牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件 感想
1991年の台湾映画。観てからひと晩経ちはしたものの、いまだに「すごいものを見た」という感覚が自分の中で反響している。まとまらない状態のまま書いていく。
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この映画にはまず、中国(親)から分かれた台湾(子供)という図*1がある。そしてそれは台湾の内で反響する。「大人になれば分かるさ」というセリフが、子供たちの頭を幾度も撫でつけることで多重化されるのだ。
加えて、舞台となった1961年の台北といえば、中台戦争のただ中にあり、当の大人たち自身も、自らの力では制御できない外部と圧迫を感じている時分である。彼らの抑圧的な態度は本作に終始不穏なトーンを差し込むが、それは解消不能な不安や、自身の疑念から目をそらそうとする身振りに他ならない。「漢字はアルファベットより書く手間を省けると言いますが、”我”はどうです?」と教師の矛盾を指摘した生徒が、晒し者にされるシーンは象徴的である。
今まで擦り切れたレコードのように繰り返されてきた言葉──「大人になれば分かるさ」は、この映画においても、大人たちが分からなかったことを神秘化し、次世代にリレーする語彙として現れる。
不安な大人たちをよそに画面を彩るのは、分かったふりのできない少年たちだ。縄張りに侵入したよそ者をリンチするところから、賭博場やクラブのシノギ、敵陣への討ち入りまで、節々でどぎつい暴力をやってのけるものの、彼らはせいぜい10代半ばから後半であり、現代の日本人から見ると、現実感や、自他の生命に対するリアリティをあまりに欠いている(ものの言いようで、これは全く反対かもしれないが)と感じる。白か黒か。緩衝材になるような対話がないために、事態はどんどん先鋭化し、互いに死人が出るまでに発展する。戦意高揚のため、敵の内面を空白のままにしておくのは定石だが、作中ではそのような意図の介在する以前に、空白を以って敵は敵となる。
血なまぐさい描写は多いが、画の綺麗さ、街並みの魅力や、当時の台北の暮らしに宿る息づかいはこの映画の大きな美点であり、ひとつの時代を描く物語として、でたらめな強度(ベタな修辞、、)を持っている。
そして何よりも女たち。この映画において、お互いを兄弟と呼び合い、「俺たち男の友情は女には分からない」「女のこと(些細なこと)で男が争うなんて馬鹿馬鹿しい、これだから女は──」と断じる男たちは、簡単に「女」を理解不能なものとして域外へ追い出してしまう。ここで女たちが等しく(一様に、多様さがないまま)放逐されるのが、ディテールのない真っ暗闇な外部である。まるで、誰かの笑い声とボールだけが転がってくる闇夜のような……。だからこそ女たちはその鈍い抑圧に目ざとく反応し、男たちの安易な誘いをはねのける。そこに主体同士の関係がないからだ。ヒロインである小明の言葉を借りればこうなる。
「変えられない──私もこの社会も同じよ」
他人が自分の感覚の上を走り抜けていくだけの像であるならば、主人公・張震の愛情があんな形をとってしまったことにも少しは合点がいく。張震は、相手を自分の望む形に変えることでしか関係を築けないが、それは、彼の言い分に耳を傾けないまま処遇を決めてきた、あらゆる抑圧の再生産なのだ。
1961年。台北しか知らない主人公の世代と、中国本土から渡ってきた公務員の親世代にはそもそも深い溝が横たわる。国民党政府に連行された父の事情を張震が理解しているとは思えないし、彼にとっては、抗争のための刃物はリアルでも、道をゆく戦車はデートの背景でしかない。
身内を洗う政府、敵対するギャング、威圧的な大人たち*2。どれも有無を言わせぬ力とともに迫ってくるものの、抱えこんだ事情をなかなかこちらに明かしてはくれなかった。なぜ父親は連行され、なぜ解放されたのか。なぜハニーは殺されたのか。カメラを通した観客にはまだしも、当事者たちにとって、因果を支える根本にはぼんやりと霞が残ったままである。
この映画に現れるさまざまな齟齬は、噛み合わない両者が、互いにとって*3他者以前の外部で、細部を持ちえない遠い存在であったことに起因する。「牯嶺街少年殺人事件」は、いやでも齟齬が折り重なってしまう時代と場所で、軋みを立てながら暮らす市井の人々の記録である。
映画のラストシーンには救いがない。あまりに遠い存在であったエルヴィス・プレスリーから親密な返事が届くのに、その報せは獄中の張震に届かず、季節はひと回りし、冒頭と同じシーンが繰り返される。だが、抗争から逃れた不良は暇つぶしにトルストイを読むかもしれない、姉はキリスト教を説くかもしれない、もう1人の姉はアメリカへ留学するかもしれない。いや、遠くのもの、外国のもの*4である必要はないのだ──何より、恋した女の子によって、触れ得ぬ他者への触れ方を教わることができたかもしれない。
張震の持つ懐中電灯は、ほんとうは彼女を照らすための灯りだった。希望は静かにサインを送っていたのである。