パターソン感想

 

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ジム・ジャームッシュによる、ある詩人の一週間を描いた作品。共に暮らす妻はチャーミングで、ブルドッグのマーヴィンは視界に入るだけで思わず微笑んでしまう愛らしさである。詩の素晴らしさ、最後の永瀬正敏のシーンのひどさ*1などいろいろと見所のある映画なのだが、「何も起こらない」「筋がない」「日常の話」という前評判で観たらけっこうな違和感を感じたので、そのことについて書いておきたい。

まず、かなり構成的な上、ちょっとあざといやり方で観客に気を持たせるので、「筋がない」という評は当たらない。

 

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この映画では、毎日同じ路線を巡るバス運転手の視点を通して、実は少しずつズレた街を描いていく。主人公は仕事の合間に書く詩を密かな楽しみとしているのだが、妻から、発表はしないのか、せめて詩のコピーを取らないか、と説得される。主人公は渋るが、妻の押しに最後は根負けして、コピーを約束する──この時点で、作品に週末という期限が定まるとともに、不吉な陰影が彫り込まれることになる。複製を作ることができない/複製によって何か重要なものが変質してしまう、などの結末を観客は想像し、そのあとの一週間をかけて、複製、交換、双子、などのモチーフに触れながら、積み重ねた一日一日が層を成してゆく。そういえば、週は人間が時間の移ろいに刻んだ韻で、双子は遺伝子の押韻である。

 

こんな風に書くと伝わると思うが、構成が明確な上に、隠喩が点々と配置された作品で、観終わった観客にはそれらしいヒントがいくつも残される。以前にもちらっと書いた*2のだが、私はこういう作品の呼び寄せやすい読解が、というか、単純なコードに反応するだけのメタファー探偵のような評論を怪しく思っている。

それは例えば、「円環」「直線」「十字」「入れ替わり」等々を巡って延々考察する映画評のことだが、線のない映画も、入れ替わりを見出せない映画も存在しない。上映のあいだずっと円環、直線といった小規模なモチーフ探しに意識を割くのは、手間はかかっても、その気さえあれば一番誰にでもできる見方ではなかろうか。

 

何にせよ、ミニマルで単線的な物語において、このように構成的なところがくっきり示されれば、どうにもあざとく映るということを指摘したい。観ていると、まるで自分が点々と置かれたパンくずを追う小鳥になったような気がして、窮屈に感じてしまう。そういう点では少し物足りなかったが、映画の見どころは他にある。

 

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パターソンの一番のフックは、主人公の書く詩にある。挿入される詩がどれも上質で、それぞれが、交換不可能な存在について、名付けてしまったせいで素通りするようになった現象について、生活の代謝について、驚くほどの巧みさで表現している。何より、画面に一行ずつ現れる文章を追うというスタイルが、詩を味わう上で素晴らしい。あんな風に詩を生き生きと楽しんだのはいつぶりだろう(詩の朗読会へ行く人は、こういう感覚を求めているのだろうか)、という感想が来るのと同時に、翻って普段の自分の読書についても考えることになった。

 

劇中では、一行の詩が余裕を持ってゆっくりと現れるからこそ映えるのだが、現実の読書で、一行にあれだけの時間を使うことはめずらしい。普通私たちは、素早く全体を見渡し、要点を整理し、理解に勤めようとする。学校でそうしてきたように。子供のころから情報処理や分析を目的に活字を追っていると、読むスピードは自然に速くなるが、情報として全ての行に目を通すことと、そこに込められた詩情を味わうことには当然大きな差がある。

素早く目を通すこと、情報を処理すること──『パターソン』では、効率や、社会の要請に応じたやり方で詩に接したとき、取りこぼしてしまうものを拾い上げていく。観終わってぼんやりと考える中で、ポエジーがスピードによって遠ざかる(!)、という、当たり前のようで切実な問題に胸を衝かれていた。

 

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映画の中盤までは、誰もがiPhoneを持つ場所で、主人公にだけ持たせないのは作者の不実ではないか、というぼやきが頭に浮かんでいた*3が、作中で一日が過ぎるうちにその感覚は更新された。主人公のパターソンは、効率や複製、ひいては現代的な合理に覆われる前のポエジーを(あるいはアウラを)採掘する存在であり、決して複製芸術*4的なものに手を貸してはならないのだ。彼はその日あった特別な出来事を妻に伝えるとき、iPhoneのシャッターを切ったり、カメラロールを覗き込ませたりはしない。詩として書き、家に帰って時々聞かせてやるだけだ。映画の終盤、予告された週末にブルドッグのマーヴィンがしたことは、*5主人公の、ひいては夫婦の救済だったと言える。

 

そういえばこの映画は、和やかな目覚めのシーンで始まったのだ。朝日の差すベッドで、寝ぼけた妻ローラ(auraにエルを足したLauraという名前…)が夫に話しかける、「私たち、夢の中で双子の子供がいたのよ」。そして、不穏にもこう続く。


私たち2人に1人ずつ。

 

 

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速い方が、効率の優れた方が、同じ轍を踏まない方が、替えのある方が良いーー『パターソン』は、あらゆるスピードによって、合理によって、学習によって、目の前の事象を0と1の羅列に変換しようとする力によって、隠されてしまったポエジーを掘り起こす作品である。つまり、詩を扱った作品ならではの鋭利さを持っているということだが、注意しなければ、その鋭さすら見落としてしまう。なぜならこれは、「何も起こらない日常の素晴らしさを描いた話」と簡単に合点してしまった途端、霧となって消えゆくものについての映画なのだから。

 

 

 

*1:「(確率の問題として考えれば、こんな奇遇な事件に恵まれる1週間は稀だけど)こんなことも起こるだろうな」という映画の中のリアリティにずっと馴染んだ状態で観ていたのに、最後に出てくる永瀬正敏が、英語の発音から鞄のかけ方まで強烈に自分のよく知る日本的な現実感でもって差し込まれて、こんなことは起こらないよ、と耳元で言われたかのように我に返ってしまった。

*2:ヒップホップ警察を追い返せ!!と、この時代のスノビズムについて - 屋上より

*3:ただの一般論で、年老いた作者が登場人物をSNSスマホに近づけず、往年のやり方でドラマを書くのは怠慢だ、という意味。

*4:人文書を読む人なら、この作品を観たとき脳裏に『複製技術時代の芸術』がちらつくのではないだろうか。この記事では詩と絡めてポエジーと言っているけども、ベンヤミンが言うところのアウラと重なる部分も大きい。

*5:ちなみにその裏で主人公夫妻がしていたことと言えば、「久しくしていなかった映画(複製芸術)観賞」である。