ヒップホップ警察を追い返せ!!とこの時代のスノビズムについて

昨日からよく見るこの記事。
ヒップホップ警察を追い返せ!!【ゲストぼくのりりっくのぼうよみ】|柴那典 /大谷ノブ彦|心のベストテン
 
 
大して意味もない飲み屋の談義みたいな話だけど、たぶん、ダイノジ大谷に対するそもそもの風当たりの強さや、柴那典の脇の甘さや、みんな日本のゲットーで生まれたヒップホップを全く認知してないところなんかが重なって炎上している。(それでも、ぼくのりりっくのぼうよみの彼は、この件で非難されるのは不憫だなーというくらい穏当なことしか言ってないと思う)
 
どんな分野でも、門外漢が趣味人に叩かれるという図はよくあるけど、(ヒップホップを含めた)ポップ音楽趣味*1な自分の体験に照らすと、どうにもモヤモヤする瞬間は確かにある。例えば、社会学者が邦ロックバンドの受容され方についてコメントする、TLの弁護士がたまたま知ったDirty Projectorsを聴いてあれこれ評する、『UVERworldヴィトゲンシュタイン』という論考の存在を知る、などのタイミングで、「いや、そういうことじゃないんだよな…」と感じてきたのだが、個別の状況は違えど、何らかの文化に膨大な時間をかけてきた趣味人には、似たような経験を持つ人が多いだろう。
 
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ポップ音楽を聴くことには、単に音を聴く以上の意味がある。ゲイのアーティストを数多く知ることで、トランスジェンダーに関する認知や理解が深まるし、大衆性とエッジーさが反比例する様子や、セルアウトの概念を理解する、クラスに1人より稀少な趣味なので、アウトサイダーとしての意識が育つ、ドラッグカルチャーやサイケデリックな音を通してエスケーピズムを理解する、Vampire Weekendの使ったアフリカのビートに対して「白人による文化搾取だ」という論争が起きれば、エスニシティについて考える機会を得る、Arcade FireやWilcoが歌うアメリカの政治の混迷から、アーティストが政治に言及する姿勢を知る、などなど、今思いつくだけでも挙げだすとキリがない。文化搾取や政治性の話なんかも、固有名詞を入れ替えれば、世代に関わらず多くの人が通過するであろう問題意識だ。
 
以前、『(500)日のサマー』『トレインスポッティング』『ウォールフラワー』など、映画好きよりも音楽好きにウケている映画があるけども、あれは一体何なのか、と映画好きの友人に聞かれたことがある。前述の「ポップ音楽を聴くうち自然と身につくエッセンス」がどのように反映されるか、一番分かりやすい例が映画のサウンドトラックだと思っているので、『(500)日のサマー』で主人公が恋に落ちるシーンを例に説明したい。
 
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この映画でおそらく一番有名なそのシーンは、エレベーターでThe Smithsを音漏れさせている主人公が、「スミス聴くの?私も好き!」と、かわいい女の子に話しかけられるくだりである。
 
その手の音楽に興味がない人からすると、「共通の趣味を持つ男女の出会い」としてあっさり処理されうる場面だけど、The Smiths(やそれに類する音楽)を聴く人にとっては、ここで強烈な文脈の流入というか、本歌取りのような現象が起こっていて、スミスのリリックと共に、少し前で挙げた「ポップ音楽を聴くうち自然と身につくエッセンス」が流れ込んでいる。
それに加えて、正直な話、スミスが好きな女というのは学校で圧倒的少数派の内向的な人間で、またその立場に自覚的な人物であり、まず映画のように天真爛漫なかわいい女ではない。また、「私がもっと美人だったらこんなに音楽好きにはならなかった」と言ってのけるような、ひねくれたアイデンティティ形成をしている可能性も高い。だからエレベーターで主人公が、ときめきと共に「え、こんなかわいい子が?」という心境になっていることなんかも分かるけど、その辺の音楽文化を通っていない人からすると、ハイコンテキストすぎて伝わらない。
 
このように、ポップ音楽の文脈を下地にした場面が多いから、音楽ファンとそれ以外でギャップが生じるわけだけど、ここで非常に面白いのは、そのポップ音楽の下地を何らかの意味で「習得」しようにも、あとからスミスのアルバムを聴こうが、ポップ音楽史を調べようが、音楽雑誌を読もうが、「スミス好きな女性のティーン時代の立ち位置とアイデンティティ形成」について直接書いてあるとは考えづらく、その文脈がなかなかに非言説的なところだ。つまり、映画の背景にある文脈が、単なるタグ付けで済む情報の付加ではなく、かつてその音楽を聴いた観客の体験に呼びかけているわけだ。
 
トレインスポッティング』のレントンが部屋でひとりイギーポップを聴くシーン、『ウォールフラワー』で、車から身を乗り出してボウイを大音量で流すシーン、どれもまさしく本歌取りだけど*2、ではそれぞれのシーンが言わんとするところを、まったく門外漢の人に、「このシーンにはこういう意味があるんですよ」と丁寧に列挙していったところで、それは伝わったことになるのか?情報としてフラットに語っただけでは、転写できない体験があるのではないか?ということに最近よく思い至る。そしてこの「君には分からないよ」という、ある種のスノビズムが、「警察」という単語とともに、時流に沿った形で浮上しているのではないか、というのが、この記事の要点に当たる。
 
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余談ながら書いておきたいのが、ジブリの映画が公開されるたびに、ネット上で流行る謎解きについてだ。
あれは、普段アニメも映画も観ないマスな層に作品が放り込まれるから、アニメの手法や映画のショットなど、それぞれのお里の拡張子で作品を観る目を持たないマスな層の受け皿として、謎解きが盛り上がるのだと思っている。村上春樹についても同じだけど、謎解きオタクの残念なところは、描写の美しさ、うまいセリフ回しなんかには盲目なのに、「橋だ!ここから別世界だ!」「エレベーターだ!縦移動だ!」「神話のキャラクターだ!」みたいな安易な結びつけを延々やるところ。宮崎駿村上春樹が特に意識的な援用をしているとはいえ、ポップカルチャーに神話の構造と物語論を適用しだしたらキリがないし、基本的にどこへも繋がらない話なので、視野の狭さに毎回辟易している。
 
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話と時間を少し戻すと、2016年、ドナルド・トランプの当選直後、大きな反発と共にリベラルが結集して、「ああ、スノビズムが死んだな」と強く強く思ったもので、あれからスノッブな態度は、高等遊民の戯れになってしまった感がある。今回の「"ヒップホップ警察"炎上」も、仮にトランプ当選直後なら、恐らくもっと和らげた形での言及が多かったのではないだろうか。他人を目の前にして「お前らに分かってたまるか」、愛のある言い方だと、「半年ROMれ」などと言って壁を作るスノビズムは、せいぜい5年10年の単位だけど、時代のムードに逆行している。今の潮流は、多様な価値観を認めよう、対話をしよう*3、だと言っていい。
 
ちょっと飛躍するけども、そんな理想気体のような思想を体現する言説に、「頭のいい人は難しいことを分かりやすく説明してくれる」があると思っている。日常のレベルでありうる話なのに、耳にするとどうにも胡散臭いと感じる人は多いはずだ。
自分なりにその胡散臭さを言語化すると、まずここで言う「頭のよさ」が、頭の回転の速さや、小さな関連を見出す洞察力、論理性、正確な記憶力、などに関わる一般的な「頭のよさ」とはあまり関係のない弁論術の類であることや、むしろ学問(私は理系なので、ここでは数学や物理なんかを念頭に置いている)において「頭のよさ」は、難解で抽象的な物事を、難解で抽象的なまま処理する能力であることがぱっと思いつく。でもって、分かりやすい説明の外には、伝えるのを断念した部分がある。そして前の段落を踏まえると、体験に依拠した話は、情報として記述しても、なかなか伝わらない部分が生じる。「頭のいい人は難しいことを分かりやすく説明してくれる」という明言に対してほとんど反射的に生じる疑念は、「分かりやすく説明してくれれば分かる」というまさしくその態度への不信であり、スノビズムの本質がそこにある。
 
しかしながら、トランプ当選というある意味ソフト的な事件に対して、ハード的な変化では、twitterにせよApple Musicにせよ、様々な媒体から人のキュレーションを流用するのが簡単になっており、本来なら知るはずのなかった何かに偶然触れるという、いわば「誤配」の機会は増えている。つまり、トランプ後の情勢でPC的な規制がいったんは強まったものの、表面を掬っただけの文化享受が増えているぶん、実はあらゆる分野で「警察」が生じやすい環境にあるということだ。
 
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今回の話にようやく戻ると、「ヒップホップ警察」という言葉ひとつ取っても、「『ロックとは何か』を定義することはほぼ無意味だが、『ヒップホップとは何か』を考えることにはもっと味がある*4」というヒップホップ文化特有の性質ーー要するに「ヒップホップには特に警察が多い」という事情がある。それでも、「あまりクラシックなヒップホップを聴いてるわけではなさそうだけど、そんなこと関係なく推せるな」という、ゆるふわギャングのようなアーティストもいるわけで、つまるところ新参は、単に古典の知識量ではなく、あるジャンルの根っこに宿る精神性に対して敬意があるかどうかで、ファンからイン/アウトの判断がなされるのだが、あの対談からそういう敬意を感じるのは難しい。これはダイノジ大谷の活動全般に言える話だけども。
 
 
まとめると、ここで言いたいのは、音楽の聴き方はこうでなくてはならないとか、よく知らないやつは来るなとか、そういう単純な権威付けや門前払いではない。誰もが最初は新参なわけで、「よく知らないけど面白そう」で掘り進めるうち、ある分野に自然と明るくなるものだと思う。そしてその過程で得たエッセンスを持ち帰るわけだが、どう転んでも、そのエッセンスは排他性を含んでしまうのだ。本当に他者との対話を望むなら、趣味人が門前払いしてはいけないのはもちろん、門外漢は、「◯◯警察」というレッテル貼りが、そもそも対話の可能性を閉ざしていることに自覚的であるべきだし、他者が時間をかけて積み上げた文化には、それなりに敬意を持って接した方がいい。

*1:ここでいうポップ音楽趣味とは、自分の世代なら、10代のときArctic MonkeysやVampire Weekend、同時代の日本のロックバンド、遡って90年代のベストリストや、その前のニューウェイブ、パンクなど(この辺は個人差がある)を聴き、今は大まかに言ってフジロックやピッチフォークフェスに出演するアクトを聴く趣味を持つ人のことです、アーティスト名やジャンルは世代によって多少異なる

*2:同世代の白人、スコットランド人、アメリカ人でこそ感じられる情緒もあるだろうけど

*3:この思想に乗れないわけではなくて、もう少し但し書きが必要だと感じるだけである

*4:ロックの特質は雑食性、何でもありなところに宿っている、ヒップホップの言葉は、元来コミュニティに根ざしたものが多く、ビーフやバトルに見られるように、何がイン/アウトかというシビアな線引きを仲間内で判定しあう文化が強い、くらいの意味