マジのガチで誠実なフェミニズム入門(あるいはリベラル批判)

 

* 記事を書いたきっかけ・序文(1/7)

 

この記事を書くきっかけとなったのは、フォロワーのこんなツイートだった。

 

フェミニズムと、表現規制反対って同居出来んのかな?矛盾した主張になるのかな?

 

原文まま。目に入ってすぐ、「同居できるよ!当たり前だよ!」そう言いたくなったが、特に知識がない状態でSNSを見ていると、自称フェミニストの過激な発言ばかりがクローズアップされ、フェミニストのことを表現規制の代弁者だと勘違いしてしまうのかもしれない。それは完全に間違っているのだが…。

 

社会や政治、ジェンダー、エロ、アカデミア等々、インターネットでは日々新たな論争が起きている。その端々を見ていて毎回目に余るのが、自分の気に入らない陣営から一番レベルが低い発言を引っ張ってきて、「こんなとんでもないことを言ってるぞ、やっぱり敵は卑劣な集団だ」と宣伝し合うあの晒し合いである。本当に意味がない。生産性がない。

この記事では、槍玉に上がりやすい誤解や過激な発言について、具体的なログを掲載しないまま話を進めていく。そこには、不毛な晒し合いに加担しない、燃料を投下しない、という意図がある。

 

もしあなたが、天皇制や軍事を重視する保守派なんて低レベルなネトウヨだけだと考えているなら、それは程度の低い言説ばかりを拡大して見てきたことを意味する。反対に、リベラルと呼ばれる人々について、何もかもに反対するクレーマー、あるいは韓国や中国の支援者だと感じているなら同じことだ。

フェミニズムについても似たような状況がある。女のわがまま、男性差別、あるいは表現規制の代弁者......フェミニズムが極端にネガティブなイメージを背負わされているとすれば、その裏側には女性蔑視を振りまく人々の戦略がある。

 

 

本記事では、こんな読者を想定している。

  • フェミニズム表現規制等について、自分の中にはっきりとした価値観が形成されないまま、偶然目にした差別に心を痛めたり、過激な主張をする自称フェミニスト(いわゆるツイフェミ)に面食らったり、という体験を繰り返しているSNSユーザー。
  • 「夫(彼氏)や上司の発言、社会の仕組みに何だかモヤモヤしたものを感じるが、どう反論すればいいのか分からない。フェミニズムについてはよく知らないが、私の助けになるかもしれないから知識を広げたい」という女性たち。

 

このような読者の判断を助けることができればたいへん嬉しく思う。また、不毛な論争に巻き込まれたときに、URLを貼れば少しはマシな議論に引っ張りあげられるような記事を目指している(ごく基本的なことしか書いていないが)。

さて、前置きはここまでにして、フェミニズムについて、表現の自由について(後日公開)取り上げていく。

 

 

* フェミニズムってそもそもなに?(2/7) 

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ダービーのコースに身を投げたエミリー・デービソン

まず断っておかなければならないのが、フェミニズムとひと口に言っても内実は多様なものだということ。問いをひとつ放り込めば、解答をひとつ返す簡単なプログラムではない。

フェミニズムの前身には参政権運動が中心の女性運動があり、その起源は百年以上前に遡る。欧米を中心に、二十世紀の初頭から参政権を徐々に獲得したあとで、一九六〇年代に女性解放運動(ウィメンズ・リベレーション、略してウーマンリブ)運動が起こる。フェミニズムという呼称が定着したのはこの頃である。

かなり大雑把ではあるが、この記事では、フェミニズムにおける重要なポイントを二点に集約させて解説する。

 

(a) 女性の社会進出、社会における地位向上
(b) 男性中心の社会そのものに対する懐疑、批判

 

(a)は、一般的にリベラル・フェミニズムと呼ばれるもので、フェミニズムと聞けば多くの人がイメージする現在の主流派である。男女平等という理念の実質的な定着を目指し、法律や政治の改革、教育等に努める。

(b)は、ラディカル・フェミニズムのエッセンスといえる理念である。ここで言う"ラディカル"は、"過激な"ではなく"根源的な"と取ってもらいたい*1。(a)とは違い、こちらは女性が参政権を獲得し、労働市場にも進出したあとにスタート地点をもつ。つまり、制度上の不平等を解消したはずなのに、いまだに不当な差別が残っているのはなぜだろう?という問いが核になっている。


(a)のリベラル・フェミニズムは理解しやすい。「政治もお金も決定権も、男だけが独占しているのはおかしいんじゃない?」という問いかけは、多くの人にとって正当なものだからだ。運動としても、間接民主制を通して政治、法律を変えて、女性の地位を向上させようという内容なのですんなり受け入れられる。

ただしリベラル・フェミニズムは、参政権や決定権、お金等々、すでに存在している社会的な特権をどんな風に配分するかを問題にするので、社会の構造そのものを疑う、あるいは社会を大きく変える射程を持ち合わせていない。じっさい、制度上の平等を得てもーー参政権を獲得しても、男女雇用機会均等法男女共同参画社会基本法を作って思想を制度の上に流し込んでみてもーー歴然と女性が不利な状況は変わっていない。そこで(b)のラディカル・フェミニズムが登場するのだ。

では、社会の構造を疑うフェミニズムとはいったいどんなものだろうか。

 

もう片面のフェミニズムとは?(3/7)

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ここで最近話題のkutoo運動を取り上げ、(b)のフェミニズムが一体どんな思想なのかを解説したい。

私はいつか女性が仕事でヒールやパンプスを履かなきゃいけないという風習をなくしたいと思ってるの。
専門の時ホテルに泊まり込みで1ヶ月バイトしたのだけどパンプスで足がもうダメで、専門もやめた。なんで足怪我しながら仕事しなきゃいけないんだろう、男の人はぺたんこぐつなのに。

引用元*2twitter: @ishikawa_yumi

 

はじまりは今年の一月、石川優実氏のこんなツイートだった。どうして足を痛めてまでハイヒールを履くのがマナーなの?という苛立ちは多くの女性たちが抱えてきたものである。metooに倣ってkutooと名付けられたその運動は大きな支持を獲得し、二万人近い署名を集めることとなった。しかし、署名に対し厚生労働省が示した公式見解は、事務的で殺風景なものだった。具体的な文言は以下。

 

女性にハイヒールやパンプスを強制する職場があることに関し、根本匠厚生労働相は5日の衆院厚労委員会で「社会通念に照らして業務上必要かつ相当な範囲かと思います」と述べた。*3

 

思わず脱力してしまう回答である。落ち込んだり、怒りを覚えたりしたあとでいい。この現状をどのように変えればいいか、考えてみよう。前述の(a)、リベラル・フェミニズムが示す方向はおそらくこのようなものだ。

由々しき事態ですが、物事を少しずつでも変えていきましょう、あんな風に差別的で、著しく合理性の低いことを言うおじさんを丁寧に説得しましょう。まずは間接民主主義で代表を立て、選挙を戦い抜き、徐々に女性の声を反映させてゆきましょう、云々。

この涙ぐましく、気の遠くなるような努力はおそらく生存戦略として正しい。というか、大臣の紋切りを借りるなら、“社会通念”上の問題が少ない。

つまり、署名を集めて提出したり、デモをやったり、仲間を募ってみんなでペタ靴出勤したり、あるいは「ワシの答えはこれや」と火炎瓶を投げたりするより穏当な方法である。
だが、穏当なやり方、ルールに則ったやり方で現状を変えたくても、現行のルールが作られるプロセスに女性はいなかったし、変える場にも女性が参入しづらい。そのために女性を軽視した制度が再生産されていく。
その意味で、大臣の答弁はこんな風に書き下すこともできる。「署名なんか持ってこられても強制力はない、言いたいこと、実現したいことがあるならルールを守って、社会通念に則って主張してくれ」という制度からの解答である。

では、その制度に対し、こんな風に言い返すのはおかしなことだろうか?

「あなたがたの作りあげてきたこのルールが、社会通念がそもそもおかしいのだ。しかも、それを変えられるだけの地位に女性を送り込むことがいまだに難しい。だからわたしたちはルールや社会通念そのものを疑っているし、その外からの抗議も辞さないのだ」と。

 

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香港のデモの様子。CNNより。

 

余談だが、六月に勃発した香港のデモは、制度の外側から物事を動かそうとする好例(実際に結果を変えられるかはまだ分からないが)である。

ああいうことが起きると必ず、「デモも暴力もよくないだろ、言いたいことがあるならルールを守れよ」と言う人々があらわれるが、そのようにモラリストを擬態するのは、第一に強者たちだ。現行の社会通念が自身の利害に合致しているので、変える必要を感じない人たち。彼ら/彼女らの「ルールを守れ」は、要するに「いまの制度で得しているから変わってほしくない」の言い換えである。

第二に、もっとずっと面倒なのは、ルールや制度を変えた方が自分たちにとっては得なのに、変える運動には絶対反対、という人たちだ。いったいどういうことだろうか。ここで想定しているのは、制度の抑圧に耐えているからこそ、強いられた枷から外れた他人を罰してしまう人である。

従順であれ。空気を読め。男らしくあれ。若いころの苦労は買ってでもすべし。様々な社会通念、ルールで抑圧されている人々は、そのおかしさに内心では気づいている。だが、苦しみながらそれに耐えているからこそ、我慢をやめた人々を見ると「そのくらい我慢できないようじゃ駄目だ」と、自身の助けにもなりうる意見を退けてしまうのだ。それは今まで自分が耐えてきた時間が無意味だと言われることへの恐れ、何を信じてよいか分からないという不安のあらわれで、利害や論理を超えた拒否反応である。

制度が変わると得をするのに、いまの制度を支持してしまう人たち。これ以上深入りはしないが、世の中を変える上でいつも立ちはだかる障壁がここにある。

 

 

ラディカルなジェンダー論(4/7)

 

閑話休題。今年の年度はじめ、上野千鶴子氏が東大の入学式の壇上に立ったことは記憶に新しい。

www.u-tokyo.ac.jp

 

すばらしい祝辞*4に勇気づけられる一方、ふだん"リベラル"と呼ばれる人々が彼女へ喝采を送る光景にはやや皮肉めいたものを感じる。

なぜかというと、上野千鶴子氏は、選択的夫婦別姓には反対*5であるし、同性婚も応援していないし、パックス制*6のようなパートナーシップ制度にも反対、そもそも結婚制度を批判していて、信頼できる知人が出たとき以外は選挙に行かない、と公言している人だからだ。

 

それぞれの主張に確固たる理由、信念があるのだが、こんな風に聞けば、"まともで教養ある"人々は驚くだろう。「なんで?フェミニストなら、というかまともな人なら、同性婚にも夫婦別姓にも賛成するものじゃないの?それに、選挙へ行かないってどんな理由でもアウトじゃないの!?」と。

しかも上野千鶴子氏は、こんな風に困惑するリベラルに冷や水を浴びせて楽しんでいる節があり、いっそう話がややこしい。かつて、「嫌いなものはなんですか?」という問いに、「結婚しているフェミニスト」と挑発的な回答をぶつけて炎上したこともあるくらい。もう少し噛み砕いて説明すると、こうしたアジテーションの裏には、

国家権力が婚姻という制度で異性愛カップルだけに社会的・経済的な特権を与え、個人のセクシュアリティを管理すること自体に反対。生涯一人の人と添い遂げます、他の人と交際もしません、というカップルは趣味でやればよい。ただ、そんなロマンティック・ラブ・イデオロギーは本質的なものではなく、歴史的にはごく最近構築された人工物に過ぎない。同性婚もパックス制も、異性愛カップルというモデルを標準化して、他を無理やり合流させる制度なので反対。

という主張があり、そこまで聞けば、賛成か反対かに関わらず、要旨の理解はできるのではないだろうか。

 "差別"や"男女平等"という概念を、平凡なリベラリズム的方程式に放り込むと「差別をなくそう」「平等を目指そう」を導くのかもしれないが、根本的なフェミニズムはもっと複雑な回答を返してくる。おおよそこんなところ。

 

「差別って言うけど差異って何から生じるの?男女って概念がもう社会的な人工物だよね。平等は何における平等?社会的なリソースにおける平等だとしたら、平等という概念自体が社会〜国家権力に包摂されているから、権力の歴史を紐解くところから始めないと…。」

  

 

性と社会について(5/7)

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千葉雅也氏。文春オンラインより。

ジェンダー論へ話がスライドしていくが、性と社会の関係でいえば、近年同性婚が大きなイシューとなっている。この辺については、千葉雅也氏の発言が示唆に富んでいるのでいくつか引用しておく。

哲学者であり、同性愛について当事者として語る彼は、「同性婚よりもパートナーシップ制度の方が望ましい」という旨の発言を繰り返している。

日本で同性婚がどうなるかはわからない、天皇制があるからね、という話もあった。ならむしろ、その制約があるからこそ、同性関係は婚姻じゃなくパックスみたいな方向に持っていけるかもしれない。浅田さんも僕も結婚制度自体を批判している。

引用元*7twitter: @masayachiba

当事者だからとくに同性婚のことを言ってるけど、言いたいのは、セクシャリティを問わず、婚姻というものと国家や資本主義や道徳との関係は様々に問題含みだということです。

引用元*8twitter: @masayachiba

 

少し脱線するが、もしあなたが、まともで教養ある人間であれば同性婚夫婦別姓を支持するのは当然だと感じていて、多数派ではないにせよこのような意見に面食らうのだとしたら、物事の半面しか見ていないと言わざるを得ない。

かつてトニ・モリスンは、「あまりに多くの運動や団体が、計算づくで黒人を仲間にしたいと申し出、最後には黒人を足蹴にしてきた」と語ったが、今やその座にはLGBTが加えられ、諸々の運動を正当化するために駆り出されている。

いま、同性婚は政治対立の表面的な道具にされていると思う。政権側においても、政権批判側においても。本来の、同性愛者がいかに豊かに生きるかという問題から実は離れたところでこのイシューが政治的踏み絵みたいにされているということに、腹が立ちます。

引用元*9twitter: @masayachiba

 

一応断っておくと、婚姻制度そのものを批判するのはフェミニズムジェンダーの論者のなかでも少数派である。ただ、セクシュアリティジェンダーについて掘り下げていくと、ある程度当然の帰結としてこのような見解が出てくることは示しておきたい。

 

しかし、友人たちとの関わりのなかで「同性婚反対の当事者もいるよ」と言うと、それだけで差別主義者だと誤解されることも多い。そう判断する人の頭には、同性婚に賛成しないやつ=ただのホモフォビアで、無理やり反対の論拠を作っている、という等式が浮かんでいるのだろう(じっさい九割はそうなのかもしれないが)。

また、せっかくマイノリティで共闘しようとしてるのに水を差すなよ、と言う人もあらわれる。実際にそう言うノンケを見てびっくりしたこともある。

しかし、マイノリティとはたんに"マジョリティでない"だけの括りであることを忘れないでほしい。積極的な共通点などなにもない、ごちゃ混ぜの集団なのだ。だからこそ、マイノリティが連帯して巨悪を(自民党を?)倒すなんていう絵空事を見かけると、マーベル映画の観すぎではないかと思う。

 

参院選が近いので選挙についてもちらっと意見を書いておくと、各々勝手にやって、まあ希望が通ればいいけど、くらいの気持ちでいるのが健康的ではないだろうか。あの知識人は選挙に行かなかったらしい、野党共闘を邪魔しているらしい、あいつはもうダメだ、みたいな魔女狩りはやめましょう。民主主義や選挙に誰も彼もが希望を持っているわけではない。

自分はというと、いちおう選挙は行くし自民党に入れるつもりもないのだが、投票しながら毎回、選択肢のなさに唖然としている*10

 

 

 

身近なレベル1の質疑応答(6/7)

 

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田村由美『ミステリと言う勿れ』の一ページ。

フェミニズムについて、「女性の社会進出を訴えつつ、社会の構造に懐疑的であること」と序盤で定義したが、世間的な反感を思えば、フェミニストを自称するのはなかなか勇気がいることではないだろうか(自称すべきだと思っているわけではない)。この章では、なぜフェミニストを名乗るのは勇気がいるのか、世間的な反感とはそもそもなんなのか、わかりやすく説明していきたい。典型的な発言をふたつ取り上げる。

 

 

例. 「モテる女(いい女/美人)はフェミとかセクハラとか言わない、フェミニズムはモテない女(うるさい女/ブス)の僻み」

 

こういう発言は、その人が話しているというより、制度そのものが誰かの口を借りて喋っているのだと思った方がいい。話者は制度のプログラム通りに動く単純なbot

発言の背景には、女の価値は「モテる=男に選ばれる」ことで完成するもの、仮に仕事で成果を挙げ、悠々自適に趣味を楽しんでいても、男に選ばれなければ女としては二流だ、という価値観がある*11。正確には、二流であってほしい、男が女の価値を決定権を握っておきたい、というところか。

女性たちはこれまで、法律や政治など社会の枠組みを作る中枢に携わろうとしても、その社会の枠組みそのものが女性排除を含んでいるせいでなかなか近づくことができなかった。そして中枢に近づくほど、かわいげがない・女らしくないなどの言葉で、女として扱われなくなっていった。その歴史を思えば、「フェミニストはかわいくない」と言う人は、「かわいくて女らしい」=「従属的で男の利益に適う」女性、すなわち自分にとって都合のいい女性像を推しているだけである。

なので、「モテる女はフェミとかセクハラとか言わない」に対する返答は、「あなたにモテなくていいのでほっといてください」。

 

 

例. 「私は女だけど、セクハラとかフェミとかうるさく言い出したら仕事にならない」

 

これも制度そのもの。「女は妊娠・出産で休むし、生理で体調にムラが出るし、感情的だし下ネタも嫌がるから仲間に入れたくないけど、お前は(男と同じように扱えるから)別だよ」という態度のもとに迎え入れられた女性のことを名誉男性という。

名誉男性は、うまく差別の構造に組み入れられ、他の女性と一線を画す立場で得をしていると考えられるので、この手の発言は、自身の利益を守り、差別の構造を再生産するポジショントークである。

kutoo運動に際しても、「職場の美人は(あるいは美人なわたしは)ハイヒールを美しく履きこなしている、それができないブスたちが騒いでいる」系のツイートをいくつか見かけた。

ちなみに黒人差別・奴隷制が当たり前だったアメリカの農場では、「黒人の使用人どもはまったく信用ならない、けどお前だけは別だよ」という語り口で名誉職をもうけ、他の黒人を監督させるのは常套手段だった。とにかく普遍的なやり口なのだ。手を替え品を替え差別の再生産をやっている。

そんなこんなで、「私は女だけど、セクハラとかフェミとかうるさく言い出したら仕事にならない」に対する適当な返答は、

「(恋人の有無とか下ネタとか、セクハラ的な内容をわざわざ話さなくても仕事はできるんだけど、大抵の女が嫌がることを嫌がりませんという態度を武器にこの人は男社会をサバイブしてきたから、こういうポジショントークが出るんだろうな。それか、セクハラに耐えるのがしんどいあまり、そこに意味を見出して、セクハラに耐えてこそ社会人!耐えられないのは二流!みたいな規範を内面化しちゃってるのかも。本人も内心つらかったりして。まあ本当のとこは分かんないし深入りせんとこ。)………そうすか!!」

こんな感じではないか。括弧内は、よほど信頼関係がないかぎり言わない方がいい気がする。他人を改宗させるのは大変で、無作法になってしまうことも多い。

 

= = = = = 

 

おおよそこんな相場感。フェミニズムにつけられる難癖の大半は、制度のプログラムどおりに作動するbot的発言、あるいは利害計算のエラーなので、世間なんてその程度だと思っておけばいい。気の持ちようひとつで解放されるほど簡単なものでもないが…。

また、いま挙げたような単純な敵意の発露とはまた違う、素朴な疑問があらわれることもある。
ジェンダーをあれこれ論じたところで、セックスは強固にあるじゃん、性器や染色体ではっきり区別できる→*12

「男と女はそもそも体の構造が違うんだから、全てを平等にしろってのはおかしいんじゃない?→*13

例えばこんな。ただ、フェミニズム現代思想と結びつき、様々な理論を練り上げてきた歴史があり、こういうレベル1の発言に対する応答は何億回もやってきている。だから誰かがその場で思い付いた批判や矛盾の指摘がクリティカルに作用することはありえない。これは明確に権威主義だが、素朴な疑問に対する答えが欲しいなら勉強するしかない。

 

この記事の誠実さは、フェミニズムについて「女性の社会的地位向上です」という聞こえのいい片面だけを言って終わるのではなく、「社会の根本を疑う射程がある」という裏面まできちんと語るところにある。読者の足場を揺るがせ、疑心暗鬼にさせることを目標としている。

なぜならフェミニズムは(というか哲学や思想は)、どう生きていけばいいのか道筋を教えてくれるようなものではないからだ。偏見や思い込みを次々に打ち砕き、荒野に放り出すものだからだ。

新しいことを知る、あるいは勉強するという行為は、それまで当たり前に頼っていた自分の中のプログラムにたどりつき、自らのコードを書き換えていく行為である。しかし、書き換えるためにはなにをすればよいのだろうか?どんなことを知ればよいのだろうか?最後の章でその問いに応えておきたい。

 

 

読書ガイド(7/7)

 

話がずいぶん遠くまで来てしまったが、冒頭で想定していたのはこんな読者たちだった。

 

  • フェミニズム表現規制等について、自分の中にはっきりとした価値観が形成されないまま、偶然目にした差別に心を痛めたり、過激な主張をする自称フェミニスト(いわゆるツイフェミ)に面食らったり、という体験を繰り返しているSNSユーザー。
  • 「夫(彼氏)や上司の発言、社会の仕組みに何だかモヤモヤしたものを感じるが、どう反論すればいいのか分からない。フェミニズムについてはよく知らないが、私の助けになるかもしれないから知識を広げたい」という女性たち。

 

 

わたしが「こんな読者の助けになりたい」と感じている人たちである。しかし現状では、こんなふうに「フェミニズムってどんなものだろう?」と素朴な疑問を抱く人たちに門戸が開かれているとは言いがたい。

フェミニズム入門本はありそうでなかなかないし、入門に適した本が『フェミニズム入門』という探しやすいタイトルで棚に書店の棚に収まっていることはまずない。

上野千鶴子氏が「統計的に"フェミニズム"がタイトルに入ると売れない」「統計的に見て女は本を買わないし読まない」という話をしていたが、そのような事情も関係しているのかもしれない。 

 

"フェミニズム 入門"と検索して一番上に出てくるのは、ちくまから出ている大越愛子氏の新書、『フェミニズム入門』である。二十年以上前の刊行。

冒頭で、フェミニズムをとりあえず「女性の自由・平等・人権を求める思想」と示してくれるのは親切だが、すぐに「フェミニズムは近代自由主義思想への憧憬にはじまり、マルクスエンゲルスやミルの理論を武器とするがその構造的欺瞞に気付き、男性中心の原理による主体形成の虚構性を暴くため…」という解説に入ってしまい、素朴な興味から入った読者が一瞬で挫折する図が目に浮かぶ。

内容的にはここで、ロクサーヌ・ゲイの『バッド・フェミニスト』ーー「フェミニズムの歴史を実はよく知らないし、男は好きだしピンクも好き、そんな自分でもフェミニストとして生きていく」というエッセイーーを挙げられればよかったのかもしれないが、翻訳がとんでもなくひどい(あまりにひどくて出版社にメールした)のでお薦めしない。

本記事では、入門に最適な本として二冊、+αでもう二冊を挙げておく。

  

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

話題の韓国文学。韓国では百万部以上(!)を売り上げ、ここ日本でも、海外文学としては異例の大ヒットを記録している本である。身の回りの女の子たちが口々に「涙なしに読めない場面がいくつもあった」という切実な感想を伝えてくれている。斬新さや実験的な試みがあるわけではない。だが、「今までうまく言えなかったモヤモヤを言葉にしてくれている」という意味で、多くの女性にとってこれ以上ない入門書ではないかと思う。

 

女ぎらい (朝日文庫)

女ぎらい (朝日文庫)

フェミニズム入門としても、上野千鶴子入門としても最適な本。男たちの部活的でホモソーシャルなノリについて、婚姻制度の歴史について、男の値打ちがなにで決まる(ことになっている)かというと、何よりも男からの評価であり、もし女からの評価を得たければ、地位や名誉、富などをめぐる男の間での覇権ゲームに勝ち抜くことが一番の王道である。女はあとから自動的についてくる──という旧来の価値観について、明快に解説してくれる本である。扱うトピックが幅広く、学術的な背景についてもわかりやすいタッチで示してくれる。最近文庫化したので財布にも優しい。

 

実践するフェミニズム

実践するフェミニズム

時代性やアクセスのしやすさでいえば一段落ちるものの、牟田和恵氏の『実践するフェミニズム』も親切でバランスのいい良書なのでお薦めできる。セクハラに悩まされている人には特に推したい。

 

フェミニズム (思考のフロンティア)

フェミニズム (思考のフロンティア)

もっと専門的な思想的背景が知りたいという人は、岩波から出ている竹村和子氏の『フェミニズム』を薦めたい。ただ、読むためにはラカンフーコー、バトラーなどの現代思想についてある程度知っておく必要があるうえ、それらを"知っておく"ためだけに、現代思想の入門からなにから数十冊読まなくてはならないのでぐっとハードルが上がる。

もっとポップで負荷の少ない読書としては、上野千鶴子の対談本がどれも易しくておもしろいので、そういう景色が楽しい裾野を進んでいくのがいいかもしれない。

 

自身の体験に照らせば、フェミニズムにまつわる読書の面白さは、幻想が次々と打ち砕かれていくところにある。何よりもショッキングだったのは、一夫一妻・夫婦は愛によって結ばれる・浮気は厳禁という考え方は今でこそ一般的だが、歴史を辿ればごく限られた地域と階級の嗜好に過ぎず、せいぜい二世紀しか歴史がない*14ことだ。

他にも、レイプは性欲を制御できずにやるものだとか、自慰はモテない男のやることでセックスの回数とトレードオフだとか…。ページを繰るごとに、今まで当たり前だと思ってきた、というか、意識すらしていなかった前提が崩れていく。根源的だと感じてきたもの、たとえば異性愛や母性のようなものですら、特定の制度を前提にして作動するものだという知見を得る。おもしろい反面、足元が揺らぐおそろしさがある。

そのように歴史やデータを紐解いていくと、制度や社会構造にとどまらず、日常的な皮膚感覚に至るまでが男性的な権力を反映していて、男性によって記述され、男性にとって都合のいいように作り変えられてきたことが少しずつ分かってくる。しかし、これは男に悪意があるという話ではないし、男vs女という構図を作りたいわけでもない。社会の居場所として与えられる"女"とは、翻って”男”とは一体なんなのか、立ち止まって考え直してみませんか、と疑問を投げかけるのがフェミニズムである。

 

= = = = =

 

最後に。いまはフェミニズムというと低レベルな差別発言だの表現規制だの痴漢冤罪だのが踏み絵にされることが多く、仮想敵は素朴な女嫌い、あるいは昭和のクソジジイ的なものが多い。ただ個人的には、今後の仮想敵はそんなイージーな保守(?)ではないと常々感じている。

個人的な未来予想だが、この先十年、二十年で、小泉進次郎、落合陽一的なものが政治の中心に進出する、AIによる合理化や最適化を推進する、末端ではAI活用と言いつつ、社会的に構築されたものを本質論のように語りはじめる、男の方が出世しやすい=男の方が優秀だとAIが判定しました、という連中も出てくる、合理化を進めていくと、妊娠出産は労働においてハンディなので、男は働き女は家を守るという旧来の体制には一定の合理性がある、などの論理で身分制を固めようとする…という流れを想像している。

冒頭で書いたように、インターネットでは、論理的にワンパンで終わる、簡単に叩けるネトウヨ的なものばかりが拡大されがちだが、本当の仮装敵がいるとすればネオリベであり、過度な合理性の追求であり、そこから生じる身分制ではないだろうか。

 

= = = = =

 

追記

次回は表現規制について書くので、興味のある方はお楽しみに。フェミニズム表現規制という誤解されがちな点について書くつもりでいます。書けたらtwitterでお知らせします。→@leoleonni

*1:wikiを見ると、ラディカル・フェミニズムの端的な特徴としてポルノ規制が取り上げられているが、今まで牟田和恵や上野千鶴子で読んできたラディカル・フェミニズム像とは全く違う。wikiが偏っているのか、今まで読んできた著者が偏っているのかよく分からないので、詳しい人は教えてください。

*2:https://twitter.com/ishikawa_yumi/status/1088410213105917952

*3:パンプス着用、社会通念で 厚労相、容認とも取れる発言 / 答弁の前後で、「当該指示が業務上必要かつ相当な範囲を超えているかどうかがポイント。例えば足をけがしている労働者に必要もなく強制することはパワハラに該当しうると思います」という発言もあるために、パンプスの積極的な容認ではないという解釈もあるらしい。たしかに積極的ではない。しかしこの答弁を読んで、「事実上の容認ではない」と主張するのはかなり不思議。

*4:冒頭で、「男子受験者の方が女子よりほんの少し合格率が高い(比率は1.03)」という状態を問題視しているが、年代によっては1を下回ることも多いようで、数値の見せ方に恣意性を感じた。ただ、その他は祝辞として素晴らしい内容ではなかろうか。

*5:世紀の変わり目くらいまでは、あらゆる著作で「選択的夫婦別姓=進歩的で男女平等だという考えは短絡的」と主張しているが、彼女の仕事がケアの方へ行ってからのことはよくわからない。ここ十年くらいは学術会議の一員として選択的別姓を認める活動もしていて、はっきりした転向があるのかもしれない。

*6:https://ja.wikipedia.org/wiki/民事連帯契約

*7:https://twitter.com/masayachiba/status/1054398091770585095

*8:https://twitter.com/masayachiba/status/1024295118675763200

*9:https://twitter.com/masayachiba/status/1024690669581824000

*10:これを読んで「じゃあ選挙出れば」と思う人は、国語力がやばい自覚を持ってください。この記事では、民主主義や選挙が全てではないという話をずっとしています。クソリプ避雷針の註。

*11:とはいえ、男だって四十で未婚だと「どこか問題ある人なんだろう」と思われるのが現状なので、男女ともに降りるべき幻想ではある。

*12:前世紀的!!ジェーン・スコットやバトラーを読んでくださいと言いたいがこういうことを言う人はたぶん読めないので、まずバトラーの解説書を開いてみて、それも難しかったら現代思想の入門書から頑張ってみてください。

*13:その体の構造っていうのがね…(ひとつ前の注にもどる)。「全てを平等に」はこの記事で藁人形気味に批判しているリベラル・フェミニズムの考え方なので限定的。現在の社会的な不平等が解消されるまでは、差異を認めることが差別の正当化につながってしまう、という生存戦略もある。別に何もかもが社会的な構築物だと言いたいわけでもないのだが…。サイバーフェミニズムやポストヒューマンのフェミニズムでも読んでみてください。

*14:これはフェミニズムというよりは、フェミニズムが前提にしているフーコーの仕事

日記・雑記(3) ワンピースってどこがおもしろいの?と聞かれた話

<中学の教室っぽい話がしたい>

最近友達から、「ワンピース好きなの?意外!田舎のヤンキーが好きなイメージしかない。絆とか、友達(ダチ)とか、地元とか言ってる人のイメージしかない」と言われて、いやいやいや、めっちゃおもしろいからね!!!!!とその場で解説する回があった。

 

 

その話をなぜ日記に書くのか。本来自分がTwitterに求めているのは「中学の教室」なのだ*1が、最近のインターネットは、Twitterに限らず政治の不祥事や強姦の無罪判決などで牧歌性が失われており、中学生が昼休みにするような話が圧迫されている気がするから。ということで、特に深い意味はないけど、中学の教室でやってそうな話をします。ワンピースのどこがおもしろいのかという話。

 

 

<ワンピースのどこがおもしろいのか>

 

1/3  世界設定のおもしろさ

ワンピースがどういう漫画なのか、自分流に要約するとこんな感じ。

 

舞台は、警察組織や国家連合を傘下に置く、巨大な権力が統治する世界。現行の権力が覇権を握った七百年ほど前、書物や記録のほとんど残っていない"空白の百年"が存在する。しかし、使命を帯びたある一族が、決して破壊できない石に史実を記録していた。海賊たちはアンチ権力のアイコンとして点在する石碑をめぐり、現代世界の成り立ちを探る。実存的な不安を掘り下げる冒険譚。

 

 

……おもしろそうなファンタジーじゃないですか!?

「ワンピースって仲間とか友情とかそういうのでしょ」

というステレオタイプな見方は、実際にある程度そうなので否定しない。ただ、大河ものなので楽しみ方は多様であるし、話の大枠でいくと、隠された世界の成り立ちをめぐる冒険と言ってしまえる。ただ読者の多くは、謎解きのことを普段は意識せずに読んでいるはずで、自分としても、世界の謎をめぐる話だからおもしろいぞと言いたいわけでは全然ない。とにかく話作りがうまいのだと言いたい。

あと、「火影になる」「天下の大将軍になる」系の立身出世ではなく、アナキストの冒険であるところがいい。権力の欺瞞に対してわりと安全に石を投げられるのが心地いいのかもしれない。既成権力での立身出世話は、自分たちが属性として加害者であることについて常に内省を強いられるため、「すげー戦ってるけど大義名分あんのかな?」という感覚がつきまとうが、ワンピースは、戦いの動機にカラッとした気楽さがある。 

 

 

2/3 ディティールのおもしろさ

ディティールの織り込み方がいい。ひとつの島を例に挙げる。

主人公たちが訪れる島のひとつに、場所の定まらない、特定の海域を周遊する島があらわれる。しかしその島の正体は、海を闊歩する巨大な象なのだ。上陸はおろか、原住民の案内がなければ場所を特定することすら難しい、孤独な島である。そこでは毎朝象が海水をシャワーのように吹き上げて水浴びをし、住民たちはその水分から海産物を得るという奇妙な生活が営まれている。象は水底に足を付けて歩くため、足は異様に細長く、その胴体は雲の上に霞んでいる...。

冒険譚としての楽しみや、いくつものアイディアを感じられる設定だが、じつは元ネタにダリの絵画がある。

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この絵について簡単に解説をすると、強大な力を想起させる象と、ひ弱で細長い足を組み合わせる、さらに宇宙に浮かせる、というやり方で、力を相対化するモチーフらしい*2

ワンピースはこういう本歌取りによって奥行きを持たせるのが巧みな上に、画力の高さも相まって、ファンタジーとしてとにかく良質なのだ。ちなみに作中では、非常時に一瞬だけ象と意思疎通をはかる場面がある。そこで象は「命令されて」「罰として」海を歩き続けていると自己紹介する。誰が命じたのか、どんな罰なのかはこれからの展開に期待、という感じ。

加えて、ワンピースの見所は、どんなにイマジナリーな場所でも、その島の地理はかくかくで、産業はこれで、どんな風に経済が成り立っていて、こんな食文化や生態系がある、という暮らし向きを毎度細やかに紹介するところにある。言うなれば、観光編をきちっとやる。そこが素晴らしい。だいたいファンタジーなんて、「こんな場所もあるのかも」と説得されるために読んでいるようなもんなんだから。オベリスクを乗せたダリの象が海を回遊する、象は太古に受けた罰によって歩き続けている、そういう荒唐無稽なアイディアを、絵と話の作り込みで魅せる。

 

 

3/3 アイデンティティの描写

最近は物語が終盤に近づき、世界の一角を担う強大な海賊が出てくるのだが、世界最高峰のその海賊団は、船長を務めるひとりの母親と、その子供たちで形成された血縁集団である。

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強大すぎる母親の生命力を受け継いだせいか、子供たちには異常に奇形が多い。三つ眼、口裂け、多頭、首長、ツノ付き、巨人、書き連ねると百鬼夜行のよう。彼らは殺しや拷問も厭わないギャング集団でありながら、幼少期に見た目を笑われた経験までさかのぼってコンプレックスがあるため、繊細な一面を隠した敵としてあらわれる。

三つ眼の女は、愛のない政略結婚として嫁入りするはずが、前髪で隠した最後の眼を「なんて綺麗な瞳なんだ!」と認められたことで、花婿に惚れてしまい、計画に狂いが生じる。口裂け男は、裂けた口元を身内にもひた隠しにしているが、激しい戦いの最中でそれが露わになる。主人公は、敗北し横たわった彼の口元に帽子をかぶせて去ることで敬意を示す。誰でも知っているように、帽子は主人公ルフィのアイデンティティを示すものであり、裂けた口元と帽子の重なりには並々ならぬ重みがある…。

主人公一行は正面衝突ではまず勝ち目がないのだが、異形の者たちが抱えたコンプレックスにどう触れるか、という一点によって、すんでのところで命を救われるのだ*3。少数者のアイデンティティ描写については、挙げだすとキリがないくらい、作者がテーマとしている問題である*4

 

だいたいはこんなところ。どうだろうか?この紹介によって、読んだことのない人が興味を持ってくれる、あるいは、もう読んでいる人が何かを再発見したり、ほんとそれな〜と言ってくれれたりすると嬉しいです。中学の教室みたいな気軽さで。

 

= = = = =

 

追記

しかし考えてみると、ジャンプ漫画の話がしたいしたいと言いつつ、ではわざわざ友達に電話をかけるかというと、そこまでの事柄でもないから不思議。ジャンプの話は、話すべき用件というよりも、朝から晩まで同じ友人と顔を合わせて、用件が全て終わった、コミュニケーションが飽和した空間に析出する類のものなのだ。思えば中学の教室はそういう場所だった(よね?)。今は友人たちと顔を合わせても、仕事や家族、生活の話が上に来るのであって、なかば惰性で読んでいるジャンプ漫画の話になるまで、何もかも”話し終えて”しまうことはほとんどない。

「中学の教室」という概念を紐解いて、あの時間の何が特別だったのか考えてみると、話すべき物事に対し、話す時間が膨大にあったことに思い当たる。そのせいで、空気が抱えきれなくなった水滴が結露して現れるように、誰かと話をしていた。次の日には残らないような話を。

ところで、話が尽きたあとのグルーヴというと、中学の教室に限らず、同棲生活や深夜のラジオなんかを思い出す。あの程よい湿度を求める感覚は普遍的なのかもしれない。いやはや、最初はジャンプの話だったのに、いまいち関係なさそうなところまで来てしまった…。

 

*1:もともとTwitter @osicoman の発言。

*2:この説明はググって出てきたのを貼っただけ。

*3:そういう善悪の公正仮説でいくとちょっとつまらないが、残酷物語だとここまでは売れないのでやむなし。

*4:あと、昔から思っていることを書いておきたいのだが、ワンピースで描かれるLGBTには陽気なオカマしかおらず、差別的・画一的なので変えたほうがいい。

筋トレをして鬱になった話と、筋トレは虚しいという話

・筋トレをして鬱になった話

わざわざこんな記事を書く気になったきっかけはこれ。

 

mdpr.jp


 
常識的に考えれば、薬物やアルコールなどアディクトの影響下にある人について、「筋トレすれば大丈夫」と冗談めかして言うことは無理解で無神経だと思うが、圧倒的に支持されているようなのでモヤモヤした。精神的に悩んでいる、という人に、「ジム行きなよ」と返す、あの何もわかっていない人たちと同じ精神性を感じる。
 
だいたい、覚せい剤で大変だった頃の清原なんて筋肉隆々なのに悲壮感がすごかったし、イニエスタでもうつ病になるし、なぜ筋トレすれば解決するという言説が喜ばれるのかよく分からないが、バーの明るいオカマのようなイメージで、健全なキャラクター像をマッチョに投影するエキゾチズムがあるのだろう。
自分は筋トレに成功し、体重を大きく増やした時期にうつ病を発症した。仕事や人間関係の悩みが原因である(普通)。病気を前にすると、筋トレはもちろん、健康に気を使った生活や、もともとの明るさもほとんど無意味なのだと感じたので、薬物のアディクトに対してすら、「筋トレすれば大丈夫」がもてはやされる風潮は有害ではないかと思う。
 
 

・筋トレは虚しいという話

自分がなぜ筋トレ話をし始めたのか、という話をする。もともと痩せ気味の体型を気にしており、筋肉をつけたい、健康的な体型になりたい、と思っていたところに、昨今の筋トレブームとマーベル映画が重なった。キャプテン・アメリカを観ながら、「クリスエヴァンスまじかっこいいな…ためしに筋トレというやつをやってみるか…」と思い至ったのが去年の春ごろ。その後何をしていたかというと、筋トレに並行してターザンを1冊買い、信頼できそうなサイト*1 やYoutuberなんかを暇なときにチェックする。そして、

「筋肉痛があるときでもトレーニングしていいの?」
「空腹時のトレーニングで筋肉が分解されるって本当?」
ボディビルダーって減量期に有酸素運動やるの?」

などの初学者あるある的質問を思いつくたびにつぶしていく、という習慣を1、2ヶ月続けると、普通にやるぶんには充分な筋トレの常識が身についた。ファッション誌を3月連続で買うと、基本的なファッションや髪型の文法がわかって、4冊目からは表層的なチェックだけでよくなるみたいな感じ。
適切な量のトレーニング、食事、プロテイン摂取を続けた結果、体脂肪率は微減、半年で体重は7キロ増えた。同じ体重のボクサーを画像検索すると、ぱっと見るかぎりでは同じような体型をしていた。筋肥大の成果としては満足いくものだったといえる。

筋トレをやってよかったのは、

  • カロリーやタンパク質、ミネラル等の計算を通して、摂取する栄養に自覚的になれたこと
  • 今まで増えも減りもしなかった体重を変化させる術がわかったこと

このふたつに関しては、本当にやってみてよかったと感じている。25歳で初めて、健康を意識し、自分の体の変化に敏感な生活を送ることができた。

しかし、これは最初の1、2ヶ月でいったん身につければ、以後は筋トレを続ける動機になりえないものだった。前提として、筋トレは続けなければ効果がなく、何もしなければ筋肉はどんどん落ちていくものだ。

では、なぜ飽きっぽい自分に筋トレが続けられたのか?と考えてみると、筋トレのギミックに答えがある。筋トレはやればやるほどいいというものではなく、2、3日間の休養期間を挟んで行うのが効果的であるとされる。つまり、


筋トレをする→2、3日経つ→筋トレをする

 

というサイクルの繰り返しである。休養後、筋トレに適したタイミングは超回復期と呼ばれ、超回復期にトレーニングをすることで筋肉がついていく。しかし、逆にいえば、その時期を逃すと効果が大きく薄れてしまうのだ。

このギミックは、いま思えばソシャゲの報酬システムにそっくりだった。スタミナ溜まったからやろう、今日のクエスト来たから消化しよう、と同じ動機付け。あるいはログインボーナス。しかもソシャゲの報酬と同じで、現実に全く還元がなく、閉じた世界のものだった。

最初は体型が変わること自体に驚きや発見があり、自身の健康を見直すきっかけにもなった。しかし、変化を楽しむ段階、健康についての学びが大きい段階を過ぎると、きつい筋トレに対してのリターンは”筋肉だけ”になった。こう書くと当たり前のようだが、ふつう筋トレする人の多くは、筋肉そのものではなく、健康とかモテとかスポーツの結果とか、二次的な何かが目標で、べつにボディビルダーになりたいわけではないことを思い出してほしい。少なくとも自分の場合は、筋肉そのもののためにどれだけ頑張れるか?という問いに直面してやらなくなった。

筋肉をつけたところで、恋人も友達も褒めてはくれない(「なんか最近やってんなー」と思われるだけだ)し、健康の面でも、途中からは自己満足の世界に入る。このへんは、成果を見定めてくれるトレーナーの存在や、筋肉そのものではない二次的な目標(結婚式までに痩せる、◯◯山に登頂する、等々)があるかどうかで変わってくるのかもしれない。ただ、特にそのような目標のない人の筋トレは自己満足でしかなく、トレーニングが好きな人、修行が好きな人のためのものになりがちだと指摘しておきたい。


・まとめ

簡潔にまとめると、言いたかったのはこの2点。

  • 「筋トレは精神的な問題に対する万能薬である」とする言説は根拠がなく、精神的な問題を抱える人にとっては抑圧的なものとなりうる。
  • 体験談として、筋トレによって食生活や運動習慣の見直しなどポジティブな効果も得られたが、途中からはソシャゲ的な報酬の自己修練になり、モチベーションが維持しづらかった。



最後に、少しまえ話題になった羽田圭介氏のインタビューを貼っておく。引用箇所は全文同意。

 

――でも巷では、自己啓発系の筋トレ本やNHK『筋肉体操』などを通じて「筋肉は誰にも奪われない」「筋肉は裏切らない」といったフレーズが話題になったりもしています。
 
羽田 何もしなくても筋肉がつく人はそうでしょうけど、日本人の体質的には、筋トレは時間が奪われるものですよね。筋肉を維持するために、すごくいろんなものを犠牲にすることになる。食事とか時間とか集中力とか。やめたらすぐヒョロヒョロになっちゃう人は、もっとほかのものにエネルギーを割いたほうがいいんじゃないかな、と思います。それを本当に生きがいにしている人を否定はしないですけど、無理して中途半端に真似ようとするのはやめたほうがいい。「筋トレでメンタルが変わる」っていうのは順番が逆で、地味で苦しいことを続けられる人が筋トレをやっているだけです。

 

 

www.asahi.com

*1:https://www.rehabilimemo.com 非常に有用な情報源だと思います。ご存知なかった方にはおすすめです。

地理、水場、引越しなどについての日記


 
1/2
 
この春、いま住んでいる東京から福岡へ引っ越す。もともと生まれ育った京都が愛憎ありつつも好きで、ミーハーだから東京も好きで、それ以外ではじめて住んでみたいと思えたのが福岡だった。東京や大阪とは比べものにならないほどきれいな都心、外食産業の発達ぷり、海の身近さ。もっと直感的なところでは、建物が低く、空が広いのが嬉しかった。都心から地下鉄で11分のところに空港があるためだ。理由は違えど、景観条例で建物が低い京都の風景に慣れきっていて、いまでも空が狭いと落ち着かない。
 
 
京都にいたころ、冷泉家という貴族の屋敷で何年も働いていたから、福岡の街中に冷泉通りという街路を見つけたときは嬉しかった。大昔、福岡の沖で人魚が釣りあげられ、朝廷から冷泉中納言が派遣された話に由来しているらしい。微かなつながりでも喜ばしい。近くに祀られた人魚の墓もいい。その通りに近づくたび、京都の公家を、逸話のなかの人魚を、この地と自分との奇妙な縁のことを考えた。
 
 
いまはスペースワールドのことを考えている。福岡県北九州市に存在する/存在した遊園地。訪れる機会のないまま閉園したその場所は、ずっと車窓の向こう側のものだった。アナウンスで聞く「スペースワールド駅」という響き、ぐにゃぐにゃに折り曲がった絶叫マシンのコース、そのアイコニックなイメージが今でも記憶のなかに封じ込められている。だが2018年元旦の閉園以降、徐々に解体が進んでいて、このあいだ通ったときには、曲がりくねったコースはばらばらに寸断されていた。
それでも、と思う。それでもあの「スペースワールド駅」という名前は残るだろう。学芸大学駅みたいに。もの珍しい名前の駅は毎度必ず反対にあうが、ちゃんとした地理の裏付けさえあれば、なかなか味のある結果を生むはずだとつねづね思っている。
数十年後、何もない場所に佇むスペースワールド駅を想像する。
 
 
2017年刊行の本で何より素晴らしかったのは、椹木野衣の『震美術論』だった。この本のおもしろさを書き連ねるときりがないが、そのひとつに、被災地の地理に関する記述がある。
東北大震災のあと、もちろん過去の震災の記録に関心が集まった。そこで注目を浴びたのが、三陸海岸に点在する石碑群であった。それまで古びた文化財としか考えられてこなかった石碑が、実際にはその地方で歴史的に繰り返されてきた大津波の到達地点を伝える、歴史的メディアであったことが浮き彫りになったのだ。
また、2014年に起きた広島の土砂災害においては、いちばん被害の大きかった地域が、もともと「八木蛇落地悪谷(やぎじょうらくじあしだに)」と呼ばれており、土地を売るために「八木上楽地芦谷」に変更された、という説が紹介されている。
こういうことを考えだすと、なんでもなかった地名が、石碑が、名字が、示唆的なものとして光を帯びる。なんならヨドバシへ行くだけで水場の記憶が流れ込んでくる(電波!)。かつて大規模な浄水場が立地した、未開発な新宿の記憶。普段は意識しなくとも、固有名詞の中に残った微かなイメージを嗅いで生活していることをときどき思い出す。
 
 
1年住んだ江東区に思い入れがあるかといえばまだ分からない。ただ、「東京都江東区」につづく「海辺」という住所が好きだった。住所の響きで決めたようなものだった。海辺に帰ります、海辺の家に住んでいますと言うのは気分がよかった。ただ、じっさいに海の気配はなくとも低地で、水害のことが頭からはなれなかった。生活圏が2階までに限られていたから、寝るまえにはいつも悲観的な災害予測をーー4階の高さまで水に浸かるという試算をーー思い出した。タワマンに住んでいる人間だけが生き残るディストピアを想像してときどき冗談を言った。次に住むのは水害とは無縁の土地だから、水の夢にとらわれることもなくなるだろう。
 
そういえば、江東区に住んでいる友達はひとりしかいなかった。13階に住んでいたから水没の心配はないはずだが、断水工事のさい、蛇口をひねったままにしていたせいで部屋を水浸しにした。本当の話。本当に気の毒。
 
 
= = = = =
 
 
2/2
 
渋谷で久しぶりに朝まで飲み明かし、うとうと始発に揺られている。最寄駅につく。改札をでて、海辺の自宅へと歩く。とちゅうで橋にさしかかると、横から強烈な朝日が射してくる。みごとな朝焼け。思わず足を止め、しみじみ朝日と川を見る。ほんの数十分まえ目にした、渋谷メルトダウンとの振り幅を思えば自然に笑いがでてくる。喫煙者じゃないのでわからないけど、こういうときにたばこを吸うと気持ちいいんだろうな。しかし、川の上流をぼんやりながめているうちに、自分の知っている朝日と何かが違うことに気づき、だんだんと困惑しはじめる。ちょっと気持ち悪い。方角がおかしい。
 
 
京都にいたころ、毎年大晦日に友達と集まり、クラブや飲み屋をはしごしながら初日の出を待つ恒例行事があった。そのとき、朝日は川の向こうからのぼるものだった。京都の市街地は基本的に川沿いに位置しており、朝まで遊ぶといったらまず河原町、文字通り河原に広がる町しかない(京都METROもあるけど)。だから、夜遊びのラストシーンはおのずと決まっていた。
朝がくる。川の向こう側から朝日がのぼる。自分たちがたむろするこちら側はまだ暗い。京阪に乗るため、橋の向こう側へ、明るい方へと歩いていく。友達と別れる。京阪の出口から橋を振り返ると、さっきまでいた場所が明るくなっている…。
 
 
地理に由来した、その土地独特の感覚をおもしろいと感じる。たとえば渋谷では、疲れているときに歩き回ると、どんどんと駅の方へ吸い寄せられてしまう。地形がすり鉢状で、その底に駅が横たわっているから。神戸では、北↔︎南ではなく山側↔︎海側というインフォグラフィを見かける。だから、坂を下ると海に行きつくという生理的な感覚が神戸の人たちには染みついている。
碁盤の目が張られた京都では皆、x軸とy軸のグリッドで場所を把握しているが、東京の人びとは、出発駅と、つり革につかまっている時間の極座標で場所を認識している。だから道案内のときに北とか南とか言ってもほとんど通じない。*1
 
 
ある場所では坂をくだると駅に吸い込まれる、別の場所では海へ行きつく。ある場所はグリッド上に、別の場所は極座標にある。ある朝日は上流から、別の朝日は川の向こうからのぼってくる。
川の方向が南北か、東西か、それだけのことで、太陽が川の向こうからあらわれるのか、上流からあらわれるのかが宿命づけられていて、どんなに何気ない川でも、タイミングが味方すればびっくりするような美観を隠していることに思い至る。そういえば、濱口竜介の『親密さ』は、この秘めたる美観を生かした映画だったな、と思い出す。
 
 
朝日についての違和感がとけたところで、また家へと歩きだす。牛乳を買いに寄る。もう引っ越しまで間がないから、最近は移動のコストに見合わないものや、保存の利かないものを少しずつ捨てている。スーパーに来る回数も減った。
今まで、まわりのパックにまぎれて賞味期限が早い牛乳を見かけるたびに、「誰がこんなもの買うんだろう」と感じていたけど、ふと「去り際の人が買うのかもしれない」と思う。はじめてそのパックを買う。4月にはもうここにいない。
 

*1:他にも、わたしの知っている土地ではこうだよ、とういう例があればどんどん教えてください。

二十一世紀に音楽を聴くということ

 

 

クレヨンしんちゃんを見ていたら、しんのすけたち園児組が、不良っぽい年上に絡まれるシーンが流れてきた。園児たちが冷や汗をかくなか、しんのすけが「ねえ、おにいさんたち…」と、オネエ口調の冗談でからかい、なんだこいつ、と逆に不良の方がどぎまぎする。

このくだりに、テレビの前の自分はほとほと感心してしまった。学校で、路上で、職場で、ベッドルームで、背後の力関係を効かせた誰かが理不尽を強いる。普通はうつむいて従う、せいぜい逃げ出す、くらいしかないのだが、そういう抑圧を一瞬で相対化する技がこの世には存在するのだ。

 大事なのは、しんのすけが力で対抗しなかったということだ。力ではないとしたら、何だったのか?ここではユーモアである。

 

 

ゲットー・ブラスターという言葉をご存知だろうか。名詞としては、黒人が担いで歩くでっかいラジカセのことなのだが、その意味は、ゲットーで爆音の音楽を流すところにある。

場はパーティーのムードに包まれ、そこでは、暴力で人を支配しようなんてあくどいやつは退散してしまう。そして、その行為を通じて、最終的には暴力のうずまくゲットーをなくそうという意図も含まれる、という大変クールな話である(ここまで菊地成孔の受け売り)。

 想像してみてほしい。楽しく人が揺れている場で、やれドラッグだ、借金の返済だ、と誰かをどやしつけている人間は、たとえその場で一番強い力を持っていようと、周りからまったく無粋な人間として扱われるに違いない。往々にして脅す方が声をひそめるのは、力による制裁を恐れるからではない。自分の名誉に関わる非難を恐れるからだ。

 

立ち戻ってみると、しんのすけが不良を困惑させたユーモアは、その場ででっかいラジカセから音楽を流し、踊ってみせる行為にも置きかえられたはずだ。

ふたつの行為に共通する、大切な点は以下、

 

( i ) 力で従わせないこと(従わないこと)。
( ii )別のやり方を示すこと。

 

 

 

今年観た中で最も心動かされた映画、そして人生の一本となった映画に、エミール・クストリッツァの『アンダーグラウンド』がある。紛争の果てに今や失われてしまった国、ユーゴスラビアを舞台にした、どんちゃん騒ぎの映画である。戦争、ギャング、花嫁、不死身の将校、地下世界、動物園…とにかくいろいろなものが登場するこの映画については、話し出すとキリがない。だが、その中で素晴らしい点をひとつだけ挙げるなら、結婚式や葬式はもちろん、戦時中や強盗の現場、たとえあの世だろうと、しぶとく演奏し続けるブラス楽団が現れるところだ。作中では楽団の演奏とともに、こんな字幕が浮かび上がる。

 


苦痛と悲しみと、そして喜びなしには、
子供たちにこう語り伝えられない

"昔、ある所に国があった" とーー

 


楽団の彼らはよろめきながら、逃げ回りながら、時には脅されながら、決死の演奏を試みる。それは、暴力によって消滅してしまったその国に、今や記憶の中だけに封じ込められてしまったその国に、暴力以外の営みがちゃんと存在したことを、語りつがなくてはいけないからだ。人間の様々な生のあり方を否定させないためだ。耳に入ってくるのは、勇壮で明るい演奏である。だが観客は、その音色がとてつもなく悲しい響きを持つことも知っている。

本当のところ、(音ではなく)音楽を聴くというのは、ただただこの音色の反転を聴き逃さないことを意味するのだ。

 


 


二十世紀には、音楽の鳴る場がテロの標的に選ばれることはなかった。暴力にふさわしくない場だという暗黙の了解が会場を包んでいたのだ。しかし二十一世紀に入り、事態は一変してしまった。ここ二年だけでもあまりに悲惨なことが起きている。

去年、フロリダの銃乱射では、バスドラムのリズムに合わせて、面白半分でナイトクラブのゲイたちが撃ち殺された。今年の五月、アリアナ・グランデのライブ会場で起きたのは、わざと子供を狙った自爆テロだった。最も幼い犠牲者は八歳の女の子で、一見奇妙なことだが、事件後には"行方不明者の捜索"が行われた。直後、アリアナ・グランデツイッターでこのように発信した。

「打ちひしがれました、心の奥底から。途方もない悲しみで、言葉が見つかりません。」

無論、次の出演はキャンセルとなり、以後の公演については、まだ考えることすらできない状態だと報道された。

 

 

  

( i ) 力で従わせないこと(従わないこと)。
( ii )別のやり方を示すこと。

 

 

 

 

二週間後、アリアナ・グランデは、マンチェスターに舞い戻った。惨事が起きたその地で、チャリティーライブを開催するためである。記事をそのまま引用しようーー

 

"20時近く(現地時間)にアリアナのマネージャーのスクーター・ブラウンが登場。スクーターは22日の事件で負傷した15歳の少年を見舞った際に託された「怒りに突き進まないで、愛を広めて」というメッセージを伝えると、ロンドンの事件発生翌日のコンサートに参加したすべての人々の決意に感謝を述べ、「恐怖は私たちを分断しません。なぜなら今日、私たちはマンチェスターのために立ち上がったからです」と語りかけた。ここでアリアナがステージに姿を現し、観客から大きな喝采で迎えられた。"

http://www.cinemacafe.net/article/2017/06/05/49957.html

 

 

並外れた宣誓である。人道的で愛に満ちているが、同時に荒唐無稽な響きもある。はたして綺麗事だろうか?仮にそういう向きがあっても不思議はないのだが、彼女の決意を前にして、自分は思わず言葉を失ってしまった。

ここで言いたいのは、アリアナ・グランデはまさに、暴力に従うことなく立ち向かったということだ。暴力とは別のやり方で。

 

* 

 

嬉しいことに、アリアナ・グランデの振る舞いと共鳴する思想が、日本にも根付いている。耳にしたことがある人も多いはずだ。

 

 

"とにかくパーティーを続けよう"

 

 

五年ほど前、風営法の改正が強く求められていたこの国で、何度も何度も聞いたフレーズである。『今夜はブギー・バック』の一節であり、切実な願いでもある。特に今のような時代においては。

なぜパーティーを続けるのか?それはアリアナ・グランデがはっきりそう示したように、パーティーが古来から連綿と続く「別のやり方」だからだ。彼女がパーティーをいったんやめざるをえなかったのはテロのためだが、日本の場合は、ディスコ帰りの中学生が刺殺された事件の残響によってである。どちらも暴力を前にして一度はパーティーが解散され、多くの人々の努力によって取り戻された。

 

 

音楽に代表される、文化(や芸術)は不道徳で自堕落、教育上よくないものばかりだが、なぜか一定の教育的価値があると信じられている。本当にそんな価値があると考えてみるならば、それはまさしく、暴力に対して別のやり方を示すというものだ。

文化が教えてくれる最良のことは、北風ではなく太陽として生きる術である。一冊の本、漫画、一枚のレコード、絵画、映画…なんなら落語の話ひとつでも、地図帳でもいいけども、それらを通過するたびに、誰もが少しずつこのことを教わるはずだ。アリアナ・グランデのファンは少なくともそうだった。これを書いている自分も、その命脈の端に連なっているつもりだ。

 

他にもいろいろな言い方がある。オノヨーコはきっと同じ意味で 「戦争より愛を」と言った。実際に彼女が何を意図していたのか、他に誰がどんなことを言ったか、多くを知っているわけではない。けれどもそれらは根底で似通っていて、少しバージョンが違うに過ぎない。そして、それを解さない人間は、どれだけ音楽好きを自称しようがモグリと見なされる。

ジョニー・マーが当時のデヴィッド・キャメロン英国首相に、「スミス好きを名乗るのをやめろ、スミス好きを禁止する」と言ったのも、ストーンズドナルド・トランプに楽曲の使用中止を求めたのも、相手がモグリだと感知していたからである。

 

 

ここまで書いてきた文章は、ある言い方で「戦争より愛」として現れるメッセージを、「北風ではなく太陽であること」や、「別のやり方を示すこと」などと翻訳しながら、自分なりに長々と言い換えてきたようなものだ。

マンチェスターに戻ったアリアナ・グランデが、ステージ上で"Love"と書かれたTシャツを着ていたのは、もちろん偶然ではない。言い換えにはいろいろなバージョンがあり、野原しんのすけ菊地成孔、アリアナ、スチャダラパーなど、実はいくつものバージョンを紹介してきたのだが、小沢健二のバージョンもある。彼も昔は素晴らしい詞を書いた。最後に、"天使たちのシーン"から歌詞を引用して、この雑記を終わる。

 


"神様を 信じる強さを僕に 生きることを あきらめてしまわぬように
にぎやかな場所で かかりつづける音楽に 僕はずっと耳を傾けている
耳を傾けている 耳を傾けている"

 

 


今年の自分は、また性懲りもなく時間を割いて、本を読み、映画を観にゆき、そして何より、にぎやかな場所でかかり続ける音楽に耳を傾けていた。同じような暮らしをする世界中の誰かと同じように、「これが一体何になるっていうんだ?」と思わされることもしょっちゅうだ。

それでも、自分のような人間がやめずに今日まで続けてきたのは、ちゃんと理由がある。それは、そうして耳を傾けることが、一番小さな規模でパーティーを続ける方法だと、心のどこかで信じてやまないからだ。

  

 

 

 

 

やれたかも委員会の感想と雑記

※書き手は男です

 

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仲のいい女友達に、南国のリゾートでお酒飲んでパーティー行ってサーフィンして…という派手な遊びの好きな子がいる。その子は何度か同じリゾート地で遊んでいたのだが、通ううちに、数ヶ月前に寝た男の子とクラブで鉢合わせたらしい。そのときのことを彼女は「相手がノーチャンスだって分かるまでが遅すぎてイライラした」と話し、聞いている自分は一瞬困惑した。なぜかというと、数ヶ月前とそのときを比べて、その子の交際ステータスも、相手の男に対する評価も、体調も、何ひとつ変わったところがないからだ。再会して数時間、言い寄ってくる彼を拒否し続け(それでも彼のことは好きらしい)、1人でホテルに戻った彼女は、友達に電話をかけた。そしてその電話を自分がとったために、たまたま彼女の苛立ちを知ることになった。

話を聞きながら、大抵のばあい男は、「面白さ」や「格好良さ」なんかの美点を評価された結果、寝たり寝なかったりするものだと思っているけど、そういう風にステータスを固定させて考えること自体がズレているんだなと思った。まず、その子が電話で話したように、「そういう気分じゃなくなった」からそれまで、という事案がある、その裏側で、男の方は「今日は俺なんかまずいこと言ったかも…」とモヤモヤ考え続ける、という図が世の中には無数に転がっていて、ホテルから電話で伝わったこの話に教訓を見い出すとすれば、そのモヤモヤは不毛であること、そしてもちろん、女の方のステータスも同等に考えようね、というところだろうか。
リリーアレンが2ndアルバムのタイトル『It's Not Me, It's You』について語っていたインタビューを思い出す。男が別れ話のたびに言う「君のせいじゃないよ、全部俺のせいなんだ」がムカつくからひっくり返してみた、というのがリリーアレンの言である。読んだ高校生当時はピンと来なかった話だが、今となっては分かるところがある…*1

なんにしても、一度寝た女の子に断られるというのはかなり恥ずかしい上に情緒ある(?)事件なので、男の方では尾を引いて覚えているだろうな…そういう、どう転んでもダサい役回りはできるだけ演じたくないな、まあダサい役回りだという意識を持ちえないのが当事者性だから…などとぼんやり考えるうちに『やれたかも委員会』のことを思い出して、今この日記を書いている。

 

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やれたかも委員会 1巻

やれたかも委員会 1巻

 

 

『やれたかも委員会』は、cakesやnoteなどで連載中の、吉田貴司氏による漫画である。「やれたかもしれない思い出」を抱えた男たち*2が現れ、審査員の前でその思い出を語る、そして、本当にやれたのかどうかを審査員たちがジャッジする、という構成を取っている。


この作品の魅力を伝えたいのだが、そのために、いったん迂回してスポーツの話から始めたい。
野球でも陸上でも、スポーツの一番重要な戦いは一発勝負になることが多い。ペナントレースで圧勝しても、ポストシーズンの大一番を落とせばそれまでだし、100メートル走なら、今シーズン一番いいタイムを出した人に金メダルをあげます、とはもちろんならずに、スタートや風向きなど、不確定要素の多い一回の施行で全てを決めてしまう。番狂わせの起きそうな要素を除くために、例えばもしサッカーで、支配率に応じて0.1点刻みで加点、枠内にシュートを打てば0.2点、などの仕組みにすれば、実力がはっきり現れる公平なルールになるが、ゲームとしての面白さはかなり失われるだろう。
要するに、観ている側としては「実力は発揮されるべきだが、勝負事はランダムな要素を含んでいてほしい」と思っているわけだ。

 

『やれたかも委員会』が面白いのは、男女の関係の中で、こういうランダムな要素に読み手の関心を収束させるところで、恋愛のドタバタにうまいことスポーツ観戦のスリルを織り込んでいる。漫画の世界に限らず、デートの末に意中の女の子と寝ることを、「ゴール」「優勝」などと形容するのは、ゆえなきことではないはずだ。

あの夜はなぜうまく行かなかったのだろうか?何かまずいことを言ってしまったのか?『やれたかも委員会』は、答え合わせの機会を失った男たちに、とりあえずはジャッジをつけてくれる。

 

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冒頭の女友達の話に戻ると、彼女はクラブで懐かしい顔と出会ったその日、不意の再会にときめいて彼とお酒を飲んでいた。けれども、しばらくして気持ちが落ち着くと、反動的に帰国後の資格試験が頭を占めて、ホテルで参考書でもおさらいして寝ようかしら、という気持ちになったらしい。

資格試験の勉強!!相手の男がこの答え合わせを知ったら絶句するだろうな、という気持ちが湧き上がって、電話しながら笑ってしまった。物事を反対から見てみると、男の方で状況を左右するどころか、察することすら厳しい案件である。

似たような状況で、近場のホテルを検索するが低速でなかなか結果が出ない、ちょっとお金下ろすわとコンビニに寄って相手を待たせる、などのモタついた時間で女の子が我に帰って、めんどくさいし帰ろうかな、なんて気持ちになる場面は容易に想像がつくが、「女は押しに弱い」という警句は、こういう現象の裏返しを意味するのではないだろうか。興が乗るときもあれば醒めるときもあり、片方の頑張りでは操縦しようもない興に振り回されてしまうのだ。

 

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興味深いと思うのは、やれたかもしれない後悔について考えるとき、男はまず「(俺の)何がいけなかったのだろう」というモノローグに終始してしまうところで、「相手にどんな事情があったのだろう」という発想に至る回路が弱い*3
私見だけども、「女好き」と「女嫌いのセックス好き」が、同列に女好きという言葉でまとめられがちなのは大変な事態だ、と日頃から感じていて、この二者の差は、今挙げたように、主体性を相手に認められるかどうかにかかっている。そして、ちゃんとした「女好き」は、その多くが女性作家の作品に登場する人物だ。
これは、主体として自分勝手に振る舞うか、客体として相手の要望を汲み取るか、という、ちょっと安易な対立でもあるのだが、この対立を読み解く例として、川上弘美の『ニシノユキヒコの恋と冒険』(おもに映画の方)が面白い。ハンサムで相手の気持ちによく気づくニシノユキヒコは大変モテるものの、最後の最後で女性にフラれてしまう。いろいろな仕掛けがあって楽しい作品なのだが、作中で扱っている大きなテーマを約言してしまうと、主体性が弱い男の魅力と、その決定的な魅力の無さ、だと言える。

ただ主体として振る舞うだけでは駄目、しかし客体としてうまく相手に対応するだけの男に、人は夢中になれないのだ。まとめると、いわゆる男女の駆け引きにおいては、ある中間地点にセクシーさがある。平均して男は片方に寄りすぎているためにモテないが、理念的にもう片方の極点を描いてみると、そのセクシーすぎる男は、どうにも最後の1ピースが欠けている、ということだ。

 

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途中から『やれたかも委員会』とは別の話が続いてしまったけれども、元々はかの漫画が、答え合わせの機会を失って男の中で回り続ける疑問に焦点を当てていたからこそいろいろと思い出した話なので、一応感想として書きました。つい昨日決まった実写化に伴って、現在8話までを無料公開(!)しているので、気が向いた方は読んでみてください。

 

 

 

 

 

 

*1:「女心が分からない」という男のぼやきが、単に相手のステータスを認知できないところから来てるとしたら怖いなとふと思った。

*2:女性のパターンも例外的にある

*3:これは男のホモフォビア・性的客体への転落する恐怖、みたいな文脈だけど、性別に関係なく、人生経験を積むことで後者に傾いていくものでもあると思う。

パターソン感想

 

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ジム・ジャームッシュによる、ある詩人の一週間を描いた作品。共に暮らす妻はチャーミングで、ブルドッグのマーヴィンは視界に入るだけで思わず微笑んでしまう愛らしさである。詩の素晴らしさ、最後の永瀬正敏のシーンのひどさ*1などいろいろと見所のある映画なのだが、「何も起こらない」「筋がない」「日常の話」という前評判で観たらけっこうな違和感を感じたので、そのことについて書いておきたい。

まず、かなり構成的な上、ちょっとあざといやり方で観客に気を持たせるので、「筋がない」という評は当たらない。

 

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この映画では、毎日同じ路線を巡るバス運転手の視点を通して、実は少しずつズレた街を描いていく。主人公は仕事の合間に書く詩を密かな楽しみとしているのだが、妻から、発表はしないのか、せめて詩のコピーを取らないか、と説得される。主人公は渋るが、妻の押しに最後は根負けして、コピーを約束するーーこの時点で、作品に週末という期限が定まるとともに、不吉な陰影が彫り込まれることになる。複製を作ることができない/複製によって何か重要なものが変質してしまう、などの結末を観客は想像し、そのあとの一週間をかけて、複製、交換、双子、などのモチーフに触れながら、積み重ねた一日一日が層を成してゆく。そういえば、週は人間が時間の移ろいに刻んだ韻で、双子は遺伝子の押韻である。

 

こんな風に書くと伝わると思うが、構成が明確な上に、隠喩が点々と配置された作品で、観終わった観客にはそれらしいヒントがいくつも残される。以前にもちらっと書いた*2のだが、私はこういう作品の呼び寄せやすい読解が、というか、単純なコードに反応するだけのメタファー探偵のような評論を怪しく思っている。

それは例えば、「円環」「直線」「十字」「入れ替わり」等々を巡って延々考察する映画評のことだが、線のない映画も、入れ替わりを見出せない映画も存在しない。上映のあいだずっと円環、直線といった小規模なモチーフ探しに意識を割くのは、手間はかかっても、その気さえあれば一番誰にでもできる見方ではなかろうか。

 

何にせよ、ミニマルで単線的な物語において、このように構成的なところがくっきり示されれば、どうにもあざとく映るということを指摘したい。観ていると、まるで自分が点々と置かれたパンくずを追う小鳥になったような気がして、窮屈に感じてしまう。そういう点では少し物足りなかったが、映画の見どころは他にある。

 

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パターソンの一番のフックは、主人公の書く詩にある。挿入される詩がどれも上質で、それぞれが、交換不可能な存在について、名付けてしまったせいで素通りするようになった現象について、生活の代謝について、驚くほどの巧みさで表現している。何より、画面に一行ずつ現れる文章を追うというスタイルが、詩を味わう上で素晴らしい。あんな風に詩を生き生きと楽しんだのはいつぶりだろう(詩の朗読会へ行く人は、こういう感覚を求めているのだろうか)、という感想が来るのと同時に、翻って普段の自分の読書についても考えることになった。

 

劇中では、一行の詩が余裕を持ってゆっくりと現れるからこそ映えるのだが、現実の読書で、一行にあれだけの時間を使うことはめずらしい。普通私たちは、素早く全体を見渡し、要点を整理し、理解に勤めようとする。学校でそうしてきたように。子供のころから情報処理や分析を目的に活字を追っていると、読むスピードは自然に速くなるが、情報として全ての行に目を通すことと、そこに込められた詩情を味わうことには当然大きな差がある。

素早く目を通すこと、情報を処理することーーー『パターソン』では、効率や、社会の要請に応じたやり方で詩に接したとき、取りこぼしてしまうものを拾い上げていく。観終わってぼんやりと考える中で、ポエジーがスピードによって遠ざかる(!)、という、当たり前のようで切実な問題に胸を衝かれていた。

 

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映画の中盤までは、誰もがiPhoneを持つ場所で、主人公にだけ持たせないのは作者の不実ではないか、というぼやきが頭に浮かんでいた*3が、作中で一日が過ぎるうちにその感覚は更新された。主人公のパターソンは、効率や複製、ひいては現代的な合理に覆われる前のポエジーを(あるいはアウラを)採掘する存在であり、決して複製芸術*4的なものに手を貸してはならないのだ。彼はその日あった特別な出来事を妻に伝えるとき、iPhoneのシャッターを切ったり、カメラロールを覗き込ませたりはしない。詩として書き、家に帰って時々聞かせてやるだけだ。映画の終盤、予告された週末にブルドッグのマーヴィンがしたことは、*5主人公の、ひいては夫婦の救済だったと言える。

 

そういえばこの映画は、和やかな目覚めのシーンで始まったのだ。朝日の差すベッドで、寝ぼけた妻ローラ(auraにエルを足したLauraという名前…)が夫に話しかける、「私たち、夢の中で双子の子供がいたのよ」。そして、不穏にもこう続く。


私たち2人に1人ずつ。

 

 

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速い方が、効率の優れた方が、同じ轍を踏まない方が、替えのある方が良いーー『パターソン』は、あらゆるスピードによって、合理によって、学習によって、目の前の事象を0と1の羅列に変換しようとする力によって、隠されてしまったポエジーを掘り起こす作品である。つまり、詩を扱った作品ならではの鋭利さを持っているということだが、注意しなければ、その鋭さすら見落としてしまう。なぜならこれは、「何も起こらない日常の素晴らしさを描いた話」と簡単に合点してしまった途端、霧となって消えゆくものについての映画なのだから。

 

 

 

*1:「(確率の問題として考えれば、こんな奇遇な事件に恵まれる1週間は稀だけど)こんなことも起こるだろうな」という映画の中のリアリティにずっと馴染んだ状態で観ていたのに、最後に出てくる永瀬正敏が、英語の発音から鞄のかけ方まで強烈に自分のよく知る日本的な現実感でもって差し込まれて、こんなことは起こらないよ、と耳元で言われたかのように我に返ってしまった。

*2:ヒップホップ警察を追い返せ!!と、この時代のスノビズムについて - 屋上から

*3:ただの一般論で、年老いた作者が登場人物をSNSスマホに近づけず、往年のやり方でドラマを書くのは怠慢だ、という意味。

*4:人文書を読む人なら、この作品を観たとき脳裏に『複製技術時代の芸術』がちらつくのではないだろうか。この記事では詩と絡めてポエジーと言っているけども、ベンヤミンが言うところのアウラと重なる部分も大きい。

*5:ちなみにその裏で主人公夫妻がしていたことと言えば、「久しくしていなかった映画(複製芸術)観賞」である。