飛行機がダメとなると、新幹線だろうが車だろうが、他の交通手段でカバーのしようがなかったのだ。

しかし、そんな不運のうちにも希望はあるもので、SNSで中止が発表されると同時に、主催の人たちが気を利かせて「残念会を開催します」と告知した。「喫茶店のフロアを貸し切って今日聞けるはずだった曲を流すから、ビールの一杯でも飲んで帰りませんか?」という趣旨のイベントだ。

 

こういうイベントは、ある意味で地方ならではのものかもしれないと思った。ライブや演劇、映画などのイベントが入れ替わり立ち替わり開催される都心のタイム感に慣れた人にはピンとこない話だと思うが、福岡ではミツメとシャムキャッツ(有名なインディーバンド、演劇や特集上映のビッグネームならなんでも置き換え可)を観る機会は年に数回しかない。

興行の南限が福岡ということも多々ある。当日は有給をとったり宿を予約したりの人々が九州じゅうから集まり、多くの人が路頭に迷っている状態だった。だからこその「残念会」であり、このまま帰るのは味気ないという機運が多くの人たちに共有されていたのである。

 

かくして残念会に参加した。ビールや軽食でくだを巻いているあいだにぽつりぽつりと人が増えてゆき、最後は二十人くらいになった。気の合いそうな同世代がいる、クラブでときどき見かける、どういう経緯でここへ来たんだろうと興味を起こさせる妙齢の女性がいる。ビールを飲みながら話していると話題は音楽から離れていくのだが、曲が変われば、「ああ、この曲がいちばん好きなんだよね」と、われにかえって残念がる人の姿もある。

あの急ごしらえの場で、たまたま居合わせただけの自分に対するフレンドリーな態度は嬉しかった。京都からいちど東京へ、そして福岡へ移り住んだ自分としては、「半年前にミツメが来たときはさ.…」と話題に花が咲く空気は、東京にはないが関西にはあったタイム感で、どこか懐かしかった。

わざわざ有給と宿をとって宮崎から来たOLや、九州の音楽イベントを草の根で支えている人たちと話すうちに、自分がクラブへ行きだした十代のころを思い出して、なかなか胸にくるものがあった。佐賀での商店街の記録活動をしていますという女の子ともその日に知り合った*1

 

しかし、この話を東京生まれ・東京育ちの友人に話したら、「でも身内感強そうだよね、俺はそういう雰囲気あんま好きじゃないな」という反応が返ってきたのがもどかしかった。

 

「そうじゃなくて、好きか嫌いか以前の問題なんだって、たとえば東京で千人集まるクラブイベントが関西だと五十人に満たないなんてことはざらにあって、そういうハード面の背景がある五十人のフロアでは、ソフトな努力──人間同士のコミュニケーション──に頼って集客を求めざるをえない、もし好きな音楽や、演劇や、読書会なんかのイベントに出かけて、身内感があって入りづらいなと感じたとする、そこで、身内感がなくなる呪文をためしに唱えてみる、するとその場自体が消滅して、みんながイベントのない日を過ごすことになる、文化を楽しむためにコミュニケーションが必要だなんて面倒に感じるかもしれないけど、地方で文化的な企画をするとはそういうことなのだ、それに、イベントへ行くたび誰かを紹介してもらいながら、ゆるい連帯ができていくのは楽しいことでもあるんだよ」


と、すぐに言えたらよかったが、そのときの自分は、「まあ身内感が嫌だって気持ちはわかるよ」と流しただけだった。そう言いながら、東京で働いていたころを思い出した。当時よく足を運んだ渋谷のVisionやContactといったクラブのフロアは、趣味のよさを保ちながら色気もあり、行ってみると知り合いだらけという村社会から解き放たれた気楽な場だった。圧倒的な資本の凝縮がもたらすフロアが感じさせるのは、冷たさや孤独感ではなく、誰も彼もを飲み込んで成長する巨大都市の祝祭的な響きだった。

電話を終えたあとで、ふと佐々木敦氏のツイートを思い出した。文化の興行について、身内感について書かれたものだ。

演劇に限らず、ある規模日数以下の公演イベントの成功の鍵は、今やはっきりと、主催者や出演者の友人知人がどれだけいるか、ということになってしまっていて、純粋観客の数はどんどん減っており、正直時々うんざりする。僕はそういう知り合いしかいないイベントのことを、リア充集会と呼んでいる。引用元*2twitter: @sasakiatsushi

 

昨日だったかのツイート、なぜか小規模イベントを主催運営出演してる側の反応が多い気がするんだけど、なぜかというかだからこうなっちゃったんじゃないの? やってる側にも改善の余地はあるかもしれないけど、僕が言いたいのは、関係者disでもなくて、純粋観客の、受け手の不在の話なんですよ。

引用元*3twitter: @sasakiatsushi

 

ここで小規模なイベントの主催者を批判する意図はまったくない。また、もちろんのこと、地方vs東京などという争いを焚きつけたいわけではない。そのような表面的な対立に気を取られていると、ほんとうに重要な背景が見えなくなってしまう。東京とその他で文化に対する姿勢が違うのは、たんにリソースの差があらわれているだけの話だからだ。

たとえばJR東海が黒字でJR北海道廃線だらけなのは、JR北海道の努力が足りないからではなく、ただのリソースの反映であるし、もっとミクロな話でいえば、それこそ商店街の存亡は、その商店街の努力だけではどうにもならないところがある。何よりも地価や人口密度、所得、鉄道計画などの総合として決定づけられてしまうからだ。たとえ東京でもそれは変わらない。

先に引用した佐々木敦氏のツイートは、文化として観客の少ないジャンルであれば、たとえ東京であっても「観客の不在」に直面する事態には変わりがないことを示している。 そして何より重要なのが、上記のツイートの続きである。以下。 

観客増のための努力や戦略はもちろん重要、でもそれと同時に、それ以上に「観客の育成」いや「観客の創造」が急務なのだと僕は思います。引用元*4twitter: @sasakiatsushi

 

経済の縮小やムーブメントの蛸壺化などの前提のもと、音楽、演劇、出版等々、文化的な活動は全般的に苦境にあえいでいるように見える。その逆境でどう振る舞うか。

このあたりの問題意識が後期資本主義とくっつくと、ビジネスと◯◯(ex.ビジネスとアート)的な、自分の食い扶持を稼ぐべし、誰にでもわかるものにすべしという方向に流れていき、食えてないのはビジネスモデルがダメだから、努力が足りないから、という話になるのだが、そういう方面の話はここでは措く。基本的に、ハイブロウな文化をビジネスとして成り立たせている人たちはスーパーマンなので、彼らの生存戦略には再現性がない。この記事では別の方面に話を進めたい。

 

 

・“やっていき”のこと

ここで、ツイッターで普段から見ている人たちの発言をいくつか引用したい。どれも示唆に富んでいて、心から推したい発言である。まず、瀬下翔太氏*5のツイートを引用する。 

 

現代の日本のインターネットのなかだけで考えてると、持続可能性のための条件は金とフォロワー数くらいになってしまう。しかしほかのところに目を向ければ、人間がなにかを続けていこうとするためのインセンティブにはいろいろな種類があることがわかって、元気が出てくる。

引用元*6twitter : @seshiapple

 

儲かってなくて助成金とかももらってなくてでもなぜだか続いてる同人活動について、現代のそれとは少し違うノリで考えるといろいろ捗る。具体的には、郷土史とか、学校のめちゃいい先生がつくってるクオリティ高いクラス誌みたいなのとか、句会とか、そういうのみるとなんか違う気分になれる。

引用元*7twitter : @seshiapple

 

 

続いて、第五回ハヤカワSFコンテストで大賞を受賞した作家、樋口恭介氏のツイート(削除されてしまったが……)。

創作で食えない事実が創作の敵なのではなく、金にならないとダメ、食えてないとダサい、みたいな空気の方が敵。人んち行ってギターがあったとして、「食えないのにまだ音楽とかやってんの?」みたいなのより、ギター弾いたり歌ったりしてみんなでセッションできるみたいな文化の方が良いに決まってる。

引用元*8twitter : @rrr_kgknk

 

どちらも草の根で文化活動をする人たちの背中を押す発言だが、最近のインターネットでは、こういう精神性を一言で言いあらわす言葉をよく見かける。それが、“やっていき”である。出版や音楽イベントの企画をする人たちのあいだで合言葉のように使われていて、目に入るのは、頑張りましょうね、それぞれの“やっていき”を続けましょうね、と互いを励まし合う光景である。

文芸の同人誌として信じられないほどの売り上げを記録した、ヴァージニア・ウルフの同人誌『かわいいウルフ』(詳細*9 )の増刷記念では、“わたしたちのやっていき”というイベントも開催された*10

 

“やっていき”とは、端的にいってどんな意味合いだろうか。明文化されているところを見たことはないが、ためしに言語化してみると、「文化をつくるうえでのハード面の課題──知名度が低い、過疎地で企画をしている、行政の支援を得られない、観客がいない、資金がない等々──を抱えながら、課題をソフト面の努力で埋める、そしてそれを自主的に行う試行錯誤」を指すのではないだろうか(違ったらごめんなさい……)。

 

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福岡天神の書店、『本のあるところ ajiro』

個人的な体験に引きつけた例を出すが、わたしは九月から、福岡・天神の書店「本のあるところajiro*11でお店づくりに携わっている。海外文学・人文書・詩歌に特化した選書で、日本全国を見渡しても、こんなにハイレベルなセンスに裏打ちされた店はまずない、素晴らしい場所だと言い切れる。

ただある意味で、「地方で文学や哲学の拠点となる場をつくる」という志のもとに成立した書店は、世の中で求められる以上の文学や哲学を供給していることを意味する。そこには背伸びや摩擦があるわけだが、まさにその点こそが重要なのだ。

 

少なくとも自分の周囲で文化的な活動をしている人たちは、「文化的にとても重要な企画だけど、知名度がないから不安」「今までになかったおもしろいものだけど、みんなに伝わるだろうか」などの逡巡を経てなにかを企画し、その魅力が伝わる場へ誰かを誘おうと腐心しているように見える。

なにが言いたいかというと、その逡巡(あるいは摩擦、あるいは背伸び、あるいは“やっていき”)こそが「観客の創造」、ひいては文化の創造につながっていくということだ。むしろ逡巡が全くないのなら、それはある意味でただ需要に応えた供給であって、自分のなかで新しい価値をつくりだしたとは言えないかもしれない。

 

では、世間との摩擦込みで文化をやってみるとどんな反応が起こるだろうか。たとえば、マイナーな分野だけど本をつくってます、お客さんがいないかもしれないけどイベントを企画してます、批評文を書いています等々、クリエイティブな活動*12の第一歩を発表したとき、世間から飛んでくるいちばんメジャーな反応は困惑や冷笑である。「それって誰が喜ぶの?」。だって、彼らにとってまだ価値のわからないことに取り組んでいるわけだから。おそらく真剣にやっている人ほど斜に構えた態度で評されてしまう。こんなことをしてみましたと発表するだけでも最初は勇気がいるものだ。

だがわたしは、ここまで書いてきた人たち──試行錯誤の末におもしろいものをつくろうとしている人たち──の頑張りを推したいし、彼らこそが文化を支えてきたのだと信じている。そして、すべての人が純粋な観客ではなく、クリエイティブな活動に少しでも踏み込んでみればいいと思っている。一度でも自主的になにかをつくってみたことがある人は、他人の活動を敬意を持って受けとめられるようになるからだ。

 

ということで、各々おもしろいと思うことを、誰に頼まれるでもなくやってみましょう。一人でやってもいいし、心意気の合いそうな友だちがいるなら誘ってみましょう。はじめてみるとその続きが見えてきて、いつのまにか遠くまで行けるかもしれません。

“やっていき”ましょう。

 

twitter:  

*1:その後一緒につくった本についてはこちら→『呉服元町商店街』のこと - 屋上より

*2:https://twitter.com/sasakiatsushi/status/988046294299033600

*3:https://twitter.com/sasakiatsushi/status/988265789277986817

*4:https://twitter.com/sasakiatsushi/status/988277266898608128

*5:島根県津和野で高校生の下宿を運営し、地域の教育や研究機関に携わるほか、批評とメディアのプロジェクト『レトリカ』を刊行している人です。こう書くと活動が多岐にわたるため分かりづらいかもしれませんが、かなり気合の入った文化運動をしている91年生の人で、いつもツイッターのTLで参考にしています。彼の活動についてはこのインタビューがわかりやすいかもしれません。→https://share-study.net/interview12-seshimoshota/

*6:https://twitter.com/seshiapple/status/1160237025565351936?s=20

*7:https://twitter.com/seshiapple/status/1160236278610194432?s=20

*8:https://twitter.com/rrr_kgknk/status/1133737004561125376

*9:https://woolf.ofuton.in

*10:イベントの詳細がはっきり伝わるようなURLを貼れなくて申し訳ないが、“やっていき”の雰囲気が少しでも伝わればということで、ツイートとTogetterのリンクを貼っておきます。

ツイート : https://twitter.com/miyayuki7/status/1147759105035005952

Togetter :  「 #わたしたちのやっていき 〜インディペンデントメディアをつくり、発信することについて〜」 文芸同人誌『かわいいウルフ』重版記念 - Togetter

*11:本のあるところ ajiro|書肆侃侃房

*12:いちど書いたあとで音楽を除外した。音楽には比較的逆風がない気がする