『呉服元町商店街』のこと

・『呉服元町商店街』のこと

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このたび、数人の編集者、イラストレーター、デザイナーで協力して『呉服元町商店街』という本を作り、世に出すこととなりました。高齢化や過疎化、ショッピングモールの出現など、様々な逆境のなかで失われつつある商店街の風景を記録する活動の集大成です。

活動の発起人である東成実さんは、二〇一七年に、なじみの場所だった『寿通り商店街』が取り壊される事態に居合わせました。背景には高齢化があり、商店街の人々が自ら望んで行われたことでした。仕方がないとはいえ、見慣れた場所があっけなく重機に均されてしまう──その光景にショックを受けた彼女は、フィルムカメラの写真や、インタビューなどでまちを記録する活動をはじめました。

 

本が取り上げているのは、佐賀県佐賀市にある呉服元町商店街という場所です。もともと佐賀市には、戦後の荒地ではじまったバラック商店街が四つあったのですが、時代の移り変わりとともに解体が進みました。二年前には前述の『寿通り商店街』もなくなってしまい、今ではたった一つが残るのみとなっています。この本が光を当てているのは、最後に残った商店街の周辺です。

 

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商店街の方々に話を聞いてみると、古株のお店には戦争の影があります。たとえば、店主の親世代が戦後に引き揚げてきて、満州で食べた餃子を参考にはじめたお店。餃子屋の店主の「子供のころ食べた餃子はもっとおいしかった気がするけど、なかなかその味に近づけない」というお話は、編集していていちばん胸に響く箇所でした。

なぜそれが響くのか。満州の味と、先代の味と、今日も開業しているお店の味が、数十年という長い時間のなかでエコーを起こしているからです。また、この本で取り上げなければ、その歴史は人目に触れることはなく失われてしまったかもしれないからです。そして、そのような喪失は、ほとんど押し留めがたい力でこれからも押し寄せてくるはずです。

戦後の荒地からはじまったお店がある一方で、新しいお店もあります。二年前に出店したフラワーアレンジメントの教室や、外国語教室を企画するフランス風の喫茶店など。そこにはふと立ち寄る人の姿も、若者たちの姿もあります。商店街は歴史的な経緯から見ても興味深い場所ですが、瓶詰めにされ、博物的な関心のうちに生かされている場所ではありません。自立した空間として新陳代謝があり、今日も誰かの休息や団欒の場として息づいているのです。

 

あなたが生まれたまち、家族に連れられて休暇を過ごしたまち、進学や就職で住んだまち、あるいは旅行で訪れたまち。多くの人はどこかしらで、失われつつある商店街の光景を意識する機会があったことと思います。この本の内容が、どこか遠くの話としてではなく、今までに見た風景や記憶に想いを馳せるきっかけとなり、いまあなたが生きている場所と、遠い風景や記憶を繋いでくれるものであることを願っています。

 

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現在、福岡天神の書店『本のあるところ ajiro』にて、11/20~12/1の期間で写真展を開催しております。お近くの方はぜひ一度足を運んでみてください。おそらくこれが最後の写真展になると思います。

引き続き、 『呉服元町商店街』をよろしくお願いします。

 

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本の製作や、東京→九州へ移り住んだ体験、身の回りで目にしたさまざまな文化活動を通して感じたことを記事にしました。イベントの身内感について、マイナーな分野で、あるいは地方で文化をつくることについて書いています。なにとぞ!

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11月5日の朝の日記

なにか重要なものを拾う夢や、珍しい動物を飼いならす夢ををときどき見る。起きた瞬間は頭が混乱していて、ほんのいままで手にしていた感触の喪失にショックを受けている。夢のなかで手に入れたものを現実に持ち越せないのは当たり前だけど、当たり前だからといって、喪失感を感じずに済むわけではない。

 

最近読んでいるオルガ・トカルチュクには、夢の掲示板について書かれた文章が登場する。主人公は夢の投稿される掲示板を日々チェックするのだが、数百もの夢を毎日ていねいに読んでいると、夢が特定の傾向を帯びる日に気がつく。逃げる夢が多い夜がある。小さくて儚いものを死なせてしまう夢、迷路をさまよう夢、戦争の夢……。なにかを手に入れる夢は、どんな天候や季節、月の巡りに関係しているのだろうという疑問がわく。

 

今日見た夢は、十代のころに死ぬほどほしかったレコードを偶然見つけて、宝もののように持ち帰る話だった。ただ、起きてしばらく経つと、自分にとってそのレコードはもう重要でなくなっていることに気づく。そこでふと、夢の戦利品というより、ある種の切実さを持ち越せていない気がした。十代から持ち越せなかったものがたくさんある。

ティーンのころ大事にしていた情熱やこだわりを二十代も後半にまで保存するってどういうことなんだろう、と考えながら歯磨きをする。部屋を出て駅まで歩く。

 

秋の朝の慣れない寒さと、歩行のリズムにひっぱられて、ひとつの会話、ひとつの短歌を思い出す。

 

・方便さんとアメリカ文学の話をしていたとき、「人間にはなにかを諦めきれない弱さもあるし、なにかを諦めてしまう弱さも両方ある。でもレオ君がアメリカ文学の話をするときに取りあげる弱さは前者ばかりだね」という話が出たことを思い出す。

 

・“十代にわかれたひとびと透きとおる 魚のように重なり合えり”

という吉川浩志の歌が美しくてとても好きだったことを思い出す。

 

 

十月の日記・雑記

十月の日記のカットアップです。

 

・人間関係でめちゃめちゃ怒られる

人間関係でめちゃめちゃ怒られている。

怒られながらふと、ミステリアスな人間というのは、人間関係においてある部分では百点をとれるが、他のサスティナブルな部分はぼろぼろなだけの人であって、本人にしてみれば、悪いところを見せまいと普通の政治をしているだけなんじゃないか、ミステリアスさは一次的な性質というよりも、生きるうえで誰もがとる自己防衛の結果にすぎないのではないか、ということを思いつく。

 

世のなかには嘘をついて生きるほうが技巧が必要だと感じるタイプの人と、正直に生きていくほうが技巧的だと感じるタイプの人がいて、後者にとってはほどほどに嘘をついたり、約束を破ったりしないと死んでしまうんだけど、前者にとっては意味がわからないだろうな、、

 

なんかの類型に当てはめるなら、ゴンとキルアみたいな、パラノとスキゾみたいな……(めっちゃ雑だな……)。なんにしても、生きることと逃げることがなかなか一致しないのが大問題なのだという気がする。

 

まあなんかこういう雑記はちょっとした思いつきに遊んでいるだけで、最近とにかくプライベートが大変なのだ……。とにかく怒られていて、とにかく救いがない。つらい。

 

 

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・傘

ふつうの人が傘をさす雨の強さを一として、三くらいまで我慢する人は面倒くさがりで済むけど、十までいっても傘をささないやつは狂人かもしれないと雨の日に突然思った。けっこうな雨なのに、頑として傘をささずに歩くヤク中が目の前を通り過ぎていった。狂っているとバレないように傘をさすという動機がこの世にはありうる。

 

 

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・長い移動 

尾道にて

岡山のフェスへ行くはずが、台風十九号の影響でフェス自体中止になってしまう。空はこんなに晴れているのに、という悔しさで頭がもやもやするが、関東が大変なので仕方がない。せっかく山陽へ来たのだからと尾道まで足をのばす。

 

パン屋や海辺、寺院、坂道を楽しむ。普段の生活からは縁遠い光と景色。船で通学する学ランの子どもたち。トロッコでのぼった山麓には、尾道の景色や鐘の音をテーマにした歌がいくつも張り出されている。それを見ているとちょうど鐘が鳴ったりする。

 

尾道は大名所や箱モノがあるというよりも、もっとpassiveで持続的な魅力のある街なので、いるだけで楽しい。そのなかでなにがいちばん印象的だったかというと、民家の壁に貼りだされたありきたりな観光ポスターだった。

若い女性二人が振り向くシンプルな構図なのだが、何年も日差しにさらされたせいで白っぽく色褪せている。それなのに、インクの関係なのか片方の女性のアイラインだけがくっきりと残っていて、奇妙な印象をあたえるのだ。衣装でも景色でもなく、撮影の朝ちょっと強めに引いたアイラインだけが何年も残って、こうして誰かの網膜のパネルをひっくり返すなんて考えもしなかっただろうなと思った。尾道いろいろ見ておいて、色褪せたポスターかよという気がしないでもないが……。

そのあと電車に乗り込んで京都へ向かう。

 

 

京都の友人宅にて

その夜。日付をまわってから木屋町で友人二人と合流する。久々の再会なのでキャパを越えてビールを飲んでしまう。そのまま友人宅に移動してまた飲む。秋のはじまりだから、七階のベランダで飲むのがめちゃくちゃ気持ちいい。

友人は飲むと気分がよくなって隣のビルに缶やら吸い殻やらを放り投げてしまうのだが、ある朝ふと隣の屋上を見ると、自分の捨てたゴミだらけなことに気づき、下の階から飛びうつって掃除にいったらしい。いちおう宮内庁の土地と隣接していることを知ってニヤニヤする。

 

小山田壮平スピッツカバーやらRubelやらを流しながらベランダで騒いでいたら、隣のベランダから「Shut the fuck up」という女性の声が飛んできたのでソーリーソーリー言いながら部屋に入る。友人がちょっと苦い顔で、また置き手紙しなきゃいけないなと言う。隣のイタリア人とは、問題があるとドアの下から紙を送り合って知らせるそうだ。

話をしながら、一緒にいてほんとうに気が楽だなと思う。モラル、無責任さ、コミュニケーション、なにがインでなにがアウトなのか、諸々の温度感がいちばんちょうどいいし理解できる。明け方まで話し込み、ベッドの端を借りて仮眠をとらせてもらう。

 

二時間後起床するが頭痛がひどく、ふつうに立っていられない。目をぎゅっとつむりながら浴室まで移動する。シャワーを浴びるが水しか出ない。タオルがなく、床もなんだかわからない液体でびしょびしょに濡れている。昨日は涼しかった空気が寒く感じる。そして隣の屋上にはゴミが……。

祭りのあとの空気を吸い込みながら身支度を済ませ、言い訳程度に床を拭く。お礼を言って部屋を出る。

 

 

その朝。烏丸線で本を読みながら座っていると、りんりんと大音量で鈴の音が近づいてくる。顔を上げると知的障害らしい中年の男が目の前を通過していく。そのまま車両の端から端まで移動して、じっと電車の停車を待っている。地下鉄は五条駅に停車する。

隣から「あの人、いつもあそこから降りていくよなあ」という初老の女性の声が聞こえてくる。「いい音色よね。認知症のお父さんに鈴つけてもらおと思っていろいろ探したけど、耳に障る音ばっかりで、なかなかあんな綺麗には鳴らへんよ」ともう一人が答える。しばらく鈴の音色の話をしている。認知症の人に鈴をつける行為も、その鈴の音を美しさではかる感性も自分になかったものなのでちょっと嬉しい。京都駅に着いて、鈴の男と同じドアから下車する。

 

 

 熱海にて

その昼。東海道新幹線で熱海へ。台風十九号の爪痕が心配されるなか、タクシーの運転手から「熱海はなんの被害もないですよ」と聞いて安堵する。たしかに、ひと目見てわかるほどの損害はどこにもなかった。しかし、その後訪れた銭湯では水道管が破裂してお湯が出ないと聞かされる。立ち寄ったロシア料理店の店主は、うちは平気ですが近くから友人が水を分けてもらいにきますと話していた。店を出ると給水のアナウンスが放送されている。表面上は普段どおりの生活でも、ほんの数歩、数十メートル歩くあいだにいろいろな派を通り抜けている。

 

翌日に寄った純喫茶では、熱海はいかにさびれているかという話で店主と常連が盛り上がっていた。あのホテルはいい、あのホテルの飯はひどい、あそこは雨漏りがする、云々。自分たちの泊まっている宿をこっぴどくこき下ろしたあとで、「でもなんか泊まっちゃうのよね!」と話していたので嬉しくなる。笑いがこらえられなくなり、そのへんでお会計してもらって店を出る。

店の外で、服がちょっとタバコくさいことに気づく。店も街全体も、さびれているのと引き換えでいいから喫煙席を守りつづけてほしい。

 

 

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・喫茶店の盗み聞きでわかったこと

①熱海のとあるキャバレーでは、人手不足なのか杖をついたよぼよぼの女性が踊り子として壇上にあがる、しかし壇上に立つと杖は打ち棄てられ、機敏な動きで美しい踊りを披露する。踊りが終わると、なぜかまた杖を曳いている。

 

②熱海でいちばんおすすめのホテルは料理も部屋も素晴らしいが、ベランダでくつろいでいると身投げを見てしまう。身投げがあまりに多いので、そのホテルは一人での宿泊を禁じるようになった。客室には幽霊も出る。

 

③身投げのあと死体が浮いてこない場合は、海へびの餌になっている。

 

 

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・長い移動 その二

鹿児島にて

尾道〜京都〜熱海の翌週、こんどは鹿児島の祖母に顔を見せにいく。友だちからは似合わないと言われるが、車の運転にもすっかり慣れ、日に何百kmでも走れるようになった。昼すぎに福岡を出発して九州道で鹿児島へ。親戚の歓待を受けながら、亡くなった祖父の話を聞く。いまは祖父が亡くなるまえに詠んでいた詩や歌の整理をしているらしい。

 

祖父の過去では、実の両親が最初の敵だった。次男だからと養子に出され、生まれた家を恨んだ祖父は、両親と再会しても決して笑わなかった。出迎えるときは敬礼で迎えた。つぎの敵は不幸な成りゆきだった。彼の京都での学生時代は不本意な途切れ方をしてしまった。新聞社に内定をもらっていたにもかかわらず、養父が倒れ、第二の実家を立て直すために鹿児島の田舎へ戻ってきたのだ。敵が増えるごとに、祖父は暗い底への階段を一歩ずつ降りた。そして酒のみになった。酒のみと同時に文学青年だったから、農業に精をだし、牛の糞を掃除しながら、厩から家の光を見て詩を作った。

認知症になった晩年は、結婚式の直前や、新聞社の人に事情を打ち明ける場面、友人に金を持ち逃げされた日などに突然舞い戻り、何十年も昔のシーンを繰り返した。そのとき近くにいた人は歴史の立会人になるのだ。彼にとって婚約者は自慢だった。新聞社の人には謝り続けていた。友人には赦すと言った。

 

いま布団にくるまってこれを書いているのは三十畳を越える大広間で、もともとは理科室だった。祖父がPTA会長だったとき、取り壊し予定の理科室を職権乱用で移築させたという変てこな歴史がこの部屋にはある。壁をみると、「地域の発展に貢献」とか、なにがしかの会長としてよく働いたという賞状が飾られている。

祖父の人生はちょっとした偶然に左右されて決まったが、新聞記者の夢を諦めても、家族に囲まれ、地元で名士として生きたなら幸せだったのだろうかと考える。いまになってそういうことを聞いてみたい気もするが、もうかなわない。

 

 

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・送られてきた詩

祖父の遺した詩に目を通してみたが、目に留まるような作品はほとんどなく、一族以外にとっては意味のないものだとすぐにわかるような内容だった。それが残念な気もするし、なぜかちょっと嬉しい気もする。

 

本は積んでおくだけで頭に入ってくるので読まなくておk

 

* 序文・積ん読が頭に入ってくる話(1/4)

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 早稲田松竹セルゲイ・パラジャーノフの映画を観た帰り道、身の回りでいちばんシネフィルの友人がこんな冗談を言っていた。「もし上映中に寝ちゃっても、まぶたをとおして光が透過してくるから実質観たのと同じだよ」と。そのとき、一年ほどまえの記憶がフラッシュバックした。

一年まえのわたしは京都の能楽堂にいた。知人の招待で能を観にいったのだ。能は美しいシーンと退屈なシーンが両方あり、うつらうつらしながら観ていた。能楽師である知人はそれ以上で、上演時間の半分を寝て過ごした。そして終わってから後輩が挨拶にくると、「前半はまあまあだったが後半は緩んでたな」と、落ち着きはらって指導をした。居眠りの反省や決まりの悪さは微塵もなかった。横にいたわたしは彼を見ながら思った。マジでかっこいい。彼の態度は、怠慢さではなく、ある種の専門性、プロフェッショナルな感性のあらわれだと思った。

 

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 わたしはそんなに映画も能も観ないので、ほんとうのところ、まぶたをとおして作品を見ることができるのか、シネフィルが劇場にいる時間のうち半分を寝て過ごすのかはわからないが(中原昌也菊地成孔のように、寝たエピソードを頻繁に語る映画人もちらほらいる)、本に置きかえていえば、この冗談はかなりのところで真実味を帯びている。もっとはっきり言うと、本は、積んでおくだけで頭に入ってくる。

 

 読書家という生き物は買った本を積むばかりで、蔵書の大半を読まない。自宅を本で埋め尽くすタイプの読書家との交流と、わずかながらの自分の経験からいってこれは間違いないと断言できる。読書家とはまずたくさん本を読む人間のことだが、その生態をもっと正確に描くなら、たくさん読むと同時に、たくさんの読んでいない本に囲まれて暮らす人のことだと言っていい。

読んでいない本に囲まれるとはどういうことなのか。それは何らかの信号を発する本たちを積みあげ、本と本のあいだに形成される複雑な網目のなかに身を置くことだ。網目のなかで暮らしながら、あるときふと問題意識に遭遇したり、ちょうどいま読んでいる本との関わりを思い出し、すっかり忘れていた別の本へ続く回路を発見する、そこでようやく積ん読を手に取る、という行為を繰り返している人のことだ(よね?)。

 

 本を山ほど積んでみてわかるのは、百冊の本を読むことと、九十九冊の本を読むことは、自分のなかに残っていくものとしてほとんど違いがないことや、訳者の違い、装丁やフォントの違い、読む順番、体調、図書館の返却期限など周縁の条件によって内容を左右されること、ひいては、ある一冊の本は別の本と別の本のあいだに存在するもので、そもそも本を一冊、ただそれ単体で読むことはありえないということだ。本を読むうえでは、ページからはみ出た予備知識や周縁の情報が常につきまとう。

例をあげよう。

 

・序文を立ち読みした→要旨が書いてあったので大筋は把握できた

・タイトルでだいたいわかる気がする→最近だと、『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと*1

・付随する情報→作家が「このような本です」とSNSで宣伝していた、あるいはその作家のSNSをふだんから見ている

・誰かのレコメンド→◯◯さんのおすすめということは、彼の最近のこういう問題意識に合致した本なのだろう

・三部作の真ん中→最初のはこうで最後のはああだから、たぶん内容もその中間にあたるのだろう

・文学的、学問的な価値→『君の膵臓をたべたい』の作者だから読む必要はないだろう、尖ったSF賞の受賞作だから自分の好みには合わないだろう

……エトセトラ。

 

ぱっと思いつくだけでもこれだけある。普段の暮らしのなかで、この手の予備知識や部分的に読んだ箇所、友人との会話から察した内容等々、断片が自分のなかに蓄積されていく。その総合がある閾値にとどくと、読まなくてもだいたいわかるし、読んでみてもほとんど想像どおりの内容が書いてある、という状態に達する。タイトルに書いた"積んでおくだけで頭に入ってくる"とはおおよそこういう意味である。

 

 また、時代が遠すぎたり、予備知識があまりに乏しいと、じっさいに本を読まずに、周縁をうろうろするだけで済ますほうがかえってよく理解できる場合も多い。たとえばわたしは高校生のころ、突然にカントの『純粋理性批判』を読んでみようと思いたち(たんに哲学に興味があったからで、ビッグネームなら誰でもよかった、カントはたまたま便覧で目にとまっただけにすぎない)、友人と日に何ページかめくっていく試みをしてみたことがあるが、当然まったく理解できなかった。

当時の自分にアドバイスするとしたら、「ちくまから出ているカント入門や、光文社の出してる別角度の講義録をまず読んで、それでもまだまだ興味が尽きないなら、三世紀もまえの人間でコスパは悪いと思うけど読んでみたらいいんじゃない、でもカントって人文書で死ぬほど言及されるから、“こういうことを言った人”程度の常識なら、適当に本読んでるだけで勝手に頭に入ってくるぞ」くらいのことは言ってあげたい。

ともあれ、予備知識もなくいきなりカントを読む行為の愚かしさ、その田舎者っぽさをいま思うとけっこう恥ずかしい。ここでは掘り下げないけども、インターネットが普及した現在でも情報の偏在は平気であって、都会の読書家は同時代のものをよく読むが田舎の読書家は古典ばかり読む。

 

 

* 社交における文化のゲーム(2/4)

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 ピエール・ブルデューが文化と社会の関係について記した著書、『ディスタンクシオン*2』において明らかにしていることだが、映画好きの人々、だいたい同じくらいの頻度で映画を観る人たちのあいだで、社会階級によって明確に差の生じる部分がある。それは映画の予備知識である。

労働者階級の人々は映画をたくさん観ても、監督や俳優の知識はあまり広がっていかないが、上流階級*3の人々は、観ている映画の量に比して、監督や俳優のことをかなりよく知っている。しかもそれは、辞書を開いて暗記するわけではなく、それ以前の育ちのなかでごく自然に身につけた能力なのだ。

 

 ようするに、ハイソな人たちは映画を観るとき、画面で起きていることを視界に入れるだけでなく、俳優や監督についての知識を得て、頭のなかで網目状の体系を作りだしている。この網目は応用が利くので、じっさいに作品を観たことがなくとも、作品の内容を補うことができる。たとえば◯◯監督の19XX年の作品で、△△主義の影響下にある、という情報さえ知っておけば、つまり網目のどこに位置づけられるのかわかってさえいれば、他人とその映画について世間話をするぶんには支障がない。そしてハイソな人々は、映画や劇、音楽、本等々についてある程度知識があることが嗜みとされ、社交のファッションとして身につけておくべしというプレッシャーがある。

 

 文化貴族的な理解の枠組みについて、上で“網目状の体系”と書いたが、この枠組みの存在感はかなり大きい。世の中では、クリエイティビティが評価されているようでいて、実のところは社会において特定の位置を占める椅子の、ようは枠組みの問題であることも非常に多い。

たとえば櫻井よし子や稲田朋美のような右派の女性論客たちは、べつに発言内容が優れているから人気があるわけではない。彼女たちは前時代的な家父長制を推すとき、不遇な扱いを受けるはずの女性という立場から男性的なシステムに賛同する比較的珍しい立場であるがゆえ、名誉男性枠として取りたてられているのだ。

もうひとつ例を挙げる。欧米のメディアが九十年代のポップ・ミュージックでベストリストを作るさい、日本からBoredomsCorneliusが加えられていることがちょくちょくある。両方とも素晴らしい作品を残したことは間違いないのだが、あれは欧米のメディアが第三世界にも目を向けていることを示すため、免罪符のような感覚で入れてあるのであって、日本の音楽を聴きこんでいるわけではないだろうと訝ってしまう。音楽にかぎらず、映画やレコード屋、書店などのベストリストを世界規模で作るときには毎回存在を感じる二十一世紀枠である。

 

 本についても同様のことがいえる。中高生の青春小説というジャンルでも、綿矢りさは文学的だが住野よるは子供だましなんだろうとか、ミステリーという枠に収まってはいても、東川篤哉(『謎解きはディナーのあとで』の人)が書いてるのは他愛のない作品で、森博嗣はおもしろみがありそう、というふうなことは、ほとんどの人が読むまえのどこかで判断を下しているのであって、じっさいの中身も、世のなかでどんな位置を占めているかでおおかたの予想がついてしまう。そして表面的な社交においては、作品の中身などという審美的なレベルまで話が立ち入ることはほとんどなく、基本的にこの位置づけだけが問題となる。

 

 もちろん予想が覆ることもある。たとえば村上春樹をはじめて読んだときのことだ。「よく茶化されているように、寡黙な男がやたらと女を口説いて寝る、そして“やれやれ”と不満をこぼす、感傷的な小説なんだろう」というイメージで最初の二作を読んだら、想像をはるかに越えるレベルの高さと複雑さに面食らった覚えがある。ナメててすみませんでした……。まあこんな具合で、ときおり世間的な評判と好事家の知見がきれいに割れず、複雑に分裂したり合致したりする場合があり、そのとき作品はリトマス紙のような、あるいは踏み絵のような効果をもたらす。twitterで盛り上がる論争は、おおかたこの踏み絵をもとにして、様々な陣営に分かれて行う文化のゲームと言っていい。

たとえば今年の大ヒット映画、『天気の子』についていえば、「宮崎駿の後釜」「まさか、宮崎駿とは比べようもない粗雑なエンタメ作品」「エンタメ作品として受容されているが、じつは人新世(アントロポセン)という現代思想の潮流を汲んだ哲学的な作品なのだ」「とんでもない、そんな哲学を持ち出すほうがお門違いだ」云々。

たまたま今日見かけた例も挙げると、「ナチスほど芸術に造詣が深く美的感覚に鋭敏だった政党はなかなかいない、これは動かしがたい事実。」というブコメ*4に、「ナチスは結局のところ音楽の趣味が悪い」と反論するツイート。これぞ文化のゲームという好例である。

  この手の論争はどれも、ある作品を審美的に検討する作業はいったん棚上げにして、それを社会のどの位置に置くのがふさわしいかを論じる文化のゲームをしているのである。それこそあいちトリエンナーレの話題だって、じっさいに芸術展でどんな展示がなされているかは無視されがちな現状を思い出されたい。

  

* 予感の最大化(3/4)

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 どこで読んだのだったか思い出せないが、青土社バタイユブランショ、サド、ロートレアモンなんかのデロデロしたフランス文学特集を組むとよく売れるけれども、取り上げられた作家たちの翻訳本はその特集の十分の一しか売れない、という話を読んだことがある。そうだろうなと思う。ここで挙げた作家の名前は置き換え可能で、アメリカ文学特集でもいいし韓国文学特集でもいい。

つまり、ある作品が浸透するよりもずっと速いスピードで、その作品の周縁の言説が生成されていくのである。ある作品の入門書、その入門書を書いた人物についての解説書、あるいは作品の位置する潮流を紹介する書籍……というふうに。もとの作品をさしおいてこのような周辺の補遺ばかりが増幅されると、もとの作品の絶対性が弱まるのはもちろんのこと、なにを見ても、なにに触れても、まえもって予感されたものばかりという事態に陥りかねない。

じっさい、その年ナンバーワン級の大ヒット映画だと、劇場で観るまえに「晴れ女のヒロイン」「前作よりも暗いらしい」「東京の街並みがめちゃめちゃ金をかけて描かれるらしい」「人新世がどうのと言われている」「世界かヒロインかというセカイ系おなじみの二択でヒロインをとるらしい」等々をある程度了解したうえで多くの人が映画を観たはずだ。直近の作品では、タランティーノの『ワンスアポンアタイムインハリウッド』のように、予備知識を前提として成立する作品も珍しくはない。

 

 また、最近ではフィルターバブルという言葉が聞かれるようになった。この単語は、SNSやブラウザを巡回するうち、そのユーザーに最適化された広告やおすすめばかりが表示されるようになり、見たい情報・都合のいい情報しか見えなくなる──そうして観測できる世界が閉じてしまうと、自身の発言に同調するような内容ばかりがはね返ってくるようになり、異質な言説に出会うことがなくなってしまう──現象のことを指す。

インターネットとフィルターバブルが前景化した現代は、過去に存在したどんな時代よりも予感が大きくなり、異質なものに出会うチャンスが減じた時代であるといえる。しかし、そういう時代だからこそ、否定的な感想の持つ価値が大きくなっていて、否定がアイデンティティやテイスト(趣味嗜好)の拠り所になるのではないだろうか。

ある人が映画を観にいき、あまりのひどさに憤りながら劇場を出てきたとして、彼/彼女が、なぜそんな事態に陥ったのか考えてみよう。大抵の人はひどい映画だと予感しながら観にはいかないので、その人物が属するコミュニティの力──SNS上の「絶対観たほうがいいよ!」「まだ観てないの?」──や、あるいは広告の力が劇場に足を運ばせたことになる。ネガテイブな感想とは、コミュニティのなかでの孤立か、マーケティングのミスマッチなのだ。

なにが言いたいかというと、否定的な感想が出るとき、その人はようやくマーケティングから、フィルターバブルに包まれた均質なコミュニティから脱することができるということだ。twitterで「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ!!!」という言葉が名言風に流れてきたことがあるが、コンテンツも人間関係も選択縁の割合が増えた現代においては、ふつうに生きていると好きなものに包まれながら生きていくことになる(そして特定のコミュニティの一員であることを発話するbotに近づく)。だからこそ、自分の趣味嗜好を定義するには、なにが好きかだけを語るよりも、決定的に自分に合わなかったコンテンツについても語るほう適している。まだ記号的な段階ではあるが、個性が浮かび上がってくることになる。

 

* 読書の駆動性、ダイナミズム(4/4)

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 ここまで書きながら、あえて手を触れず、自明であるかのように扱ってきた倫理がある。 それは、本や映画などあらゆる文化は情報であって、実物を通さずとも伝達したり、転写したりできるという倫理である。

だが、読書家たちが読んでいない本について知ったかぶりをし、表面的な社交に精を出すために本を読んでいるのかというと、まったくそんなことはなく、文化のゲームはちょっとした余技にすぎない。読書好きは社交のために読むのではないし、なんらかのスキルを身につけるためでも、情報として頭に入れるために本を読むわけでもない。そんなふうに静的で、取り出したり検索したりできる知識のために本があるわけではない。

少し長いのだが、『百年の孤独』について、ひいては読書の魅力について書かれた保坂和志氏のエッセイ*5を引用する。彼の読書の姿勢には頷けるところが多い。

百年の孤独』の本当に凄いところは、それらひとつひとつのどれをとっても薄い一冊の本にはなりそう内容を惜しげもなくなく消費し──だから『百年の孤独』の面白さを語るときに一つのエピソードを抜き出すのはいわば辞書的な知識のようなものでしかなくて──、それら次から次へと続いていく出来事が何年間のうちに起こったことなのかほとんど不明瞭で、その時間的な定着の困難さがゆえかページをめくるそばから読む私は書かれた出来事を忘れていって、そんなことはいっこう気にせずに今読んでいる部分の出来事の連鎖にどっぷりとつきあい…(中略)

とにかく静的な記憶として極めて定着させがたいページをめくりつづけるという行為そのものの中に『百年の孤独』があり…(中略)

読書とは第一に“読んでいる精神の駆動そのもの”のことであって、情報の蓄積や検索ではない。ということをたまに素晴らしい本を読むと思い出させられる。

 わたしにとってオールタイムベストの一冊が『百年の孤独』であるために、彼の評にはいっそうの共感を覚える。あれほどまでに没入してしまい、読んでいる時間が鋭利に際だち、本のなかの世界がこちらの世界に干渉してくる本は他にない(人文書だとフーコーの『言葉と物』なんかもちょっとそうかも)。

勉強のため、あるいは資格のために“読んでおかなければならない本”や、“読んでいれば(あるいは読んでいるふりをしておけば)バカにされない本”はある。しかし、読書の愉しみの文脈で、“読まなければならない本”などというものは存在しない。とりあえず積んでおけば、なにがしかの文脈をとおして本のことは頭に入ってくるので、ある本について語るためにその本を読んでおく必要はほとんどない。気軽に情報ににアクセスでき、いくらでも知ったかぶりができる現代だからこそ、文化のゲーム領域は拡大している。そしてまさにそういった理由で、文化のゲームは深い理解を必要としないのだ。深い理解や本質や審美なんて水準とはかけ離れた場所で、ゲームはこれからも生き延びていく。労力の削減やコミュニティ生成のためのスノッブな遊びとして。

だが読書の愉しみはゲームとは別のレベルにある。それは読んでいる瞬間のダイナミズムなのだが、動的であるがゆえになかなか人と分かちあえるものではない。読んだ本の価値は自分にしか測れない。

 

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

 

 ※読んでません。目次は見た。だいたい似たようなことが書かれているのだろうと想像したが、はたして……。

 

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・追記

 書いているうちにジェームズ・マーフィーのことを思い出した。LCD SoundsystemのLosing My Edgeという曲をご存知だろうか?詳しい説明は省くけども、中年の音楽家が、自分のうしろから続々と登場する若者たちによって立場を脅かされている、と嘆くダンス・トラックである。

vimeo.com

 

1962年から1978年までのすべてのいかしたグループの、すべてのメンバーの名前をおれに向かって暗唱できるインターネット・オタクのせいで、おれはキレを失いつつある。
おれはキレを失いつつある。
東京やベルリンのガキどものせいだ。

 ずっとこんな調子だ。中年の男が、音楽に詳しく、センスもいい若者たちに不満をこぼすラインが続く。彼は若者たちのことを快く感じていないが、それでも「おれよりも才能があり、優れたアイデアを持っていて、しかも見た目がいい、そして実際、音楽もすごくすごくいいんだ」と認めている。認めたうえで、でも待ってくれ、おれはキレを失って、クールな存在じゃなくなりつつあるが、でも……と弁明するように語りだす。そのときの言葉がこうなのだ。

でもおれはそこにいた。
1968年のあの場所に。
ケルンで行われた最初のカンのライブに。

 おれのほうがよく知っているはず、レコードを持っているはず、と苦し紛れに語るこの文化のゲームにおいて切り札となる一言が、「でもおれはそこにいた」であることはなかなか興味深い。音楽という、要約や言語化がむずかしく、精神的なものと捉えられやすい芸術において、自身をもっとも卓越化する(マウントをとると言い換えてもいい)言葉が「でもおれはそこにいた」なのか、という。

あじっさい、カンの最初のライブにいたとか、キャプテンビーフハートが音楽はじめたときに口出ししてやったとか言われるとこっちもおおっと思ってしまうのだが、もっとも、こういう卓越化に価値を置くことが、もしかすると自分が古い人間であること、歴史についての歴史に通じていること、文化がわかることを誇示すること、また、業界のプロップスを上げることを示すのかもしれないと思えば、いろいろと感慨深いものがある。追記なのと、もう疲れたのであんまり掘り下げませんが。

 

藤田祥平氏による和訳と解説は以下。おもしろい記事です。 

kakuyomu.jp

*1:著者の奥野克巳氏の文章をLexiconや現代思想の人類学特集で読んでいることと、タイトルがあまりに直球で、“人類学者のエッセー”というあの一大ジャンルを要約しているため。おそらく日本の現代社会とは異なる倫理や経済の利害計算を語る一般向けのポップな本なのだろう。

*2:余談。サッカーを習わせている家よりも、テニスを習わせている家のほうが裕福そうな気がするのはなぜ?中産階級がやたら印象派を好む(そしてそれはしばしば笑いの対象になる)のはなぜ?というふうな疑問、すなわち、文化と、その文化が社会で占める位置について疑問に答えうる見取り図がきっちり示されている本。ハイソな文化貴族は表象に留まるが、そうでない者はその意味が明らかにならないと満足しない──ようするに深読みしてしまう──という話も載っていて小気味がいい。これさえ読んでおけば、最初から装備が揃った状態で文化のゲーム(意地の悪いゲームである)をはじめられるぞい!!

*3:ブルデューの調査においては父親の職業で決定される。

*4:https://htn.to/2uEG3FTHuJ

*5:『読書という精神の駆動』より。

マジのガチで誠実なフェミニズム入門(あるいはリベラル批判)

 

* 記事を書いたきっかけ・序文(1/7)

 

この記事を書くきっかけとなったのは、フォロワーのこんなツイートだった。

 

フェミニズムと、表現規制反対って同居出来んのかな?矛盾した主張になるのかな?

 

原文まま。目に入ってすぐ、「同居できるよ!当たり前だよ!」そう言いたくなったが、特に知識がない状態でSNSを見ていると、自称フェミニストの過激な発言ばかりがクローズアップされ、フェミニストのことを表現規制の代弁者だと勘違いしてしまうのかもしれない。それは完全に間違っているのだが……。

 

社会や政治、ジェンダー、エロ、アカデミア等々、インターネットでは日々新たな論争が起きている。その端々を見ていて毎回目に余るのが、自分の気に入らない陣営から一番レベルが低い発言を引っ張ってきて、「こんなとんでもないことを言ってるぞ、やっぱり敵は卑劣な集団だ」と宣伝し合うあの晒し合いである。本当に意味がない。生産性がない。

この記事では、槍玉に上がりやすい誤解や過激な発言について、具体的なログを掲載しないまま話を進めていく。そこには、不毛な晒し合いに加担しない、燃料を投下しない、という意図がある。

 

もしあなたが、天皇制や軍事を重視する保守派なんて低レベルなネトウヨだけだと考えているなら、それは程度の低い言説ばかりを拡大して見てきたことを意味する。反対に、リベラルと呼ばれる人々について、何もかもに反対するクレーマー、あるいは韓国や中国の支援者だと感じているなら同じことだ。

フェミニズムについても似たような状況がある。女のわがまま、男性差別、あるいは表現規制の代弁者......フェミニズムが極端にネガティブなイメージを背負わされているとすれば、その裏側には女性蔑視を振りまく人々の戦略がある。

 

 

本記事では、こんな読者を想定している。

  • フェミニズム表現規制等について、自分の中にはっきりとした価値観が形成されないまま、偶然目にした差別に心を痛めたり、過激な主張をする自称フェミニスト(いわゆるツイフェミ)に面食らったり、という体験を繰り返しているSNSユーザー。
  • 「夫(彼氏)や上司の発言、社会の仕組みに何だかモヤモヤしたものを感じるが、どう反論すればいいのか分からない。フェミニズムについてはよく知らないが、私の助けになるかもしれないから知識を広げたい」という女性たち。

 

このような読者の判断を助けることができればたいへん嬉しく思う。また、不毛な論争に巻き込まれたときに、URLを貼れば少しはマシな議論に引っ張りあげられるような記事を目指している(ごく基本的なことしか書いていないが)。

さて、前置きはここまでにして、フェミニズムについて、表現の自由について(後日公開)取り上げていく。

 

 

* フェミニズムってそもそもなに?(2/7) 

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ダービーのコースに身を投げたエミリー・デービソン

まず断っておかなければならないのが、フェミニズムとひと口に言っても内実は多様なものだということ。問いをひとつ放り込めば、解答をひとつ返す簡単なプログラムではない。

フェミニズムの前身には参政権運動が中心の女性運動があり、その起源は百年以上前に遡る。欧米を中心に、二十世紀の初頭から参政権を徐々に獲得したあとで、一九六〇年代に女性解放運動(ウィメンズ・リベレーション、略してウーマンリブ)運動が起こる。フェミニズムという呼称が定着したのはこの頃である。

 

かなり大雑把ではあるが、この記事では、フェミニズムにおける重要なポイントを二点に集約させて解説する。

 

 

(a) 女性の社会進出、社会における地位向上
(b) 男性中心の社会そのものに対する懐疑、批判

 

(a)は、一般的にリベラル・フェミニズムと呼ばれるもので、フェミニズムと聞けば多くの人がイメージする現在の主流派である。男女平等という理念の実質的な定着を目指し、法律や政治の改革、教育等に努める。

(b)は、ラディカル・フェミニズムのエッセンスといえる理念である。ここで言う"ラディカル"は、"過激な"ではなく"根源的な"と取ってもらいたい*1。(a)とは違い、こちらは女性が参政権を獲得し、労働市場にも進出したあとにスタート地点をもつ。つまり、制度上の不平等を解消したはずなのに、いまだに不当な差別が残っているのはなぜだろう?という問いが核になっている。


(a)のリベラル・フェミニズムは理解しやすい。「政治もお金も決定権も、男だけが独占しているのはおかしいんじゃない?」という問いかけは、多くの人にとって正当なものだからだ。運動としても、間接民主制を通して政治、法律を変えて、女性の地位を向上させようという内容なのですんなり受け入れられる。

 

ただしリベラル・フェミニズムは、参政権や決定権、お金等々、すでに存在している社会的な特権をどんな風に配分するかを問題にするので、社会の構造そのものを疑う、あるいは社会を大きく変える射程を持ち合わせていない。じっさい、制度上の平等を得ても──つまり、参政権を獲得しても、男女雇用機会均等法男女共同参画社会基本法を作って思想を制度の上に流し込んでみても──歴然と女性が不利な状況は変わっていない。そこで(b)のラディカル・フェミニズムが登場するのだ。

 

では、社会の構造を疑うフェミニズムとはいったいどんなものだろうか。

 

もう片面のフェミニズムとは?(3/7)

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ここで最近話題のkutoo運動を取り上げ、(b)のフェミニズムが一体どんな思想なのかを解説したい。

私はいつか女性が仕事でヒールやパンプスを履かなきゃいけないという風習をなくしたいと思ってるの。
専門の時ホテルに泊まり込みで1ヶ月バイトしたのだけどパンプスで足がもうダメで、専門もやめた。なんで足怪我しながら仕事しなきゃいけないんだろう、男の人はぺたんこぐつなのに。

引用元*2twitter: @ishikawa_yumi

 

はじまりは今年の一月、石川優実氏のこんなツイートだった。どうして足を痛めてまでハイヒールを履くのがマナーなの?という苛立ちは多くの女性たちが抱えてきたものである。metooに倣ってkutooと名付けられたその運動は大きな支持を獲得し、二万人近い署名を集めることとなった。しかし、署名に対し厚生労働省が示した公式見解は、事務的で殺風景なものだった。具体的な文言は以下。

 

女性にハイヒールやパンプスを強制する職場があることに関し、根本匠厚生労働相は5日の衆院厚労委員会で「社会通念に照らして業務上必要かつ相当な範囲かと思います」と述べた。*3

 

思わず脱力してしまう回答である。落ち込んだり、怒りを覚えたりしたあとでいい。この現状をどのように変えればいいか、考えてみよう。前述の(a)、リベラル・フェミニズムが示す方向はおそらくこのようなものだ。

 

由々しき事態ですが、物事を少しずつでも変えていきましょう、あんな風に差別的で、著しく合理性の低いことを言うおじさんを丁寧に説得しましょう。まずは間接民主主義で代表を立て、選挙を戦い抜き、徐々に女性の声を反映させてゆきましょう、云々。

 

この涙ぐましく、気の遠くなるような努力はおそらく生存戦略として正しい。というか、大臣の紋切りを借りるなら、“社会通念”上の問題が少ない。

つまり、署名を集めて提出したり、デモをやったり、仲間を募ってみんなでペタ靴出勤したり、あるいは「ワシの答えはこれや」と火炎瓶を投げたりするより穏当な方法である。
だが、穏当なやり方、ルールに則ったやり方で現状を変えたくても、現行のルールが作られるプロセスに女性はいなかったし、変える場にも女性が参入しづらい。そのために女性を軽視した制度が再生産されていく。
その意味で、大臣の答弁はこんな風に書き下すこともできる。「署名なんか持ってこられても強制力はない、言いたいこと、実現したいことがあるならルールを守って、社会通念に則って主張してくれ」という制度からの解答である。

では、その制度に対し、こんな風に言い返すのはおかしなことだろうか?

 

「あなたがたの作りあげてきたこのルールが、社会通念がそもそもおかしいのだ。しかも、それを変えられるだけの地位に女性を送り込むことがいまだに難しい。だからわたしたちはルールや社会通念そのものを疑っているし、その外からの抗議も辞さないのだ」と。

 

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香港のデモの様子。CNNより。

 

余談だが、六月に勃発した香港のデモは、制度の外側から物事を動かそうとする好例(実際に結果を変えられるかはまだ分からないが)である。

ああいうことが起きると必ず、「デモも暴力もよくないだろ、言いたいことがあるならルールを守れよ」と言う人々があらわれるが、そのようにモラリストを擬態するのは、第一に強者たちだ。現行の社会通念が自身の利害に合致しているので、変える必要を感じない人たち。彼ら/彼女らの「ルールを守れ」は、要するに「いまの制度で得しているから変わってほしくない」の言い換えである。

第二に、もっとずっと面倒なのは、ルールや制度を変えた方が自分たちにとっては得なのに、変える運動には絶対反対、という人たちだ。いったいどういうことだろうか。ここで想定しているのは、制度の抑圧に耐えているからこそ、強いられた枷から外れた他人を罰してしまう人である。

従順であれ。空気を読め。男らしくあれ。若いころの苦労は買ってでもすべし。様々な社会通念、ルールで抑圧されている人々は、そのおかしさに内心では気づいている。だが、苦しみながらそれに耐えているからこそ、我慢をやめた人々を見ると「そのくらい我慢できないようじゃ駄目だ」と、自身の助けにもなりうる意見を退けてしまうのだ。それはこれまで自分が耐えてきた時間が無意味だと言われることへの恐れ、何を信じてよいか分からないという不安のあらわれで、利害や論理を超えた拒否反応である。

制度が変わると得をするのに、いまの制度を支持してしまう人たち。これ以上深入りはしないが、世の中を変える上でいつも立ちはだかる障壁がここにある。

 

 

ラディカルなジェンダー論(4/7)

 

閑話休題。今年の年度はじめ、上野千鶴子氏が東大の入学式の壇上に立ったことは記憶に新しい。

www.u-tokyo.ac.jp

 

すばらしい祝辞*4に勇気づけられる一方、ふだん"リベラル"と呼ばれる人々が彼女へ喝采を送る光景にはやや皮肉めいたものを感じる。

 

なぜかというと、上野千鶴子氏は、選択的夫婦別姓には反対*5であるし、同性婚も応援していないし、パックス制*6のようなパートナーシップ制度にも反対、そもそも結婚制度を批判していて、信頼できる知人が出たとき以外は選挙に行かない、と公言している人だからだ。

 

それぞれの主張に確固たる理由、信念があるのだが、こんな風に聞けば、"まともで教養ある"人々は驚くだろう。「なんで?フェミニストなら、というかまともな人なら、同性婚にも夫婦別姓にも賛成するものじゃないの?それに、選挙へ行かないってどんな理由でもアウトじゃないの!?」と。

しかも上野千鶴子氏は、こんな風に困惑するリベラルに冷や水を浴びせて楽しんでいる節があり、いっそう話がややこしい。かつて、「嫌いなものはなんですか?」という問いに、「結婚しているフェミニスト」と挑発的な回答をぶつけて炎上したこともあるくらい。もう少し噛み砕いて説明すると、こうしたアジテーションの裏には、

 

国家権力が婚姻という制度で異性愛カップルだけに社会的・経済的な特権を与え、個人のセクシュアリティを管理すること自体に反対。生涯一人の人と添い遂げます、他の人と交際もしません、というカップルは趣味でやればよい。ただ、そんなロマンティック・ラブ・イデオロギーは本質的なものではなく、歴史的にはごく最近構築された人工物に過ぎない。同性婚もパックス制も、異性愛カップルというモデルを標準化して、他を無理やり合流させる制度なので反対。

 

という主張があり、そこまで聞けば、賛成か反対かに関わらず、要旨の理解はできるのではないだろうか。

 "差別"や"男女平等"という概念を、平凡なリベラリズム的方程式に放り込むと「差別をなくそう」「平等を目指そう」を導くのかもしれないが、根本的なフェミニズムはもっと複雑な回答を返してくる。おおよそこんなところ。

 

「差別って言うけど差異って何から生じるの?男女って概念がもう社会的な人工物だよね。平等は何における平等?社会的なリソースにおける平等だとしたら、平等という概念自体が社会〜国家権力に包摂されているから、権力の歴史を紐解くところから始めないと……。」

  

 

性と社会について(5/7)

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千葉雅也氏。文春オンラインより。

ジェンダー論へ話がスライドしていくが、性と社会の関係でいえば、近年同性婚が大きなイシューとなっている。この辺については、千葉雅也氏の発言が示唆に富んでいるのでいくつか引用しておく。

哲学者であり、同性愛について当事者として語る彼は、「同性婚よりもパートナーシップ制度の方が望ましい」という旨の発言を繰り返している。

日本で同性婚がどうなるかはわからない、天皇制があるからね、という話もあった。ならむしろ、その制約があるからこそ、同性関係は婚姻じゃなくパックスみたいな方向に持っていけるかもしれない。浅田さんも僕も結婚制度自体を批判している。

引用元*7twitter: @masayachiba

当事者だからとくに同性婚のことを言ってるけど、言いたいのは、セクシャリティを問わず、婚姻というものと国家や資本主義や道徳との関係は様々に問題含みだということです。

引用元*8twitter: @masayachiba

 

少し脱線するが、もしあなたが、まともで教養ある人間であれば同性婚夫婦別姓を支持するのは当然だと感じていて、多数派ではないにせよこのような意見に面食らうのだとしたら、物事の半面しか見ていないと言わざるを得ない。

かつてトニ・モリスンは、「あまりに多くの運動や団体が、計算づくで黒人を仲間にしたいと申し出、最後には黒人を足蹴にしてきた」と語ったが、いまやその座にはLGBTが加えられ、諸々の運動を正当化するために駆り出されている。

いま、同性婚は政治対立の表面的な道具にされていると思う。政権側においても、政権批判側においても。本来の、同性愛者がいかに豊かに生きるかという問題から実は離れたところでこのイシューが政治的踏み絵みたいにされているということに、腹が立ちます。

引用元*9twitter: @masayachiba

 

一応断っておくと、婚姻制度そのものを批判するのはフェミニズムジェンダーの論者のなかでも少数派である。ただ、セクシュアリティジェンダーについて掘り下げていくと、ある程度当然の帰結としてこのような見解が出てくることは示しておきたい。

 

しかし、友人たちとの関わりのなかで「同性婚反対の当事者もいるよ」と言うと、それだけで差別主義者だと誤解されることも多い。そう判断する人の頭には、同性婚に賛成しないやつ=ただのホモフォビアで、無理やり反対の論拠を作っている、という等式が浮かんでいるのだろう(じっさい九割はそうなのかもしれないが)。

また、せっかくマイノリティで共闘しようとしてるのに水を差すなよ、と言う人もあらわれる。実際にそう言うノンケを見てびっくりしたこともある。

しかし、マイノリティとはたんに"マジョリティでない"だけの括りであることを忘れないでほしい。積極的な共通点などなにもない、ごちゃ混ぜの集団なのだ。だからこそ、マイノリティが連帯して巨悪を(自民党を?)倒すなんていう絵空事を見かけると、マーベル映画の観すぎではないかと思う。

 

参院選が近いので選挙についてもちらっと意見を書いておくと、各々勝手にやって、まあ希望が通ればいいけど、くらいの気持ちでいるのが健康的ではないだろうか。あの知識人は選挙に行かなかったらしい、野党共闘を邪魔しているらしい、あいつはもうダメだ、みたいな魔女狩りはやめましょう。民主主義や選挙に誰も彼もが希望を持っているわけではない。

自分はというと、いちおう選挙は行くし自民党に入れるつもりもないのだが、投票しながら毎回、選択肢のなさに唖然としている*10

 

 

 

身近なレベル1の質疑応答(6/7)

 

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田村由美『ミステリと言う勿れ』の一ページ。

フェミニズムについて、「女性の社会進出を訴えつつ、社会の構造に懐疑的であること」と序盤で定義したが、世間的な反感を思えば、フェミニストを自称するのはなかなか勇気がいることではないだろうか(自称すべきだと思っているわけではない)。この章では、なぜフェミニストを名乗るのは勇気がいるのか、世間的な反感とはそもそもなんなのか、わかりやすく説明していきたい。典型的な発言をふたつ取り上げる。

 

例. 「モテる女(いい女/美人)はフェミとかセクハラとか言わない、フェミニズムはモテない女(うるさい女/ブス)の僻み」

 

こういう発言は、その人が話しているというより、制度そのものが誰かの口を借りて喋っているのだと思った方がいい。話者は制度のプログラム通りに動く単純なbot

発言の背景には、女の価値は「モテる=男に選ばれる」ことで完成するもの、仮に仕事で成果を挙げ、悠々自適に趣味を楽しんでいても、男に選ばれなければ女としては二流だ、という価値観がある*11。正確には、二流であってほしい、男が女の価値を決定権を握っておきたい、というところか。

 

女性たちはこれまで、法律や政治など社会の枠組みを作る中枢に携わろうとしても、その社会の枠組みそのものが女性排除を含んでいるせいでなかなか近づくことができなかった。そして中枢に近づくほど、かわいげがない・女らしくないなどの言葉で、女として扱われなくなっていった。その歴史を思えば、「フェミニストはかわいくない」と言う人は、「かわいくて女らしい」=「従属的で男の利益に適う」女性、すなわち自分にとって都合のいい女性像を推しているだけである。

 

なので、「モテる女はフェミとかセクハラとか言わない」に対する返答は、「あなたにモテなくていいのでほっといてください」。

 

 

例. 「私は女だけど、セクハラとかフェミとかうるさく言い出したら仕事にならない」

 

これも制度そのもの。「女は妊娠・出産で休むし、生理で体調にムラが出るし、感情的だし下ネタも嫌がるから仲間に入れたくないけど、お前は(男と同じように扱えるから)別だよ」という態度のもとに迎え入れられた女性のことを名誉男性という。

名誉男性は、うまく差別の構造に組み入れられ、他の女性と一線を画す立場で得をしていると考えられるので、この手の発言は、自身の利益を守り、差別の構造を再生産するポジショントークである。

 

kutoo運動に際しても、「職場の美人は(あるいは美人なわたしは)ハイヒールを美しく履きこなしている、それができないブスたちが騒いでいる」系のツイートをいくつか見かけた。

ちなみに黒人差別・奴隷制が当たり前だったアメリカの農場では、「黒人の使用人どもはまったく信用ならない、けどお前だけは別だよ」という語り口で名誉職をもうけ、他の黒人を監督させるのは常套手段だった。とにかく普遍的なやり口なのだ。手を替え品を替え差別の再生産をやっている。

そんなこんなで、「私は女だけど、セクハラとかフェミとかうるさく言い出したら仕事にならない」に対する適当な返答は、

 

「(恋人の有無とか下ネタとか、セクハラ的な内容をわざわざ話さなくても仕事はできるんだけど、大抵の女が嫌がることを嫌がりませんという態度を武器にこの人は男社会をサバイブしてきたから、こういうポジショントークが出るんだろうな。それか、セクハラに耐えるのがしんどいあまり、そこに意味を見出して、セクハラに耐えてこそ社会人!耐えられないのは二流!みたいな規範を内面化しちゃってるのかも。本人も内心つらかったりして。まあ本当のとこは分かんないし深入りせんとこ。)………そうすか!!」

 

こんな感じではないか。括弧内は、よほど信頼関係がないかぎり言わない方がいい気がする。

 

= = = = = 

 

おおよそこんな相場感。フェミニズムにつけられる難癖の大半は、制度のプログラムどおりに作動するbot的発言、あるいは利害計算のエラーなので、世間なんてその程度だと思っておけばいい。気の持ちようひとつで解放されるほど簡単なものでもないが……。

また、いま挙げたような単純な敵意の発露とはまた違う、素朴な疑問があらわれることもある。
ジェンダーをあれこれ論じたところで、セックスは強固にあるじゃん、性器や染色体ではっきり区別できる→*12

「男と女はそもそも体の構造が違うんだから、全てを平等にしろってのはおかしいんじゃない?→*13

例えばこんな。ただ、フェミニズム現代思想と結びつき、様々な理論を練り上げてきた歴史があり、こういうレベル1の発言に対する応答は何億回もやってきている。だから誰かがその場で思い付いた批判や矛盾の指摘がクリティカルに作用することはありえない。これは明確に権威主義だが、素朴な疑問に対する答えが欲しいなら勉強するしかない。

 

この記事の誠実さは、フェミニズムについて「女性の社会的地位向上です」という聞こえのいい片面だけを言って終わるのではなく、「社会の根本を疑う射程がある」という裏面まできちんと語るところにある。読者の足場を揺るがせ、疑心暗鬼にさせることを目標としている。

なぜならフェミニズムは(というか哲学や思想は)、どう生きていけばいいのか道筋を教えてくれるようなものではないからだ。偏見や思い込みを次々に打ち砕き、荒野に放り出すものだからだ。

新しいことを知る、あるいは勉強するという行為は、それまで当たり前に頼っていた自分の中のプログラムにたどりつき、自らのコードを書き換えていく行為である。しかし、書き換えるためにはなにをすればよいのだろうか?どんなことを知ればよいのだろうか?最後の章でその問いに応えておきたい。

 

 

読書ガイド(7/7)

 

話がずいぶん遠くまで来てしまったが、冒頭で想定していたのはこんな読者たちだった。

 

  • フェミニズム表現規制等について、自分の中にはっきりとした価値観が形成されないまま、偶然目にした差別に心を痛めたり、過激な主張をする自称フェミニスト(いわゆるツイフェミ)に面食らったり、という体験を繰り返しているSNSユーザー。
  • 「夫(彼氏)や上司の発言、社会の仕組みに何だかモヤモヤしたものを感じるが、どう反論すればいいのか分からない。フェミニズムについてはよく知らないが、私の助けになるかもしれないから知識を広げたい」という女性たち。

 

 

わたしが「こんな読者の助けになりたい」と感じている人たちである。しかし現状では、こんなふうに「フェミニズムってどんなものだろう?」と素朴な疑問を抱く人たちに門戸が開かれているとは言いがたい。

フェミニズム入門本はありそうでなかなかないし、入門に適した本が『フェミニズム入門』という探しやすいタイトルで棚に書店の棚に収まっていることはまずない。

上野千鶴子氏が「統計的に"フェミニズム"がタイトルに入ると売れない」「統計的に見て女は本を買わないし読まない」という話をしていたが、そのような事情も関係しているのかもしれない。 

内容的にはここで、ロクサーヌ・ゲイの『バッド・フェミニスト』──「フェミニズムの歴史を実はよく知らないし、男は好きだしピンクも好き、そんな自分でもフェミニストとして生きていく」というエッセイ──を挙げられればよかったのかもしれないが、翻訳がとんでもなくひどい(あまりにひどくて出版社にメールした)のでお薦めしない。

本記事では、入門に最適な本として二冊、+αでもう二冊を挙げておく。

 

= = = = =

  

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

話題の韓国文学。韓国では百万部以上(!)を売り上げ、ここ日本でも、海外文学としては異例の大ヒットを記録している本である。身の回りの女の子たちが口々に「涙なしに読めない場面がいくつもあった」という切実な感想を伝えてくれている。斬新さや実験的な試みがあるわけではない。だが、「いままでうまく言えなかったモヤモヤを言葉にしてくれている」という意味で、多くの女性にとってこれ以上ない入門書ではないかと思う。

 

女ぎらい (朝日文庫)

女ぎらい (朝日文庫)

フェミニズム入門としても、上野千鶴子入門としても最適な本。男たちの部活的でホモソーシャルなノリについて、婚姻制度の歴史について、男の値打ちがなにで決まる(ことになっている)かというと、何よりも男からの評価であり、もし女からの評価を得たければ、地位や名誉、富などをめぐる男の間での覇権ゲームに勝ち抜くことが一番の王道である。女はあとから自動的についてくる──という旧来の価値観について、明快に解説してくれる本である。扱うトピックが幅広く、学術的な背景についてもわかりやすいタッチで示してくれる。最近文庫化したので財布にも優しい。

 

実践するフェミニズム

実践するフェミニズム

時代性やアクセスのしやすさでいえば一段落ちるものの、牟田和恵氏の『実践するフェミニズム』も親切でバランスのいい良書なのでお薦めできる。セクハラに悩まされている人には特に推したい。

 

フェミニズム (思考のフロンティア)

フェミニズム (思考のフロンティア)

もっと専門的な思想的背景が知りたいという人は、岩波から出ている竹村和子氏の『フェミニズム』を薦めたい。ただ、読むためにはラカンフーコー、バトラーなどの現代思想についてある程度知っておく必要があるうえ、それらを"知っておく"ためだけに、現代思想の入門からなにから数十冊読まなくてはならないのでぐっとハードルが上がる。

もっとポップで負荷の少ない読書としては、上野千鶴子の対談本がどれも易しくておもしろいので、そういう景色が楽しい裾野を進んでいくのがいいかもしれない。

 

= = = = =

 

自身の体験に照らせば、フェミニズムにまつわる読書の面白さは、幻想が次々と打ち砕かれていくところにあった。何よりもショッキングだったのは、一夫一妻・夫婦は愛によって結ばれる・浮気は厳禁という考え方はいまでこそ一般的だが、歴史を辿ればごく限られた地域と階級の嗜好に過ぎず、せいぜい二世紀しか歴史がない*14ことだ。

他にも、レイプは性欲を制御できずにやるものだとか、自慰はモテない男のやることでセックスの回数とトレードオフだとか…。ページを繰るごとに、いままで当たり前だと思ってきた、というか、意識すらしていなかった前提が崩れていく。根源的だと感じてきたもの、たとえば異性愛や母性のようなものですら、特定の制度を前提にして作動するものだという知見を得る。おもしろい反面、足元が揺らぐおそろしさがある。

そのように歴史やデータを紐解いていくと、制度や社会構造にとどまらず、日常的な皮膚感覚に至るまでが男性的な権力を反映していて、男性によって記述され、男性にとって都合のいいように作り変えられてきたことが少しずつ分かってくる。しかし、これは男に悪意があるという話ではないし、男vs女という構図を作りたいわけでもない。社会の居場所として与えられる"女"とは、翻って”男”とは一体なんなのか、立ち止まって考え直してみませんか、と疑問を投げかけるのがフェミニズムである。

 

= = = = =

 

最後に。いまはフェミニズムというと低レベルな差別発言だの表現規制だの痴漢冤罪だのが踏み絵にされることが多く、仮想敵は素朴な女嫌い、あるいは昭和のクソジジイ的なものが多い。ただ個人的には、今後の仮想敵はそんなイージーな保守(?)ではないと常々感じている。

おそらくこの先十年、二十年で、小泉進次郎、落合陽一的なものが政治の中心に進出する、AIによる合理化や最適化を推進する、末端ではAI活用と言いつつ、社会的に構築されたものを本質論のように語りはじめる、男の方が出世しやすい=男の方が優秀だとAIが判定しました、という連中も出てくる、合理化を進めていくと、妊娠出産は労働においてハンディなので、男は働き女は家を守るという旧来の体制には一定の合理性がある、などの論理で身分制を固めようとする……という流れを想像している。

冒頭で書いたように、インターネットでは、論理的にワンパンで終わる、簡単に叩けるネトウヨ的なものばかりが拡大されがちだが、本当の仮装敵がいるとすればネオリベであり、過度な合理性の追求であり、そこから生じる身分制ではないだろうか。

 

= = = = =

 

追記

次回は表現規制について書くので、興味のある方はお楽しみに。フェミニズム表現規制という誤解されがちな点について書くつもりでいます。書けたらtwitterでお知らせします。→@leoleonni

*1:wikiを見ると、ラディカル・フェミニズムの端的な特徴としてポルノ規制が取り上げられているが、いままで牟田和恵や上野千鶴子で読んできたラディカル・フェミニズム像とは全く違う。wikiが偏っているのか、これまでに読んできた著者が偏っているのかよく分からないので、詳しい人は教えてください。

*2:https://twitter.com/ishikawa_yumi/status/1088410213105917952

*3:パンプス着用、社会通念で 厚労相、容認とも取れる発言 / 答弁の前後で、「当該指示が業務上必要かつ相当な範囲を超えているかどうかがポイント。例えば足をけがしている労働者に必要もなく強制することはパワハラに該当しうると思います」という発言もあるために、パンプスの積極的な容認ではないという解釈もあるらしい。たしかに積極的ではない。しかしこの答弁を読んで、「事実上の容認ではない」と主張するのはかなり不思議。

*4:冒頭で、「男子受験者の方が女子よりほんの少し合格率が高い(比率は1.03)」という状態を問題視しているが、年代によっては1を下回ることも多いようで、数値の見せ方に恣意性を感じた。ただ、その他は祝辞として素晴らしい内容ではなかろうか。

*5:世紀の変わり目くらいまでは、あらゆる著作で「選択的夫婦別姓=進歩的で男女平等だという考えは短絡的」と主張しているが、彼女の仕事がケアの方へ行ってからのことはよくわからない。ここ十年くらいは学術会議の一員として選択的別姓を認める活動もしていて、はっきりした転向がある。

*6:https://ja.wikipedia.org/wiki/民事連帯契約

*7:https://twitter.com/masayachiba/status/1054398091770585095

*8:https://twitter.com/masayachiba/status/1024295118675763200

*9:https://twitter.com/masayachiba/status/1024690669581824000

*10:「じゃあ選挙出れば」と言う人に度々遭遇するが、この記事で話していることは、民主主義や選挙がすべてではないという内容なので噛み合っていない……。クソリプ避雷針の註。

*11:とはいえ、男だって四十で未婚だと「どこか問題ある人なんだろう」と思われるのが現状なので、男女ともに降りるべき幻想ではある。

*12:前世紀的!!ジェーン・スコットやバトラーを読んでくださいと言いたいがこういうことを言う人はたぶん読めないので、まずバトラーの解説書を開いてみて、それも難しかったら現代思想の入門書から頑張ってみてください。

*13:その体の構造っていうのがね…(ひとつ前の注にもどる)。「全てを平等に」はこの記事で藁人形気味に批判しているリベラル・フェミニズムの考え方なので限定的。現在の社会的な不平等が解消されるまでは、差異を認めることが差別の正当化につながってしまう、という生存戦略もある。別に何もかもが社会的な構築物だと言いたいわけでもないのだが……。サイバーフェミニズムやポストヒューマンのフェミニズムでも読んでみてください。

*14:これはフェミニズムというよりは、フェミニズムが前提にしているフーコーの仕事。

日記・雑記(3) ワンピースってどこがおもしろいの?と聞かれた話

<中学の教室っぽい話がしたい>

最近友達から、「ワンピース好きなの?意外!田舎のヤンキーが好きなイメージしかない。絆とか、友達(ダチ)とか、地元とか言ってる人のイメージしかない」と言われて、いやいやいや、めっちゃおもしろいからね!!!!!とその場で解説する回があった。

 

 

その話をなぜ日記に書くのか。本来自分がTwitterに求めているのは「中学の教室」なのだ*1が、最近のインターネットは、Twitterに限らず政治の不祥事や強姦の無罪判決などで牧歌性が失われており、中学生が昼休みにするような話が圧迫されている気がするから。ということで、特に深い意味はないけど、中学の教室でやってそうな話をします。ワンピースのどこがおもしろいのかという話。

 

 

<ワンピースのどこがおもしろいのか>

 

1/3  世界設定のおもしろさ

ワンピースがどういう漫画なのか、自分流に要約するとこんな感じ。

 

舞台は、警察組織や国家連合を傘下に置く、巨大な権力が統治する世界。現行の権力が覇権を握った七百年ほど前、書物や記録のほとんど残っていない"空白の百年"が存在する。しかし、使命を帯びたある一族が、決して破壊できない石に史実を記録していた。海賊たちはアンチ権力のアイコンとして点在する石碑をめぐり、現代世界の成り立ちを探る。実存的な不安を掘り下げる冒険譚。

 

 

「ワンピースって仲間とか友情とかそういうのでしょ」

というステレオタイプな見方は、実際にある程度そうなので否定しない。ただ、大河ものなので楽しみ方は多様であるし、話の大枠でいくと、隠された世界の成り立ちをめぐる冒険と言ってしまえる。ただ読者の多くは、謎解きのことを普段は意識せずに読んでいるはずで、自分としても、世界の謎をめぐる話だからおもしろいぞと言いたいわけでは全然ない。とにかく話作りがうまいのだと言いたい。

あと、「火影になる」「天下の大将軍になる」系の立身出世ではなく、アナキストの冒険であるところがいい。権力の欺瞞に対してわりと安全に石を投げられるのが心地いいのかもしれない。既成権力での立身出世話は、自分たちが属性として加害者であることについて常に内省を強いられるため、「ずっと戦ってるけど大義名分あるのかな?」という感覚がつきまとうが、ワンピースは、戦いの動機にカラッとした気楽さがある。 

 

 

2/3 ディティールのおもしろさ

ディティールの織り込み方がいい。ひとつの島を例に挙げる。

主人公たちが訪れる島のひとつに、場所の定まらない、特定の海域を周遊する島があらわれる。しかしその島の正体は、海を闊歩する巨大な象なのだ。上陸はおろか、原住民の案内がなければ場所を特定することすら難しい、孤独な島である。そこでは毎朝象が海水をシャワーのように吹き上げて水浴びをし、住民たちはその水分から海産物を得るという奇妙な生活が営まれている。象は水底に足を付けて歩くため、足は異様に細長く、その胴体は雲の上に霞んでいる...。

冒険譚としての楽しみや、いくつものアイディアを感じられる設定だが、じつは元ネタにダリの絵画がある。

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この絵について簡単に解説をすると、強大な力を想起させる象と、ひ弱で細長い足を組み合わせる、さらに宇宙に浮かせる、というやり方で、力を相対化するモチーフらしい*2

ワンピースはこの手の本歌取りによって奥行きを持たせるのが巧みな上に、画力の高さも相まって、ファンタジーとしてとにかく良質なのだ。ちなみに作中では、非常時に一瞬だけ象と意思疎通をはかる場面がある。そこで象は「命令されて」「罰として」海を歩き続けていると自己紹介する。誰が命じたのか、どんな罰なのかはこれからの展開に期待、という感じ。

加えて、ワンピースの見所は、どんなにイマジナリーな場所でも、その島の地理はかくかくで、産業はこれで、どんな風に経済が成り立っていて、こんな食文化や生態系がある、という暮らし向きを毎度細やかに紹介するところにある。言うなれば、観光編をきちっとやる。そこが素晴らしい。だいたいファンタジーなんて、「こんな場所もあるのかも」と説得されるために読んでいるようなものなんだから。オベリスクを乗せたダリの象が海を回遊する、象は太古に受けた罰によって歩き続けている、そういう荒唐無稽なアイディアを、絵と話の作り込みで魅せる。

 

 

3/3 アイデンティティの描写

最近は物語が終盤に近づき、世界の一角を担う強大な海賊が出てくるのだが、世界最高峰のその海賊団は、船長を務めるひとりの母親と、その子供たちで形成された血縁集団である。

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強大すぎる母親の生命力を受け継いだせいか、子供たちには奇形が多い。三つ眼、口裂け、多頭、首長、ツノ付き、巨人、書き連ねると百鬼夜行のよう。彼らは殺しや拷問も厭わないギャング集団でありながら、幼少期に見た目を笑われた経験までさかのぼってコンプレックスがあるため、繊細な一面を隠した敵としてあらわれる。

三つ眼の女は、愛のない政略結婚として嫁入りするはずが、前髪で隠した最後の眼を「なんて綺麗な瞳なんだ!」と認められたことで、花婿に惚れてしまい、計画に狂いが生じる。口裂け男は、身内にも裂けた口元をひた隠しにしているが、激しい戦いの最中でそれが露わになる。主人公は、敗北し横たわった彼の口元に帽子をかぶせて去ることで敬意を示す。誰もが知るように、帽子は主人公ルフィのアイデンティティを示すものであり、裂けた口元と帽子の重なりには並々ならぬ重みがある…。

主人公一行は正面衝突ではまず勝ち目がないのだが、異形の者たちが抱えたコンプレックスにどう触れるか、という一点によって、すんでのところで命を救われるのだ*3。少数者のアイデンティティ描写については、挙げだすとキリがないくらい、作者がテーマとしている問題である*4

 

だいたいはこんなところ。どうだろうか?この紹介によって、読んだことのない人が興味を持ってくれる、あるいは、もう読んでいる人が何かを再発見したり、ほんとそれな〜と言ってくれれたりすると嬉しいです。中学の教室みたいな気軽さで。

 

= = = = =

 

追記

しかし考えてみると、ジャンプ漫画の話がしたいしたいと言いつつ、ではわざわざ友達に電話をかけるかというと、そこまでの事柄でもないから不思議である。ジャンプの話は、話すべき用件というよりも、朝から晩まで同じ友人と顔を合わせて、用件が全て終わった、コミュニケーションが飽和した空間に析出する類のものなのだ。思えば中学の教室はそういう場所だった(よね?)。今は友人たちと顔を合わせても、仕事や家族、生活の話が上に来るのであって、なかば惰性で読んでいるジャンプ漫画の話になるまで、何もかも”話し終えて”しまうことはほとんどない。

「中学の教室」という概念を紐解いて、あの時間の何が特別だったのか考えてみると、話すべき物事に対し、話す時間が膨大にあったことに思い当たる。そのせいで、空気が抱えきれなくなった水滴が結露して現れるように、誰かと話をしていた。次の日には残らないような話を。

ところで、話が尽きたあとのグルーヴというと、中学の教室に限らず、同棲生活や深夜のラジオなんかを思い出す。あの程よい湿度を求める感覚は普遍的なのかもしれない。いやはや、最初はジャンプの話だったのに、いまいち関係なさそうなところまで来てしまった…。

 

*1:もともとTwitter @osicoman の発言。

*2:この説明はググって出てきたのを貼っただけ。

*3:そういう善悪の公正仮説でいくとちょっとつまらないが、残酷物語だとここまでは売れないのでやむなし。

*4:あと、昔から思っていることを書いておきたいのだが、ワンピースで描かれるLGBTには陽気なオカマしかおらず、差別的・画一的なので変えたほうがいい。

筋トレをして鬱になった話と、筋トレは虚しいという話

・筋トレをして鬱になった話

わざわざこんな記事を書く気になったきっかけはこれ。

 

mdpr.jp


 
常識的に考えれば、薬物やアルコールなどアディクトの影響下にある人について、「筋トレすれば大丈夫」と冗談めかして言うことは無理解で無神経だと思うが、圧倒的に支持されているようなのでモヤモヤした。精神的に悩んでいる、という人に、「ジム行きなよ」と返す、あの何もわかっていない人たちと同じ精神性を感じる。
 
だいたい、覚せい剤で大変だった頃の清原なんて筋肉隆々なのに悲壮感がすごかったし、イニエスタでもうつ病になるし、なぜ筋トレすれば解決するという言説が喜ばれるのかよく分からないが、バーの明るいオカマのようなイメージで、健全なキャラクター像をマッチョに投影するエキゾチズムがあるのだろう。
自分は筋トレに成功し、体重を大きく増やした時期にうつ病を発症した。仕事や人間関係の悩みが原因である(普通)。病気を前にすると、筋トレはもちろん、健康に気を使った生活や、もともとの明るさもほとんど無意味なのだと感じたので、薬物のアディクトに対してすら、「筋トレすれば大丈夫」がもてはやされる風潮は有害ではないかと思う。
 
 

・筋トレは虚しいという話

自分がなぜ筋トレ話をし始めたのか、という話をする。もともと痩せ気味の体型を気にしており、筋肉をつけたい、健康的な体型になりたい、と思っていたところに、昨今の筋トレブームとマーベル映画が重なった。キャプテン・アメリカを観ながら、「クリスエヴァンスまじかっこいいな…ためしに筋トレというやつをやってみるか…」と思い至ったのが去年の春ごろ。その後何をしていたかというと、筋トレに並行してターザンを1冊買い、信頼できそうなサイト*1 やYoutuberなんかを暇なときにチェックする。そして、

「筋肉痛があるときでもトレーニングしていいの?」
「空腹時のトレーニングで筋肉が分解されるって本当?」
ボディビルダーって減量期に有酸素運動やるの?」

などの初学者あるある的質問を思いつくたびにつぶしていく、という習慣を1、2ヶ月続けると、普通にやるぶんには充分な筋トレの常識が身についた。ファッション誌を3月連続で買うと、基本的なファッションや髪型の文法がわかって、4冊目からは表層的なチェックだけでよくなるみたいな感じ。
適切な量のトレーニング、食事、プロテイン摂取を続けた結果、体脂肪率は微減、半年で体重は7キロ増えた。同じ体重のボクサーを画像検索すると、ぱっと見るかぎりでは同じような体型をしていた。筋肥大の成果としては満足いくものだったといえる。

筋トレをやってよかったのは、

  • カロリーやタンパク質、ミネラル等の計算を通して、摂取する栄養に自覚的になれたこと
  • 今まで増えも減りもしなかった体重を変化させる術がわかったこと

このふたつに関しては、本当にやってみてよかったと感じている。25歳で初めて、健康を意識し、自分の体の変化に敏感な生活を送ることができた。

しかし、これは最初の1、2ヶ月でいったん身につければ、以後は筋トレを続ける動機になりえないものだった。前提として、筋トレは続けなければ効果がなく、何もしなければ筋肉はどんどん落ちていくものだ。

では、なぜ飽きっぽい自分に筋トレが続けられたのか?と考えてみると、筋トレのギミックに答えがある。筋トレはやればやるほどいいというものではなく、2、3日間の休養期間を挟んで行うのが効果的であるとされる。つまり、


筋トレをする→2、3日経つ→筋トレをする

 

というサイクルの繰り返しである。休養後、筋トレに適したタイミングは超回復期と呼ばれ、超回復期にトレーニングをすることで筋肉がついていく。しかし、逆にいえば、その時期を逃すと効果が大きく薄れてしまうのだ。

このギミックは、いま思えばソシャゲの報酬システムにそっくりだった。スタミナ溜まったからやろう、今日のクエスト来たから消化しよう、と同じ動機付け。あるいはログインボーナス。しかもソシャゲの報酬と同じで、現実に全く還元がなく、閉じた世界のものだった。

最初は体型が変わること自体に驚きや発見があり、自身の健康を見直すきっかけにもなった。しかし、変化を楽しむ段階、健康についての学びが大きい段階を過ぎると、きつい筋トレに対してのリターンは”筋肉だけ”になった。こう書くと当たり前のようだが、ふつう筋トレする人の多くは、筋肉そのものではなく、健康とかモテとかスポーツの結果とか、二次的な何かが目標で、べつにボディビルダーになりたいわけではないことを思い出してほしい。少なくとも自分の場合は、筋肉そのもののためにどれだけ頑張れるか?という問いに直面してやらなくなった。

筋肉をつけたところで、恋人も友達も褒めてはくれない(「なんか最近やってんなー」と思われるだけだ)し、健康の面でも、途中からは自己満足の世界に入る。このへんは、成果を見定めてくれるトレーナーの存在や、筋肉そのものではない二次的な目標(結婚式までに痩せる、◯◯山に登頂する、等々)があるかどうかで変わってくるのかもしれない。ただ、特にそのような目標のない人の筋トレは自己満足でしかなく、トレーニングが好きな人、修行が好きな人のためのものになりがちだと指摘しておきたい。


・まとめ

簡潔にまとめると、言いたかったのはこの2点。

  • 「筋トレは精神的な問題に対する万能薬である」とする言説は根拠がなく、精神的な問題を抱える人にとっては抑圧的なものとなりうる。
  • 体験談として、筋トレによって食生活や運動習慣の見直しなどポジティブな効果も得られたが、途中からはソシャゲ的な報酬の自己修練になり、モチベーションが維持しづらかった。



最後に、少しまえ話題になった羽田圭介氏のインタビューを貼っておく。引用箇所は全文同意。

 

――でも巷では、自己啓発系の筋トレ本やNHK『筋肉体操』などを通じて「筋肉は誰にも奪われない」「筋肉は裏切らない」といったフレーズが話題になったりもしています。
 
羽田 何もしなくても筋肉がつく人はそうでしょうけど、日本人の体質的には、筋トレは時間が奪われるものですよね。筋肉を維持するために、すごくいろんなものを犠牲にすることになる。食事とか時間とか集中力とか。やめたらすぐヒョロヒョロになっちゃう人は、もっとほかのものにエネルギーを割いたほうがいいんじゃないかな、と思います。それを本当に生きがいにしている人を否定はしないですけど、無理して中途半端に真似ようとするのはやめたほうがいい。「筋トレでメンタルが変わる」っていうのは順番が逆で、地味で苦しいことを続けられる人が筋トレをやっているだけです。

 

 

www.asahi.com

*1:https://www.rehabilimemo.com 非常に有用な情報源だと思います。ご存知なかった方にはおすすめです。