日記・雑記(3) ワンピースってどこがおもしろいの?と聞かれた話

<中学の教室っぽい話がしたい>

最近友達から、「ワンピース好きなの?意外!田舎のヤンキーが好きなイメージしかない。絆とか、友達(ダチ)とか、地元とか言ってる人のイメージしかない」と言われて、いやいやいや、めっちゃおもしろいからね!!!!!とその場で解説する回があった。

 

 

その話をなぜ日記に書くのか。本来自分がTwitterに求めているのは「中学の教室」なのだ*1が、最近のインターネットは、Twitterに限らず政治の不祥事や強姦の無罪判決などで牧歌性が失われており、中学生が昼休みにするような話が圧迫されている気がするから。ということで、特に深い意味はないけど、中学の教室でやってそうな話をします。ワンピースのどこがおもしろいのかという話。

 

 

<ワンピースのどこがおもしろいのか>

 

1/3  世界設定のおもしろさ

ワンピースがどういう漫画なのか、自分流に要約するとこんな感じ。

 

舞台は、警察組織や国家連合を傘下に置く、巨大な権力が統治する世界。現行の権力が覇権を握った七百年ほど前、書物や記録のほとんど残っていない"空白の百年"が存在する。しかし、使命を帯びたある一族が、決して破壊できない石に史実を記録していた。海賊たちはアンチ権力のアイコンとして点在する石碑をめぐり、現代世界の成り立ちを探る。実存的な不安を掘り下げる冒険譚。

 

 

「ワンピースって仲間とか友情とかそういうのでしょ」

というステレオタイプな見方は、実際にある程度そうなので否定しない。ただ、大河ものなので楽しみ方は多様であるし、話の大枠でいくと、隠された世界の成り立ちをめぐる冒険と言ってしまえる。ただ読者の多くは、謎解きのことを普段は意識せずに読んでいるはずで、自分としても、世界の謎をめぐる話だからおもしろいぞと言いたいわけでは全然ない。とにかく話作りがうまいのだと言いたい。

あと、「火影になる」「天下の大将軍になる」系の立身出世ではなく、アナキストの冒険であるところがいい。権力の欺瞞に対してわりと安全に石を投げられるのが心地いいのかもしれない。既成権力での立身出世話は、自分たちが属性として加害者であることについて常に内省を強いられるため、「ずっと戦ってるけど大義名分あるのかな?」という感覚がつきまとうが、ワンピースは、戦いの動機にカラッとした気楽さがある。 

 

 

2/3 ディティールのおもしろさ

ディティールの織り込み方がいい。ひとつの島を例に挙げる。

主人公たちが訪れる島のひとつに、場所の定まらない、特定の海域を周遊する島があらわれる。しかしその島の正体は、海を闊歩する巨大な象なのだ。上陸はおろか、原住民の案内がなければ場所を特定することすら難しい、孤独な島である。そこでは毎朝象が海水をシャワーのように吹き上げて水浴びをし、住民たちはその水分から海産物を得るという奇妙な生活が営まれている。象は水底に足を付けて歩くため、足は異様に細長く、その胴体は雲の上に霞んでいる...。

冒険譚としての楽しみや、いくつものアイディアを感じられる設定だが、じつは元ネタにダリの絵画がある。

f:id:leoleonni:20190411003034j:plain

この絵について簡単に解説をすると、強大な力を想起させる象と、ひ弱で細長い足を組み合わせる、さらに宇宙に浮かせる、というやり方で、力を相対化するモチーフらしい*2

ワンピースはこの手の本歌取りによって奥行きを持たせるのが巧みな上に、画力の高さも相まって、ファンタジーとしてとにかく良質なのだ。ちなみに作中では、非常時に一瞬だけ象と意思疎通をはかる場面がある。そこで象は「命令されて」「罰として」海を歩き続けていると自己紹介する。誰が命じたのか、どんな罰なのかはこれからの展開に期待、という感じ。

加えて、ワンピースの見所は、どんなにイマジナリーな場所でも、その島の地理はかくかくで、産業はこれで、どんな風に経済が成り立っていて、こんな食文化や生態系がある、という暮らし向きを毎度細やかに紹介するところにある。言うなれば、観光編をきちっとやる。そこが素晴らしい。だいたいファンタジーなんて、「こんな場所もあるのかも」と説得されるために読んでいるようなものなんだから。オベリスクを乗せたダリの象が海を回遊する、象は太古に受けた罰によって歩き続けている、そういう荒唐無稽なアイディアを、絵と話の作り込みで魅せる。

 

 

3/3 アイデンティティの描写

最近は物語が終盤に近づき、世界の一角を担う強大な海賊が出てくるのだが、世界最高峰のその海賊団は、船長を務めるひとりの母親と、その子供たちで形成された血縁集団である。

f:id:leoleonni:20190411005748j:plain

強大すぎる母親の生命力を受け継いだせいか、子供たちには奇形が多い。三つ眼、口裂け、多頭、首長、ツノ付き、巨人、書き連ねると百鬼夜行のよう。彼らは殺しや拷問も厭わないギャング集団でありながら、幼少期に見た目を笑われた経験までさかのぼってコンプレックスがあるため、繊細な一面を隠した敵としてあらわれる。

三つ眼の女は、愛のない政略結婚として嫁入りするはずが、前髪で隠した最後の眼を「なんて綺麗な瞳なんだ!」と認められたことで、花婿に惚れてしまい、計画に狂いが生じる。口裂け男は、身内にも裂けた口元をひた隠しにしているが、激しい戦いの最中でそれが露わになる。主人公は、敗北し横たわった彼の口元に帽子をかぶせて去ることで敬意を示す。誰もが知るように、帽子は主人公ルフィのアイデンティティを示すものであり、裂けた口元と帽子の重なりには並々ならぬ重みがある…。

主人公一行は正面衝突ではまず勝ち目がないのだが、異形の者たちが抱えたコンプレックスにどう触れるか、という一点によって、すんでのところで命を救われるのだ*3。少数者のアイデンティティ描写については、挙げだすとキリがないくらい、作者がテーマとしている問題である*4

 

だいたいはこんなところ。どうだろうか?この紹介によって、読んだことのない人が興味を持ってくれる、あるいは、もう読んでいる人が何かを再発見したり、ほんとそれな〜と言ってくれれたりすると嬉しいです。中学の教室みたいな気軽さで。

 

= = = = =

 

追記

しかし考えてみると、ジャンプ漫画の話がしたいしたいと言いつつ、ではわざわざ友達に電話をかけるかというと、そこまでの事柄でもないから不思議である。ジャンプの話は、話すべき用件というよりも、朝から晩まで同じ友人と顔を合わせて、用件が全て終わった、コミュニケーションが飽和した空間に析出する類のものなのだ。思えば中学の教室はそういう場所だった(よね?)。今は友人たちと顔を合わせても、仕事や家族、生活の話が上に来るのであって、なかば惰性で読んでいるジャンプ漫画の話になるまで、何もかも”話し終えて”しまうことはほとんどない。

「中学の教室」という概念を紐解いて、あの時間の何が特別だったのか考えてみると、話すべき物事に対し、話す時間が膨大にあったことに思い当たる。そのせいで、空気が抱えきれなくなった水滴が結露して現れるように、誰かと話をしていた。次の日には残らないような話を。

ところで、話が尽きたあとのグルーヴというと、中学の教室に限らず、同棲生活や深夜のラジオなんかを思い出す。あの程よい湿度を求める感覚は普遍的なのかもしれない。いやはや、最初はジャンプの話だったのに、いまいち関係なさそうなところまで来てしまった…。

 

*1:もともとTwitter @osicoman の発言。

*2:この説明はググって出てきたのを貼っただけ。

*3:そういう善悪の公正仮説でいくとちょっとつまらないが、残酷物語だとここまでは売れないのでやむなし。

*4:あと、昔から思っていることを書いておきたいのだが、ワンピースで描かれるLGBTには陽気なオカマしかおらず、差別的・画一的なので変えたほうがいい。

筋トレをして鬱になった話と、筋トレは虚しいという話

・筋トレをして鬱になった話

わざわざこんな記事を書く気になったきっかけはこれ。

 

mdpr.jp


 
常識的に考えれば、薬物やアルコールなどアディクトの影響下にある人について、「筋トレすれば大丈夫」と冗談めかして言うことは無理解で無神経だと思うが、圧倒的に支持されているようなのでモヤモヤした。精神的に悩んでいる、という人に、「ジム行きなよ」と返す、あの何もわかっていない人たちと同じ精神性を感じる。
 
だいたい、覚せい剤で大変だった頃の清原なんて筋肉隆々なのに悲壮感がすごかったし、イニエスタでもうつ病になるし、なぜ筋トレすれば解決するという言説が喜ばれるのかよく分からないが、バーの明るいオカマのようなイメージで、健全なキャラクター像をマッチョに投影するエキゾチズムがあるのだろう。
自分は筋トレに成功し、体重を大きく増やした時期にうつ病を発症した。仕事や人間関係の悩みが原因である(普通)。病気を前にすると、筋トレはもちろん、健康に気を使った生活や、もともとの明るさもほとんど無意味なのだと感じたので、薬物のアディクトに対してすら、「筋トレすれば大丈夫」がもてはやされる風潮は有害ではないかと思う。
 
 

・筋トレは虚しいという話

自分がなぜ筋トレ話をし始めたのか、という話をする。もともと痩せ気味の体型を気にしており、筋肉をつけたい、健康的な体型になりたい、と思っていたところに、昨今の筋トレブームとマーベル映画が重なった。キャプテン・アメリカを観ながら、「クリスエヴァンスまじかっこいいな…ためしに筋トレというやつをやってみるか…」と思い至ったのが去年の春ごろ。その後何をしていたかというと、筋トレに並行してターザンを1冊買い、信頼できそうなサイト*1 やYoutuberなんかを暇なときにチェックする。そして、

「筋肉痛があるときでもトレーニングしていいの?」
「空腹時のトレーニングで筋肉が分解されるって本当?」
ボディビルダーって減量期に有酸素運動やるの?」

などの初学者あるある的質問を思いつくたびにつぶしていく、という習慣を1、2ヶ月続けると、普通にやるぶんには充分な筋トレの常識が身についた。ファッション誌を3月連続で買うと、基本的なファッションや髪型の文法がわかって、4冊目からは表層的なチェックだけでよくなるみたいな感じ。
適切な量のトレーニング、食事、プロテイン摂取を続けた結果、体脂肪率は微減、半年で体重は7キロ増えた。同じ体重のボクサーを画像検索すると、ぱっと見るかぎりでは同じような体型をしていた。筋肥大の成果としては満足いくものだったといえる。

筋トレをやってよかったのは、

  • カロリーやタンパク質、ミネラル等の計算を通して、摂取する栄養に自覚的になれたこと
  • 今まで増えも減りもしなかった体重を変化させる術がわかったこと

このふたつに関しては、本当にやってみてよかったと感じている。25歳で初めて、健康を意識し、自分の体の変化に敏感な生活を送ることができた。

しかし、これは最初の1、2ヶ月でいったん身につければ、以後は筋トレを続ける動機になりえないものだった。前提として、筋トレは続けなければ効果がなく、何もしなければ筋肉はどんどん落ちていくものだ。

では、なぜ飽きっぽい自分に筋トレが続けられたのか?と考えてみると、筋トレのギミックに答えがある。筋トレはやればやるほどいいというものではなく、2、3日間の休養期間を挟んで行うのが効果的であるとされる。つまり、


筋トレをする→2、3日経つ→筋トレをする

 

というサイクルの繰り返しである。休養後、筋トレに適したタイミングは超回復期と呼ばれ、超回復期にトレーニングをすることで筋肉がついていく。しかし、逆にいえば、その時期を逃すと効果が大きく薄れてしまうのだ。

このギミックは、いま思えばソシャゲの報酬システムにそっくりだった。スタミナ溜まったからやろう、今日のクエスト来たから消化しよう、と同じ動機付け。あるいはログインボーナス。しかもソシャゲの報酬と同じで、現実に全く還元がなく、閉じた世界のものだった。

最初は体型が変わること自体に驚きや発見があり、自身の健康を見直すきっかけにもなった。しかし、変化を楽しむ段階、健康についての学びが大きい段階を過ぎると、きつい筋トレに対してのリターンは”筋肉だけ”になった。こう書くと当たり前のようだが、ふつう筋トレする人の多くは、筋肉そのものではなく、健康とかモテとかスポーツの結果とか、二次的な何かが目標で、べつにボディビルダーになりたいわけではないことを思い出してほしい。少なくとも自分の場合は、筋肉そのもののためにどれだけ頑張れるか?という問いに直面してやらなくなった。

筋肉をつけたところで、恋人も友達も褒めてはくれない(「なんか最近やってんなー」と思われるだけだ)し、健康の面でも、途中からは自己満足の世界に入る。このへんは、成果を見定めてくれるトレーナーの存在や、筋肉そのものではない二次的な目標(結婚式までに痩せる、◯◯山に登頂する、等々)があるかどうかで変わってくるのかもしれない。ただ、特にそのような目標のない人の筋トレは自己満足でしかなく、トレーニングが好きな人、修行が好きな人のためのものになりがちだと指摘しておきたい。


・まとめ

簡潔にまとめると、言いたかったのはこの2点。

  • 「筋トレは精神的な問題に対する万能薬である」とする言説は根拠がなく、精神的な問題を抱える人にとっては抑圧的なものとなりうる。
  • 体験談として、筋トレによって食生活や運動習慣の見直しなどポジティブな効果も得られたが、途中からはソシャゲ的な報酬の自己修練になり、モチベーションが維持しづらかった。



最後に、少しまえ話題になった羽田圭介氏のインタビューを貼っておく。引用箇所は全文同意。

 

――でも巷では、自己啓発系の筋トレ本やNHK『筋肉体操』などを通じて「筋肉は誰にも奪われない」「筋肉は裏切らない」といったフレーズが話題になったりもしています。
 
羽田 何もしなくても筋肉がつく人はそうでしょうけど、日本人の体質的には、筋トレは時間が奪われるものですよね。筋肉を維持するために、すごくいろんなものを犠牲にすることになる。食事とか時間とか集中力とか。やめたらすぐヒョロヒョロになっちゃう人は、もっとほかのものにエネルギーを割いたほうがいいんじゃないかな、と思います。それを本当に生きがいにしている人を否定はしないですけど、無理して中途半端に真似ようとするのはやめたほうがいい。「筋トレでメンタルが変わる」っていうのは順番が逆で、地味で苦しいことを続けられる人が筋トレをやっているだけです。

 

 

www.asahi.com

*1:https://www.rehabilimemo.com 非常に有用な情報源だと思います。ご存知なかった方にはおすすめです。

地理、水場、引越しなどについての日記


 
1/2
 
この春、いま住んでいる東京から福岡へ引っ越す。もともと生まれ育った京都が愛憎ありつつも好きで、ミーハーだから東京も好きで、それ以外ではじめて住んでみたいと思えたのが福岡だった。
東京や大阪とは比べものにならないほどきれいな都心、外食産業の発達ぷり、海の身近さ。もっと直感的なところでは、建物が低く、空が広いのが嬉しかった。都心から地下鉄で11分のところに空港があるためだ。自分が生まれ育った京都も景観条例で建物が低かった。あの風景に慣れてしまったせいで、いまも空が狭いと落ち着かない。
 
 
京都にいたころ、冷泉家という貴族の屋敷で何年も働いていたから、福岡の街中に冷泉通りという街路を見つけたときは嬉しかった。大昔、福岡の沖で人魚が釣りあげられ、朝廷から冷泉中納言が派遣された話に由来しているらしい。
微かなつながりでも喜ばしい。近くに祀られた人魚の墓もいい。その通りに近づくたび、京都の公家を、逸話のなかの人魚を、この地と屋敷との奇妙な縁のことを考えた。
 
 
いまはスペースワールドのことを考えている。福岡県北九州市に存在した遊園地。訪れる機会がないまま閉園したその場所は、ずっと車窓の向こう側のものだった。電車が動き出すと、絶叫マシンのコースが派手な曲線として窓を横切っていく。あのアイコニックな図形が、「スペースワールド駅」というアナウンスが、いまも記憶のなかに封じ込められている。だが2018年元旦の閉園以降、徐々に解体が進んでいて、このあいだ通ったときには、曲がりくねったあのコースはばらばらに寸断されていた。
 
それでもあの「スペースワールド駅」という名前は残るだろう。学芸大学駅みたいに。珍しい名前の駅は毎度必ず反対にあうが、地理の裏付けさえあれば、味のある結果を生むはずだとつねづね思っている。数十年後、何もない場所にスペースワールド駅が佇んでいるといい。
 
 
2017年刊行の本で何より素晴らしかったのは、椹木野衣の『震美術論』だった。この本のおもしろさを書き連ねるときりがないが、そのひとつに、被災地の地理に関する記述がある。

東北大震災のあと、もちろん過去の震災の記録に関心が集まった。そこで注目を浴びたのが、三陸海岸に点在する石碑群であった。それまで古びた文化財としか考えられてこなかった石碑が、実際にはその地方で歴史的に繰り返されてきた大津波の到達地点を伝える、歴史的メディアであったことが浮き彫りになったのだ。

また、2014年に起きた広島の土砂災害においては、いちばん被害の大きかった地域が、もともと「八木蛇落地悪谷(やぎじょうらくじあしだに)」と呼ばれており、土地を売るために「八木上楽地芦谷」に変更された、という説が紹介されている。

こういうことを考えだすと、なんでもなかった地名が、石碑が、名字が、示唆的なものとして光を帯びる。なんならヨドバシへ行くだけで水場の記憶が流れ込んでくる(電波!)。かつて大規模な浄水場が立地した、未開発な新宿の記憶。普段は意識しなくとも、固有名詞の中に残った微かなイメージを感じながら生活していることをときどき思い出す。
 
 
1年住んだ江東区に思い入れがあるかといえばまだ分からない。ただ、「東京都江東区」につづく「海辺」という住所が好きだった。住所の響きで決めたようなものだった。海辺に帰ります、海辺の家に住んでいますと言うのは気分がよかった。ただ、じっさいに海の気配はなくとも低地で、水害のことが頭からはなれなかった。悪夢にはよく水が流れ込んできた。
 
生活圏が2階までに限られていたから、寝るまえにはいつも悲観的な災害予測を──4階の高さまで水に浸かるという試算を──思い出した。タワマンに住んでいる人間だけが生き残るディストピアを想像してときどき冗談を言った。次に住むのは水害とは無縁の土地だから、水の夢にとらわれることもなくなるだろう。
 
江東区に住んでいる友達はひとりしかいなかった。タワマンの13階に住んでいたから水没の心配はないはずだが、断水工事のさい、蛇口をひねったままにしていたせいで部屋を水浸しにした。本当の話。本当に気の毒。
 
 
= = = = =
 
 
2/2
 
渋谷で久しぶりに朝まで飲み明かし、うとうと始発に揺られている。最寄駅につく。改札をでて、海辺の自宅へと歩く。とちゅうで橋にさしかかると、横から強烈な朝日が射してくる。みごとな朝焼け。思わず足を止め、しみじみ朝日と川を見る。ほんの数十分まえ目にした、渋谷メルトダウンとの振り幅を思えば自然に笑いがでてくる。喫煙者じゃないからわからないけど、こういうときにたばこを吸うと気持ちいいんだろうな。
しかし、川の上流をぼんやりながめているうちに、自分の知っている朝日と何かが違うことに気づき、だんだんと困惑しはじめる。ちょっと気持ち悪い。方角がおかしい。
 
 
京都にいたころ、毎年大晦日に友達と集まり、クラブや飲み屋をはしごしながら初日の出を待つ恒例行事があった。そのとき、朝日は川の向こうからのぼるものだった。京都の市街地は基本的に川沿いに位置しており、朝まで遊ぶといったらまず河原町、文字通り河原に広がる町しかない(京都METROもあるけど)。だから、夜遊びのラストシーンはおのずと決まっていた。

朝がくる。川の向こう側から朝日がのぼる。だが自分たちがたむろするこちら側はまだ暗い。京阪に乗るため、橋の向こう側へ、明るい方へと歩いていく。友達と別れる。京阪の出口から橋を振り返ると、さっきまでいた場所が明るくなっている……。
つまり京都の朝日は川の対岸から、江東区海辺の朝日は川の根元からあらわれる。
 
 
地理に由来した感覚をおもしろいと感じる。たとえば渋谷では、疲れているときに歩き回ると、どんどんと駅の方へ吸い寄せられてしまう。地形がすり鉢状で、その底に駅が横たわっているから。神戸では、北↔︎南ではなく山側↔︎海側というインフォグラフィを見かける。だから、坂を下ると海に行きつくという生理的な感覚が神戸の人たちには染みついている。
 
碁盤の目が張られた京都では皆、x軸とy軸のグリッドで場所を把握しているが、東京の人びとは、出発駅と、つり革につかまっている時間の極座標で場所を認識している。だから道案内のときに北とか南とか言ってもほとんど通じない。
 

ある場所では坂をくだると駅に吸い込まれる、別の場所では海へ行きつく。ある場所はグリッド上に、別の場所は極座標上にある。ある朝日は上流から、別の朝日は川の向こうからのぼってくる。
川の方向が南北か、東西か、それだけのことで、太陽が対岸からあらわれるのか、上流からあらわれるのかが宿命づけられていて、どんなに何気ない川でも、タイミングが味方すればびっくりするような美観を隠していることに思い至る。そういえば、濱口竜介の『親密さ』は、この秘めたる美観を生かした映画だったな、と思い出す。
 
 
朝日についての違和感がとけたところで、また家へと歩きだす。牛乳を買いに寄る。もう引っ越しまで間がないから、最近は移動のコストに見合わないものや、保存の利かないものを少しずつ捨てている。スーパーに来る回数も減った。
今まで、まわりのパックにまぎれて賞味期限が早い牛乳を見かけるたびに、「誰がこんなもの買うんだろう」と感じていたが、ふと思う。去り際の人が買うのかもしれない。はじめて古いパックを買う。4月にはもうここにいない。
 

二十一世紀に音楽を聴くということ

 

 

クレヨンしんちゃんを見ていたら、しんのすけたち園児組が、不良っぽい年上に絡まれるシーンが流れてきた。園児たちが冷や汗をかくなか、しんのすけが「ねえ、おにいさんたち…」と、オネエ口調の冗談でからかい、なんだこいつ、と逆に不良の方がどぎまぎする。

このくだりに、テレビの前の自分はほとほと感心してしまった。学校で、路上で、職場で、ベッドルームで、背後の力関係を効かせた誰かが理不尽を強いる。普通はうつむいて従う、せいぜい逃げ出す、くらいしかないのだが、そういう抑圧を一瞬で相対化する技がこの世には存在するのだ。

 大事なのは、しんのすけが力で対抗しなかったということだ。力ではないとしたら、何だったのか?ここではユーモアである。

 

 

ゲットー・ブラスターという言葉をご存知だろうか。名詞としては、黒人が担いで歩くでっかいラジカセのことなのだが、その意味は、ゲットーで爆音の音楽を流すところにある。

場はパーティーのムードに包まれ、そこでは、暴力で人を支配しようなんてあくどいやつは退散してしまう。そして、その行為を通じて、最終的には暴力のうずまくゲットーをなくそうという意図も含まれる、という大変クールな話である(ここまで菊地成孔の受け売り)。

 想像してみてほしい。楽しく人が揺れている場で、やれドラッグだ、借金の返済だ、と誰かをどやしつけている人間は、たとえその場で一番強い力を持っていようと、周りからまったく無粋な人間として扱われるに違いない。往々にして脅す方が声をひそめるのは、力による制裁を恐れるからではない。自分の名誉に関わる非難を恐れるからだ。

 

立ち戻ってみると、しんのすけが不良を困惑させたユーモアは、その場ででっかいラジカセから音楽を流し、踊ってみせる行為にも置きかえられたはずだ。

ふたつの行為に共通する、大切な点は以下、

 

( i ) 力で従わせないこと(従わないこと)。
( ii )別のやり方を示すこと。

 

 

 

今年観た中で最も心動かされた映画、そして人生の一本となった映画に、エミール・クストリッツァの『アンダーグラウンド』がある。紛争の果てに今や失われてしまった国、ユーゴスラビアを舞台にした、どんちゃん騒ぎの映画である。戦争、ギャング、花嫁、不死身の将校、地下世界、動物園…とにかくいろいろなものが登場するこの映画については、話し出すとキリがない。だが、その中で素晴らしい点をひとつだけ挙げるなら、結婚式や葬式はもちろん、戦時中や強盗の現場、たとえあの世だろうと、しぶとく演奏し続けるブラス楽団が現れるところだ。作中では楽団の演奏とともに、こんな字幕が浮かび上がる。

 


苦痛と悲しみと、そして喜びなしには、
子供たちにこう語り伝えられない

"昔、ある所に国があった" と──

 


楽団の彼らはよろめきながら、逃げ回りながら、時には脅されながら、決死の演奏を試みる。それは、暴力によって消滅してしまったその国に、今や記憶の中だけに封じ込められてしまったその国に、暴力以外の営みがちゃんと存在したことを、語りつがなくてはいけないからだ。人間の様々な生のあり方を否定させないためだ。耳に入ってくるのは、勇壮で明るい演奏である。だが観客は、その音色がとてつもなく悲しい響きを持つことも知っている。

本当のところ、(音ではなく)音楽を聴くというのは、ただただこの音色の反転を聴き逃さないことを意味するのだ。

 


 


二十世紀には、音楽の鳴る場がテロの標的に選ばれることはなかった。暴力にふさわしくない場だという暗黙の了解が会場を包んでいたのだ。しかし二十一世紀に入り、事態は一変してしまった。ここ二年だけでもあまりに悲惨なことが起きている。

去年、フロリダの銃乱射では、バスドラムのリズムに合わせて、面白半分でナイトクラブのゲイたちが撃ち殺された。今年の五月、アリアナ・グランデのライブ会場で起きたのは、わざと子供を狙った自爆テロだった。最も幼い犠牲者は八歳の女の子で、一見奇妙なことだが、事件後には"行方不明者の捜索"が行われた。直後、アリアナ・グランデツイッターでこのように発信した。

「打ちひしがれました、心の奥底から。途方もない悲しみで、言葉が見つかりません。」

無論、次の出演はキャンセルとなり、以後の公演については、まだ考えることすらできない状態だと報道された。

 

 

  

( i ) 力で従わせないこと(従わないこと)。
( ii )別のやり方を示すこと。

 

 

 

 

二週間後、アリアナ・グランデは、マンチェスターに舞い戻った。惨事が起きたその地で、チャリティーライブを開催するためである。記事をそのまま引用しようーー

 

"20時近く(現地時間)にアリアナのマネージャーのスクーター・ブラウンが登場。スクーターは22日の事件で負傷した15歳の少年を見舞った際に託された「怒りに突き進まないで、愛を広めて」というメッセージを伝えると、ロンドンの事件発生翌日のコンサートに参加したすべての人々の決意に感謝を述べ、「恐怖は私たちを分断しません。なぜなら今日、私たちはマンチェスターのために立ち上がったからです」と語りかけた。ここでアリアナがステージに姿を現し、観客から大きな喝采で迎えられた。"

http://www.cinemacafe.net/article/2017/06/05/49957.html

 

 

並外れた宣誓である。人道的で愛に満ちているが、同時に荒唐無稽な響きもある。はたして綺麗事だろうか?仮にそういう向きがあっても不思議はないのだが、彼女の決意を前にして、自分は思わず言葉を失ってしまった。

ここで言いたいのは、アリアナ・グランデはまさに、暴力に従うことなく立ち向かったということだ。暴力とは別のやり方で。

 

* 

 

嬉しいことに、アリアナ・グランデの振る舞いと共鳴する思想が、日本にも根付いている。耳にしたことがある人も多いはずだ。

 

 

"とにかくパーティーを続けよう"

 

 

五年ほど前、風営法の改正が強く求められていたこの国で、何度も何度も聞いたフレーズである。『今夜はブギー・バック』の一節であり、切実な願いでもある。特に今のような時代においては。

なぜパーティーを続けるのか?それはアリアナ・グランデがはっきりそう示したように、パーティーが古来から連綿と続く「別のやり方」だからだ。彼女がパーティーをいったんやめざるをえなかったのはテロのためだが、日本の場合は、ディスコ帰りの中学生が刺殺された事件の残響によってである。どちらも暴力を前にして一度はパーティーが解散され、多くの人々の努力によって取り戻された。

 

 

音楽に代表される、文化(や芸術)は不道徳で自堕落、教育上よくないものばかりだが、なぜか一定の教育的価値があると信じられている。本当にそんな価値があると考えてみるならば、それはまさしく、暴力に対して別のやり方を示すというものだ。

文化が教えてくれる最良のことは、北風ではなく太陽として生きる術である。一冊の本、漫画、一枚のレコード、絵画、映画…なんなら落語の話ひとつでも、地図帳でもいいけども、それらを通過するたびに、誰もが少しずつこのことを教わるはずだ。アリアナ・グランデのファンは少なくともそうだった。これを書いている自分も、その命脈の端に連なっているつもりだ。

 

他にもいろいろな言い方がある。オノヨーコはきっと同じ意味で 「戦争より愛を」と言った。実際に彼女が何を意図していたのか、他に誰がどんなことを言ったか、多くを知っているわけではない。けれどもそれらは根底で似通っていて、少しバージョンが違うに過ぎない。そして、それを解さない人間は、どれだけ音楽好きを自称しようがモグリと見なされる。

ジョニー・マーが当時のデヴィッド・キャメロン英国首相に、「スミス好きを名乗るのをやめろ、スミス好きを禁止する」と言ったのも、ストーンズドナルド・トランプに楽曲の使用中止を求めたのも、相手がモグリだと感知していたからである。

 

 

ここまで書いてきた文章は、ある言い方で「戦争より愛」として現れるメッセージを、「北風ではなく太陽であること」や、「別のやり方を示すこと」などと翻訳しながら、自分なりに長々と言い換えてきたようなものだ。

マンチェスターに戻ったアリアナ・グランデが、ステージ上で"Love"と書かれたTシャツを着ていたのは、もちろん偶然ではない。言い換えにはいろいろなバージョンがあり、野原しんのすけ菊地成孔、アリアナ、スチャダラパーなど、実はいくつものバージョンを紹介してきたのだが、小沢健二のバージョンもある。彼も昔は素晴らしい詞を書いた。最後に、"天使たちのシーン"から歌詞を引用して、この雑記を終わる。

 


"神様を 信じる強さを僕に 生きることを あきらめてしまわぬように
にぎやかな場所で かかりつづける音楽に 僕はずっと耳を傾けている
耳を傾けている 耳を傾けている"

 

 


今年の自分は、また性懲りもなく時間を割いて、本を読み、映画を観にゆき、そして何より、にぎやかな場所でかかり続ける音楽に耳を傾けていた。同じような暮らしをする世界中の誰かと同じように、「これが一体何になるっていうんだ?」と思わされることもしょっちゅうだ。

それでも、自分のような人間がやめずに今日まで続けてきたのは、ちゃんと理由がある。それは、そうして耳を傾けることが、一番小さな規模でパーティーを続ける方法だと、心のどこかで信じてやまないからだ。

  

 

 

 

 

パターソン感想

 

 f:id:leoleonni:20170927094218j:image

ジム・ジャームッシュによる、ある詩人の一週間を描いた作品。共に暮らす妻はチャーミングで、ブルドッグのマーヴィンは視界に入るだけで思わず微笑んでしまう愛らしさである。詩の素晴らしさ、最後の永瀬正敏のシーンのひどさ*1などいろいろと見所のある映画なのだが、「何も起こらない」「筋がない」「日常の話」という前評判で観たらけっこうな違和感を感じたので、そのことについて書いておきたい。

まず、かなり構成的な上、ちょっとあざといやり方で観客に気を持たせるので、「筋がない」という評は当たらない。

 

= = = = =

 

f:id:leoleonni:20170926185756j:image

この映画では、毎日同じ路線を巡るバス運転手の視点を通して、実は少しずつズレた街を描いていく。主人公は仕事の合間に書く詩を密かな楽しみとしているのだが、妻から、発表はしないのか、せめて詩のコピーを取らないか、と説得される。主人公は渋るが、妻の押しに最後は根負けして、コピーを約束する──この時点で、作品に週末という期限が定まるとともに、不吉な陰影が彫り込まれることになる。複製を作ることができない/複製によって何か重要なものが変質してしまう、などの結末を観客は想像し、そのあとの一週間をかけて、複製、交換、双子、などのモチーフに触れながら、積み重ねた一日一日が層を成してゆく。そういえば、週は人間が時間の移ろいに刻んだ韻で、双子は遺伝子の押韻である。

 

こんな風に書くと伝わると思うが、構成が明確な上に、隠喩が点々と配置された作品で、観終わった観客にはそれらしいヒントがいくつも残される。以前にもちらっと書いた*2のだが、私はこういう作品の呼び寄せやすい読解が、というか、単純なコードに反応するだけのメタファー探偵のような評論を怪しく思っている。

それは例えば、「円環」「直線」「十字」「入れ替わり」等々を巡って延々考察する映画評のことだが、線のない映画も、入れ替わりを見出せない映画も存在しない。上映のあいだずっと円環、直線といった小規模なモチーフ探しに意識を割くのは、手間はかかっても、その気さえあれば一番誰にでもできる見方ではなかろうか。

 

何にせよ、ミニマルで単線的な物語において、このように構成的なところがくっきり示されれば、どうにもあざとく映るということを指摘したい。観ていると、まるで自分が点々と置かれたパンくずを追う小鳥になったような気がして、窮屈に感じてしまう。そういう点では少し物足りなかったが、映画の見どころは他にある。

 

= = = = =

 

f:id:leoleonni:20170926192252j:image
パターソンの一番のフックは、主人公の書く詩にある。挿入される詩がどれも上質で、それぞれが、交換不可能な存在について、名付けてしまったせいで素通りするようになった現象について、生活の代謝について、驚くほどの巧みさで表現している。何より、画面に一行ずつ現れる文章を追うというスタイルが、詩を味わう上で素晴らしい。あんな風に詩を生き生きと楽しんだのはいつぶりだろう(詩の朗読会へ行く人は、こういう感覚を求めているのだろうか)、という感想が来るのと同時に、翻って普段の自分の読書についても考えることになった。

 

劇中では、一行の詩が余裕を持ってゆっくりと現れるからこそ映えるのだが、現実の読書で、一行にあれだけの時間を使うことはめずらしい。普通私たちは、素早く全体を見渡し、要点を整理し、理解に勤めようとする。学校でそうしてきたように。子供のころから情報処理や分析を目的に活字を追っていると、読むスピードは自然に速くなるが、情報として全ての行に目を通すことと、そこに込められた詩情を味わうことには当然大きな差がある。

素早く目を通すこと、情報を処理すること──『パターソン』では、効率や、社会の要請に応じたやり方で詩に接したとき、取りこぼしてしまうものを拾い上げていく。観終わってぼんやりと考える中で、ポエジーがスピードによって遠ざかる(!)、という、当たり前のようで切実な問題に胸を衝かれていた。

 

= = = = =

 f:id:leoleonni:20170927094632j:image

映画の中盤までは、誰もがiPhoneを持つ場所で、主人公にだけ持たせないのは作者の不実ではないか、というぼやきが頭に浮かんでいた*3が、作中で一日が過ぎるうちにその感覚は更新された。主人公のパターソンは、効率や複製、ひいては現代的な合理に覆われる前のポエジーを(あるいはアウラを)採掘する存在であり、決して複製芸術*4的なものに手を貸してはならないのだ。彼はその日あった特別な出来事を妻に伝えるとき、iPhoneのシャッターを切ったり、カメラロールを覗き込ませたりはしない。詩として書き、家に帰って時々聞かせてやるだけだ。映画の終盤、予告された週末にブルドッグのマーヴィンがしたことは、*5主人公の、ひいては夫婦の救済だったと言える。

 

そういえばこの映画は、和やかな目覚めのシーンで始まったのだ。朝日の差すベッドで、寝ぼけた妻ローラ(auraにエルを足したLauraという名前…)が夫に話しかける、「私たち、夢の中で双子の子供がいたのよ」。そして、不穏にもこう続く。


私たち2人に1人ずつ。

 

 

= = = = =

 

f:id:leoleonni:20170927094154j:image

 

速い方が、効率の優れた方が、同じ轍を踏まない方が、替えのある方が良いーー『パターソン』は、あらゆるスピードによって、合理によって、学習によって、目の前の事象を0と1の羅列に変換しようとする力によって、隠されてしまったポエジーを掘り起こす作品である。つまり、詩を扱った作品ならではの鋭利さを持っているということだが、注意しなければ、その鋭さすら見落としてしまう。なぜならこれは、「何も起こらない日常の素晴らしさを描いた話」と簡単に合点してしまった途端、霧となって消えゆくものについての映画なのだから。

 

 

 

*1:「(確率の問題として考えれば、こんな奇遇な事件に恵まれる1週間は稀だけど)こんなことも起こるだろうな」という映画の中のリアリティにずっと馴染んだ状態で観ていたのに、最後に出てくる永瀬正敏が、英語の発音から鞄のかけ方まで強烈に自分のよく知る日本的な現実感でもって差し込まれて、こんなことは起こらないよ、と耳元で言われたかのように我に返ってしまった。

*2:ヒップホップ警察を追い返せ!!と、この時代のスノビズムについて - 屋上より

*3:ただの一般論で、年老いた作者が登場人物をSNSスマホに近づけず、往年のやり方でドラマを書くのは怠慢だ、という意味。

*4:人文書を読む人なら、この作品を観たとき脳裏に『複製技術時代の芸術』がちらつくのではないだろうか。この記事では詩と絡めてポエジーと言っているけども、ベンヤミンが言うところのアウラと重なる部分も大きい。

*5:ちなみにその裏で主人公夫妻がしていたことと言えば、「久しくしていなかった映画(複製芸術)観賞」である。

日記・雑記(2) 選べなかったものを選びなおすことについて

有楽町で中学の同級生と飲んだ帰り、書店を探してあの辺りをふらふらと歩いていた。Googleによると、付近で21時以降も営業しているのは銀座の蔦屋書店だけとのことで、千代田区中央区の境目はこの辺か?などと考えながら、まだまだ活気のある夜の街を通り抜けて銀座シックスへと向かった。

数分後、銀座シックスへ着いたはいいが、代官山のように路面店でない銀座店は視認できず、ビル全体は消灯済で真っ暗。特に目印もなく、この巨大な直方体のどこから中に入ればいいのかと困惑していた。歩き回って見つけたエレベーターの中にすら蔦屋の文字はなく、6F Booksと小さく書かれているだけだった(たしか)。それでも、エレベーターの扉が開くときらびやかな店内が広がっていて、秘境を訪れたかのような、奇妙な感覚に包まれる。

 

ドトール(コーヒー220円)で作業するということは、ボロ着で体臭のきつい謎のジジイや、隣でぶつぶつとクロスワードパズルを始める謎のジジイに遭遇するリスクを冒すということで、そういう謎のジジイに降参したときは、上島珈琲(コーヒー400円)や純喫茶に移動するのだが、銀座の一等地に立つこの書店は、高貴な喫茶店よろしく広告やデザインの工夫で密かなゾーニングを施して、「謎のジジイ的な何か」を排しているのかも…それとも昼は普通に入れるのかも…などと酔った頭で考えながら、目当ての本を探して棚を見て回った。ブックオフみたいに、椅子で眠り込んでいる人や、閉店まで立ち読みをしている人は見当たらなかった。

 

目的地に辿り着いて機嫌をよくしたので、さっきまで一緒にいたやつと共通の友人に電話をかけた。もしもし、今まで岸田と飲んでたよ、元気してる?の挨拶もそこそこに、今自分の居る本屋がいかに外から分かりづらい場所にあったかを説明した。電話口の女の子は、その話を、
「ああ、偶然入れない場所ってことか」
と要約した。その時不意に、今までの自分の人生で、偶然には辿り着けなかった場所や知りえなかった人、それとは反対に、偶然にしか知り合えなかった人たちのことが頭をよぎった。今電話口にいるこの子も、さっきまで一緒にいたあいつも、中学や高校というあの時分を過ぎれば、二度と交わらない人生だったろうと思った。

 

レジで会計を終えた。突然だったのにありがとう、おやすみなさいと電話を切った。切った途端、自分こそが酔って電話しながら本棚の間を歩く謎のジジイだったことを自覚して笑った。そして、エレベーターの前で待ちながら、この扉の向こうには、今まで自分が通り抜けてきた扉が全部、ずらっと一列に並んでいる…という荒唐無稽な想像にとらわれていた。その中には「偶然には通れなかった扉」「偶然にしか通れなかった扉」がどちらもたくさんあるはずだった。清濁併せ飲むとは、このふたつの扉を往き来することだと謎の合点をした。行きと同じようにひとりでエレベーターを通過した。これで帰りに残された扉は東京メトロと自宅だけになった。

 

帰路の半蔵門線で、自分はなぜ「成人式行かなかった」と高く掲げるみたいにtwitterで言う人種が嫌いなんだろ、地方に生まれた文化オタクの特徴ってなんだろ、などとぼんやり考えた。地方に生まれるのはいろんな意味で非効率だけど、何年かかけて、効率の観点からは取り戻せない何かを負うのも悪くない、と考えるようになった。この手の葛藤は、当人にとって結論が決まっているので、何年かかるかの話でしかない。そのあとは地元のことが頭に浮かんだ。土建屋の息子だったのが、父親の死をきっかけに会社を売り払い、今はイスラエルでフリーターをしているという、変てこな経歴を持つ小学生以来の親友を思い出した。SNSを活発にやるわけではない、音楽や映画の趣味が合うわけでもない。家が歩いて5分のところになかったら、そいつとはすれ違う機会すらなかったし、イスラエルレバノンの奇妙な入国審査や、イスラム教徒とユダヤ教徒が恋する現場のことを知ることもなかった。

 

地元を離れた結果、「先週トリアーの映画観たんだけどさ」「宮本輝の選評やばいんだけどさ」などと、その時々で興味のある映画や本のことを話し始めても、あっさりそれを受け入れてくれる人たちとばかり遊ぶようになった。気楽になった部分は大きいけど、時折、自分がもう今いる場所にしかフィットしないんじゃないか、二度と戻れないほど偏った人間になってしまったんじゃないか、という不安に襲われる。就職や結婚が関わってくると特に、「わかる人だけわかってくれればいい」というスタンスが通じなくなり、会社の人や自分の母親は「わかってくれる人」ではないという当たり前のところを無視できなくなる。自分の選んだものだけでも、選べなかったものだけでもやっていられないから、自分で自分の人生に補助線を引く。それは結局、背後に延々と続く扉を振り返るということであって、「久しぶり、元気してる?」と誰かにメッセージを送るとき、人は自分がかつて選べなかった何かを選び直しているのではないかと思った。

昔を語るということと、20センチュリーウーマンの感想

 

  休みの日に保坂和志のエッセイを読んでいたら、ギリシア悲劇エウリピデスの話が出てきた。話題に上るのは『トロイアの女』なのだが、面白いのは、ギリシア軍に破壊し尽くされたトロイアの街で、トロイアの女王ヘカベがこんな台詞を吐くところだ。

 

「しかしまた、神様が、これほどまで根こそぎに、トロイアを滅ぼされることがなかったら、わたしらは名も知られず、後の世の人に歌いつがれることもなかったであろうし……。」

 

これは時制の上で突出した印象を与える。崩壊したトロイアにあって、その悲劇が語り継がれた未来から話をしているからだ。『トロイアの女』を観ていた客が、あるいは脚本の読み手が、それまで物語に没入していたとしたら、この発言につき当たって誰しもこう思うはずだーーーー未来からの視点で語るお前は、いったい何者なんだ、と。

 

= = = = =

 

かなり遠いところから話を始めてしまったけど、この日記で話題にしたいのは一本の映画である。『 20センチュリーウーマン(原題:20th Century Women)*1』は、1979年のサンタバーバラ*2が舞台の映画だ。中学生の主人公が、母親や女友達、同じアパートに住む住人たちとの関わりを通じて成長する様子が描かれる。

観ていて面白いと同時に不可解だったのは、「1979年ーー時代はパンク全盛だった」という風なナレーションとともに映し出されるのが、主人公が向かったライブハウスではなく、数秒ごとに切り替わる当時の写真だったこと。困惑しながら、「ちゃんとライブの映像を撮れよ…さぼるなよ…」と思っていたけど、観終わってしばらく経った今だと、あれは歴史に対してある意味で誠実な距離の取り方だったのではないかという気がしてきた。この映画には、渦中の人間を撮りながらも、常にそれをどこかへ位置付けるような視点がある。

 

映画で一番大きく描かれる人間関係は母親との関わりだが、その親子関係にしても、映画の終わりごろに現れる決定的な会話、

「父さんと愛し合ってた?」

 

「うーん、と言うよりは、『愛し合うべきだ』と思ってた。誰かと愛し合うことがないまま一生を終えるのが怖くて、そのとき最善の選択をしたの」

が挿入され、主人公は「今までと違って、これから母さんは自分に本心を話してくれるようになるだろう」という予感を得る。だがそれに続いて、その予感は裏切られた、というナレーションが入る。

ヒロイン(エルファニング)についても同じだ。主人公の幼なじみは、セックスするでもないのに毎晩主人公の部屋に忍び込む。家族ぐるみの付き合いがあり、主人公にとってはずっと昔から最愛の、だが振り向いてはくれない女の子である。スクリーンの中では最重要人物の彼女だが、最後の最後に入るナレーションで、大学進学を機に主人公一家とは疎遠になってしまい、のちに夫とフランスに住んだという未来が語られる。

つまり、この映画の中で、時代を語る場面を担うのは写真であり、物語に決定的な線引きを与えるのは「未来からのナレーション」なのだ。

 

= = = = =

 

パンクのムーブメントも、自分にとっての運命の相手も、母と分かり合えたというたしかな手応えも、スクリーンに映し出される限りでは画面の中の事件が全てだけれど、それは実のところ何本もの人生が重なったある一点をぎゅっと拡大したもので、ズームを解けばそれぞれの線は全く別の行き先へ伸びていく。おそらく誰もが経験するように、これが全てだと思えた確かなものは、例外的な時代の例外的な場所で、掠めただけの関係だ。

時代とともに生きる、時代を語る、という行為にはうまく言い難いところがたくさんある。バブルを共に経験した両親と話していても、「どれだけお金を使ってもなくならなかった、タクシーだけで月20万使っていた」と話す父と、「そんなことは全くなかった、今と一緒」と話す公務員の母では、ほぼ同じ場所で同じ空気を吸っていた2人とは思えないくらいの乖離がある。時代の空気というのは、確かにそこにあった気がするのに、2人以上に語らせれば真相は藪の中になってしまうような在り方をしていたり、事後的に生成する可能性や幻想だったりで、そのどれもが簡単には否定できない断片だ。

トロイアの女王や、『20センチュリーウーマン』に登場する人物たちと違って、ふつう人間というものは、自分の身を取り巻いて今まさに起こりつつあることについて、いったい何が決定的なのか、判断がつかないようにできている。だから裁定をつけるのはいつも何かが起こったそのあとで、それはまさしく未来からのナレーションになる。大抵の人は、小銭が落ちていないか気にするように、未来の自分が助言してくれないかと思っているけど、人間がナレーションの聞き手になれないのはもちろん、私たちは必ず、過去へとナレーションを送る側に立っている。そしてそのことは、ぞっとするほどに考えないまま生きている。

そして、とても大事なことだが、『20センチュリーウーマン』はマイク・ミルズの「自伝的」映画である。

 

= = = = =

 

この映画にはパンクもあれば、カーターの演説も、20世紀初頭からの女性の社会進出もある。それと重なり合う形で、アートクソ野郎と呼ばれること、愛し合うの難しさや、女の子との逃避行、子供を持つことの恐怖も描かれる。そういう大文字の歴史と個人史を二重うつしにした状態で、ズームのつまみを回し、ピントをずらすーーーこの映画は、急に視界がぼやけていくあの瞬間の、酩酊や悲哀をつかまえようとしている。

 

= = = = =

 

映画のアイコンになっているのは、トレーラーで流れていて、作中でも最高な使われ方をするこの曲。優しくてリラックスしているけど、ほんの少し不安なフィーリング。笑いながらはにかんでいるような不確かな感覚。こういう繊細な感情を淡い映像に重ねてくれただけで、観ている間は幸福だった。海岸線から町、球場や学校へと移ってゆく歌詞は、この映画の脚本とも空撮とも呼応している。

YouTube

 

 

*1:打つ段になって、ようやくwomenが複数形なことに気づいた。この映画は一人の女の生涯を映すが、同時にその時代の女たちの話でもある

*2:西海岸、LAのちょっと北西