11月5日の朝の日記

なにか重要なものを拾う夢や、珍しい動物を飼いならす夢ををときどき見る。起きた瞬間は頭が混乱していて、ほんのいままで手にしていた感触の喪失にショックを受けている。夢のなかで手に入れたものを現実に持ち越せないのは当たり前だけど、当たり前だからといって、喪失感を感じずに済むわけではない。

 

最近読んでいるオルガ・トカルチュクには、夢の掲示板について書かれた文章が登場する。主人公は夢の投稿される掲示板を日々チェックするのだが、数百もの夢を毎日ていねいに読んでいると、夢が特定の傾向を帯びる日に気がつく。逃げる夢が多い夜がある。小さくて儚いものを死なせてしまう夢、迷路をさまよう夢、戦争の夢……。なにかを手に入れる夢は、どんな天候や季節、月の巡りに関係しているのだろうという疑問がわく。

 

今日見た夢は、十代のころに死ぬほどほしかったレコードを偶然見つけて、宝もののように持ち帰る話だった。ただ、起きてしばらく経つと、自分にとってそのレコードはもう重要でなくなっていることに気づく。そこでふと、夢の戦利品というより、ある種の切実さを持ち越せていない気がした。十代から持ち越せなかったものがたくさんある。

ティーンのころ大事にしていた情熱やこだわりを二十代も後半にまで保存するってどういうことなんだろう、と考えながら歯磨きをする。部屋を出て駅まで歩く。

 

秋の朝の慣れない寒さと、歩行のリズムにひっぱられて、ひとつの会話、ひとつの短歌を思い出す。

 

・方便さんとアメリカ文学の話をしていたとき、「人間にはなにかを諦めきれない弱さもあるし、なにかを諦めてしまう弱さも両方ある。でもレオ君がアメリカ文学の話をするときに取りあげる弱さは前者ばかりだね」という話が出たことを思い出す。

 

・“十代にわかれたひとびと透きとおる 魚のように重なり合えり”

という吉川浩志の歌が美しくてとても好きだったことを思い出す。