とりとめのない日記・雑記

 

6月〜7月上旬の、とりとめもない日記・雑記です。

 

‪<カメラを向けられる>

訓練されていない人間に、いざ撮影、とカメラを向けると、動きがぎこちなくなる、ただ歩くだけで不自然に見えてしまう、という図は簡単に想像がつく。今日、「そういう時は何かものを持たせて撮ればいいんだよ」という話を聞いて、視界がぱっと開かれたような気持ちになった。

いざカメラを向けられて歩くとき、人は普段自然に行なっていた動作を意識化して、足の角度や力の入れ具合など、思いつく限りの各項目で適切な動作を出力しようとする。そして、その行為の煩雑さがキャパを超えたり、項目が網羅できない部分が多かったりで不自然に写ってしまう。何かを手に持つと、網羅すべき項目が減って、たぶん少しは歩きやすくなるんだろうな。

自分の体験に照らせば、数年前、友人の撮影に付き合ってカメラを向けられたことがあるが、できあがった映像で歩く自分は、まあ驚くほど気味が悪かった。それにはもちろん自身を見る気持ち悪さも含まれるけど、そこに写っていたのは、歩いたりスマホを取り出したりの動作全てが不自然で、いかにもぎこちない、立つ瀬のない人間だった。

だがここで言い訳したいのは、画面の中で歩いていた自分はたしかに「手ぶら」だったということだ。

 ネクタイ結びからブラインドタッチまで、体で覚えている類の記憶は「非宣言的記憶」と呼ばれ、言葉で手順を再現しようにも、何かが抜けたり順序が前後してかえって伝わりにくいようにできている。こういう静的/動的なプロセス(ROMとRAMっぽい)はAIに転写するときどうなるのかとか、記憶宣言的(静的)/非宣言的(動的)という枠組みで人の動作を捉えると、役者は何の訓練をしているのか*1、などと考え出すと興味は尽きないが、記憶と演技の関係、みたいな演劇論は無限にありそうだし、これ以上書くといかにも平田オリザを読みかじった人の演劇話になりそうで恥ずかしい*2のでこの辺で…。

そういえば、先週くらいの『ハイキュー!!』で、主人公チームの控え選手がサーブに立つ、緊張を抑えるため、いつものルーティンをこなそうとするが、練習のとき見えていた非常口の緑の灯りが隠れて見えない、その途端、今まで耳に入らなかった声援や場内アナウンスをはっきり意識してしまい、集中が途切れる、というシーンが描かれていて、この漫画はこういうとこが面白いんだよな〜、流石だな〜と思った。これもスポーツではよくある、非宣言的な技能にふせんを貼る作業だ。

 

 

 <  人生〜 >

⑴「トレインスポッティング評で、レントンの倫理観にダメ出ししたやつがあったよ」と友達から夜中にLINEがきて笑った。トレスポ観たあとで倫理の話すること自体が面白いけど、(ここからネタバレ)聞くと主人公レントンが友人カップルのハメ撮りを勝手に拝借した件でまた笑った。ことの結末から因果でたどっていくと、友人のサムが荒んだ生活の果てに脳炎で死んだきっかけはレントンの盗みにある、という話だけど、当初の意図を抜きにして、因果や可能性を使って大元を導きだすのはまあ不毛な行為だ。

 ⑵フランス映画でよく出てくる"C'est la vie!"というセリフ。直訳は「人生だ」だけど、例えばトリュフォーの映画では、ナンパ師が女の子に声をかける、

 

「でもこれから予定があるのよ」

「そうか、それは残念」

「C'est la vie」

 

と続いたりして、なんとなくのニュアンスは伝わる。「まあ仕方ないよね」「人生そんなもん」みたいな含みだろうか。これは英語なら、たぶんヴォネガット(や、それを流用する村上春樹)の「そういうものだ」に似ていて、日本語ならきっと、関西弁の「しゃーない」に近い。*3だからトレスポでサムが死んじゃったのはかわいそうだけど、まさしくC'est la vie(セラヴィ〜)って感じ。

自分の話のように書いたけど、フランス映画によく出てくるセラヴィがね……という話は恋人が話していて素敵だなと思ったもので、私はトリュフォーの映画を観たことがない。

 

 

<職場のこと>
会社に空調の工事が入り、昼間じゅうオフィスが埃っぽかった。もともとアレルギーの体質なのでくしゃみが止まらず、周りに極力迷惑をかけないように音を押し殺してくしゃみをしていたら、隣のデスクの人がおずおずと「君みたいに静かにくしゃみをするにはどうすればいい…」と質問してきた。
その後の昼休み、数人の先輩社員の前で私がくしゃみをする→隣の人「ほらみんな、この静かさですよ(どよどよ)」みたいなことが起こって、なんなんだこの空間は…。と思った。職場でストレンジャーだという意識が常にあるので、こういうことひとつでその日はだいぶ気楽に過ごせた。ちなみにコツは、くしゃみの直前に大きく息を吸うタイミングで、逆にすっと息を吐くというもので、ずいぶん前人に教えてもらったことをずっと実践している。ライフハックのようになってしまったが、くしゃみの音が気になる人はどうぞお試しを…。

 

 

 <外国人の友達>

最近韓国人の友人ができた。私にとって身近な韓国との接点であるDEANやhyukohは何を言っていて、どんな風に聴かれているかとか、「先輩後輩の関係が強固だから、相手の年齢を確認しないと話し方が定まらないって本当?」みたいな文化あるあるを確かめてみたいとか、いろいろ話したいことはあったのだが、彼女は話がそういう韓国文化の方面へ傾くと、少し戸惑った風に「え、なになに、これって文化交流の場?」と言うので、胸をトンと衝かれたような感覚になった。はっとした。

 

日本で外国人の友達というと、その国代表みたいに扱われがちで、出会い頭に形式的な国際交流が始まるのは想像に難くないけど、日本で暮らす韓国人という立場なら、そういうのは何十回も通過していて「またこれか」という感じが頭をよぎるんだろうなと思った。彼女が、意識高いテンプレのような同僚に対して、「留学経験あるからって私と仲良くできると思うなよ!」と毒づいていたのはとても良かった。しばらく話をしたあとで、「でもあなたは儀礼的に国のことを聞いてるんじゃなくて、まっとうに韓国に興味があるって分かるから、質問されるのは嫌じゃないよ」と言ってくれて、だいぶ気持ちが楽になった(とはいえ、やはり根掘り葉掘り聞きたいとも、聞くのが許されたとも思わなかった)。

他人のことを、「自分が何か言うと跳ね返ってくる反響板」くらいにしか捉えていない人はたくさんいて、自分はそうならないよう心がけていたつもりだったけど、「外国人」というベタなファクターが差し込まれて未知の部分が増えるだけで、自分も簡単に無礼な人間になりうるのだと思った。気をつけよう。

 

(余談だけど、その韓国の友人とは関係なく、最近は韓国文化全般や、韓国社会とジェンダーの関わりについての本を図書館で借りて読んだりしていて、何気ないエピソードひとつが興味を惹くものだったりする。

例えば、韓国では出産を終えてすぐワカメのスープを飲む(受験受かった時なんかも、人生のあらゆる節目で飲む)風習があるのだが、ベッドでスープを飲む母は、自身の出生のことや、自分の母のことを思い出すだろうし、そうなると私は、歴史の年表でよくある、始点も終点も違う直線が19xx〜20xxなどといくつも伸びている図を想像する、そこに出産という点が記録され、交わることのない平行な縦線同士に、あみだくじのように出産の点同士をつなぐ横線が引かれる、新しい母親は、自分の母親もこうだったのだろうかと考える、ところで、そもそも他人のことが「わかる」とは、似た回路を他人に見出すそういう補助線のことではなかったか、と考えだすと、あみだくじにはさらに無数の横線が引かれて、複雑になった図が頭の中でグニャグニャ歪む、しかし国の風習レベルでそういう補助線が認定されていて、価値観の再生産がごく自然に行われるのはよくできていて面白いし、それは当然儒教と関わりがある、また、時期がら周りの新入社員を見ていて、エリートたちが休日返上で出し物の稽古をして劇を披露するような風習は極東アジアにしかないだろうな、などと、いろいろなことをまとまりも発展もなく考える、そして、私はそういうことをもっと簡潔に、相手を混乱させないような聞き方で、韓国を知る人に質問してみたいと思っていたわけだ。

ちなみに彼女に、「日本でいう新入社員の劇みたいな風習ある?」と聞いたら、韓国の大企業、LGやサムスンでは会社ごとにダンスが決まっていて、新入社員はそのダンスを覚える、下らない伝統だと思いつつも、大企業に入ること自体が難関なので、みんなその立場に優越感も感じているはず、という話をしてくれた。)

 

 異文化交流といえば、先月観た冨田克也監督の『バンコクナイツ』を思い出す。面白いところもたくさんあるのだが、映画全体としてはあまりに負の断点が多すぎて楽しめなかった。

バンコクナイツ』には作中ではっきり伝えたいことがある。その問題意識は面白いけど、その要約があれば満足というか、作品の方は単に問題意識のネガでしかないと感じてしまう。だから監督の冨田克也は自分にとって、インタビューや書きものには興味があるけど、作品そのものにはそれほどの魅力を見出せないというタイプの作家だ。*4

いろいろな要素が絡むのだが、作中で一番興味深いテーマを約言すると、『片方がもう片方の顔を札束ではたく、それ以外のやり方で文化交流をするにはどうすれば良いか』である。映画の後半でタイの田舎、イサーン地方が出てくるが、撮影班は、現地の人たちにぽんとお金を渡して撮らせてくれと頼み、家にずかずか入る、といういかにも普通のドキュメンタリー的手順を踏まない。話を冒頭のトピックに繋ぐなら、そうして撮られた現地の人々はみな「手ぶら」で「ぎこちない」はずだ*5。『バンコクナイツ』のスタッフたちは、同じ地域で何週間も生活し、打ち解けてきたところで初めてカメラを向ける。こういう手法は掛け値無しに素晴らしいし、その打ち解けた空気を画面に捉えるという試みも実を結んでいると思う。

 

異文化交流という言葉に引っ張られて思い出しただけで、日本人と韓国人の友人関係は、タイの村落にカメラを入れるとか、落書きを美術館に所蔵するとか、そういう文化搾取になりうるものとはまた別で、基本的にもっと水平的なものだと思う。ただ、どんな交流も、沖縄問題のように力関係が働いている背景や、相手の言動をナショナリティや育ちに還元してしまう危険について意識的でありたいよね、という話です。こう書くと当たり前に聞こえるけど、気を付けていてもできない時がある。

最後にこの夏延々聴いてる韓国のアーティストの曲を貼っておきます。

DEAN - love ft. Syd - YouTube

 

 

love (feat. Syd)

love (feat. Syd)

  • DEAN
  • R&B/ソウル
  • ¥250

 


 

*1:濱口竜介感…

*2:人間の俳優は50回、100回と舞台を経るうちに洗練された無駄のない動きになるが、そのぶん新鮮味やリアルさは失われることを、ロボットに演劇をさせる研究で定式化したり、体操選手が難度の高い技を習得するとき、体の動き以外に、天井や床の見え方も含めて記憶するが、それが演劇の稽古でも起こるーー普段見えている小道具を隠すだけでセリフが出てこなくなる、等いろいろ面白いことを言っています。

*3:綿矢りさの『かわいそうだね?』ですね

*4:自分にとってはtofubeatsも似たような存在だったりする

*5:濱口竜介感…②