二十一世紀に音楽を聴くということ

 

 

クレヨンしんちゃんを見ていたら、しんのすけたち園児組が不良っぽい年上に絡まれるシーンが流れてきた。園児たちが冷や汗をかく中、しんのすけが「ねえ、おにいさんたち…」と、オネエ口調の冗談でからかい、なんだこいつ、と逆に不良の方がどぎまぎする。このくだりに、テレビの前の自分はほとほと感心してしまった。学校で、路上で、職場で、ベッドルームで、背後の力関係を効かせた誰かが理不尽を強いる。普通はうつむいて従う、せいぜい逃げ出す、くらいしかないのだが、そういう抑圧を一瞬で相対化する技がこの世には存在するのだ。

 大事なのは、しんのすけが力で対抗しなかったということだ。力ではないとしたら、何だったのか?ここではユーモアである。

 

 

ゲットー・ブラスターという言葉をご存知だろうか。名詞としては、黒人が担いで歩くでっかいラジカセのことなのだが、その意味するところは、ゲットーで爆音の音楽を流すことにある。場はパーティーのムードに包まれ、そこでは、暴力で人を支配しようなんてあくどいやつは退散してしまうーーそして、その行為を通じて、最終的には暴力のうずまくゲットーをなくそうという意図も含まれる、という大変クールな話である(ここまで菊地成孔の受け売り)。

 想像してみてほしい。楽しく人が揺れている場で、やれドラッグだ、借金の返済だ、と誰かをどやしつけている人間は、たとえその場で一番強い力を持っていようと、周りからまったく無粋な人間として扱われるに違いない。往々にして脅す方が声をひそめるのは、力による制裁を恐れるからではない。自分の名誉に関わる非難を恐れるからだ。

 

立ち戻ってみると、しんのすけが不良を困惑させたユーモアは、その場ででっかいラジカセから音楽を流し、踊ってみせる行為にも置きかえられたはずだ。

ふたつの行為に共通する、大切な点は以下、

 

( i ) 力で従わせないこと(従わないこと)。
( ii )別のやり方を示すこと。

 

 

 

今年観た中で最も心動かされた映画、そして人生の一本となった映画に、エミール・クストリッツァの『アンダーグラウンド』がある。紛争の果てに今や失われてしまった国、ユーゴスラビアを舞台にした、どんちゃん騒ぎの映画である。戦争、ギャング、花嫁、不死身の将校、地下世界、動物園…とにかくいろいろなものが登場するこの映画については、話し出すとキリがないのだが、素晴らしい点をひとつだけ挙げると、結婚式や葬式はもちろん、戦時中や強盗の現場、たとえあの世だろうと、しぶとく演奏し続けるブラス楽団が現れるところだ。作中では楽団の演奏とともに、こんな字幕が浮かび上がる。

 


苦痛と悲しみと、そして喜びなしには、
子供たちにこう語り伝えられない

"昔、ある所に国があった" とーー


楽団の彼らはよろめきながら、逃げ回りながら、時には脅されながら、決死の演奏を試みる。それは、暴力によって消滅してしまったその国に、今や記憶の中だけに封じ込められてしまったその国に、暴力以外の別な営みがちゃんと存在したことを、語りつがなくてはいけないからだ。人間の様々な生のあり方を否定させないためだ。耳に入ってくるのは、勇壮で明るい演奏である。だが観客は、その音色がとてつもなく悲しい響きを持つことも知っている。本当のところ、(音ではなく)音楽を聴くというのは、ただただこの音色の反転を聴き逃さないことを意味するのだ。

 


 


二十世紀には、音楽の鳴る場がテロの標的に選ばれることはなかった。暴力にふさわしくない場だという暗黙の了解が会場を包んでいたのだ。しかし二十一世紀に入り、事態は一変してしまった。ここ二年だけでもあまりに悲惨なことが起きている。去年、フロリダの銃乱射では、バスドラムのリズムに合わせて、面白半分でナイトクラブのゲイたちが撃ち殺された。今年の五月、アリアナ・グランデのライブ会場で起きたのは、わざと子供を狙った自爆テロだった。最も幼い犠牲者は八歳の女の子で、一見奇妙なことだが、事件後には行方不明者の捜索が行われた。直後、アリアナ・グランデは「打ちひしがれました、心の奥底から。途方もない悲しみで、言葉が見つかりません。」とツイッターで発信した。無論、次の出演はキャンセルとなり、以後の公演については、まだ考えることすらできない状態だと報道された。

 

 

 

 

( i ) 力で従わせないこと(従わないこと)。
( ii )別のやり方を示すこと。

 

 

 

 

二週間後、アリアナ・グランデは、マンチェスターに舞い戻った。惨事が起きたその地で、チャリティーライブを開催するためである。記事をそのまま引用しようーー

 

"20時近く(現地時間)にアリアナのマネージャーのスクーター・ブラウンが登場。スクーターは22日の事件で負傷した15歳の少年を見舞った際に託された「怒りに突き進まないで、愛を広めて」というメッセージを伝えると、ロンドンの事件発生翌日のコンサートに参加したすべての人々の決意に感謝を述べ、「恐怖は私たちを分断しません。なぜなら今日、私たちはマンチェスターのために立ち上がったからです」と語りかけた。ここでアリアナがステージに姿を現し、観客から大きな喝采で迎えられた。"

http://www.cinemacafe.net/article/2017/06/05/49957.html

 

 

並外れた宣誓である。愛に満ちていて人道的だが、同時に荒唐無稽な響きもある。はたして綺麗事だろうか?そういう向きがあっても不思議はないのだが、彼女の決意を前にして、自分は思わず言葉を失ってしまった。本当に、これを綺麗事だと切って捨てられる人がいるのだろうか。判断は読者に任せるとして、ここで言いたいのは、アリアナ・グランデはまさに、暴力に従うことなく立ち向かったということだ。暴力とは別のやり方で。

 

* 

 

嬉しいことに、アリアナ・グランデの振る舞いと共鳴する思想が、日本にも根付いている。耳にしたことがある人も多いはずだ。

 

 

"とにかくパーティーを続けよう"

 

 

五年ほど前、風営法の改正が強く求められていたこの国で、何度も何度も聞いたフレーズである。『今夜はブギー・バック』の一節であり、切実な願いでもある。特に今のような時代においては。なぜパーティーを続けるのか?それはアリアナ・グランデがはっきりそう示したように、パーティーが古来から連綿と続く「別のやり方」だからだ。彼女がパーティーをいったんやめざるをえなかったのはリビア系の移民によるテロのためだが、日本の場合は、八十二年にディスコ帰りの中学生が刺殺された事件の残響によってである。どちらも暴力を前にして一度はパーティーが解散され、多くの人々の努力によって取り戻された。

 

 

音楽に代表される、文化(や芸術)は不道徳で自堕落、教育上よくないものばかりだが、なぜか一定の教育的価値があると信じられている。本当にそんな価値があると考えてみるならば、それはまさしく、暴力に対して別のやり方を示すというものだ。文化が教えてくれる最良のことは、北風ではなく太陽として生きる術である。一冊の本、漫画、一枚のレコード、絵画、映画…なんなら落語の話ひとつでも、地図帳でもいいけども、それらを通過するたびに、誰もが少しずつこのことを教わるはずだ。アリアナ・グランデのファンは少なくともそうだった。これを書いている自分も、その命脈の端に連なっているつもりだ。

 

他にもいろいろな言い方がある。オノヨーコはきっと同じ意味で 「戦争より愛を」と言った。実際に彼女が何を意図していたのか、他に誰がどんなことを言ったか、多くを知っているわけではない。けれどもそれらは根底で似通っていて、ほんの少しバージョンが違うに過ぎない。そして、それを解さない人間は、どれだけ音楽好きを自称しようがモグリと見なされる。ジョニー・マーが当時のデヴィッド・キャメロン英国首相に、「スミス好きを名乗るのをやめろ、スミス好きを禁止する」と言ったのも、ストーンズドナルド・トランプに楽曲の使用中止を求めたのも、相手がモグリだと感知していたからである。

 

 

ここまで書いてきたのは、ある言い方で「戦争より愛」として現れるメッセージを、「北風ではなく太陽であること」や、「別のやり方を示すこと」などと翻訳しながら、自分なりに長々と言い換えてきたようなものだ。マンチェスターに戻ったアリアナ・グランデが、ステージ上で"Love"と書かれたTシャツを着ていたのは、もちろん偶然ではない。言い換えにはいろいろなバージョンがあり、野原しんのすけ菊地成孔、アリアナ、スチャダラパーなど、実はいくつものバージョンを紹介してきたのだが、これには小沢健二のバージョンもある。彼も昔は素晴らしい詞を書いた。最後に、"天使たちのシーン"から歌詞を引用して、この雑記を終わろうと思う。

 


"神様を 信じる強さを僕に 生きることを あきらめてしまわぬように
にぎやかな場所で かかりつづける音楽に 僕はずっと耳を傾けている
耳を傾けている 耳を傾けている"

 


今年の自分は、また性懲りもなく時間を割いて、本を読み、映画を観にゆき、そして何より、にぎやかな場所でかかり続ける音楽に耳を傾けていた。同じような暮らしをする世界中の誰かと同じように、「これが一体何になるっていうんだ?」と思わされることもしょっちゅうだ。それでも、自分のような人間がやめずに今日まで続けてきたのは、ちゃんと理由がある。それは、そうして耳を傾けることが、一番小さな規模でパーティーを続ける方法だと、心のどこかで信じてやまないからだ。

  

 

 

 

 

やれたかも委員会の感想と雑記

※書き手は男です

 

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仲のいい女友達に、南国のリゾートでお酒飲んでパーティー行ってサーフィンして…という派手な遊びの好きな子がいる。その子は何度か同じリゾート地で遊んでいたのだが、通ううちに、数ヶ月前に寝た男の子とクラブで鉢合わせたらしい。そのときのことを彼女は「相手がノーチャンスだって分かるまでが遅すぎてイライラした」と話し、聞いている自分は一瞬困惑した。なぜかというと、数ヶ月前とそのときを比べて、その子の交際ステータスも、相手の男に対する評価も、体調も、何ひとつ変わったところがないからだ。再会して数時間、言い寄ってくる彼を拒否し続け(それでも彼のことは好きらしい)、1人でホテルに戻った彼女は、友達に電話をかけた。そしてその電話を自分がとったために、たまたま彼女の苛立ちを知ることになった。

話を聞きながら、大抵のばあい男は、「面白さ」や「格好良さ」なんかの美点を評価された結果、寝たり寝なかったりするものだと思っているけど、そういう風にステータスを固定させて考えること自体がズレているんだなと思った。まず、その子が電話で話したように、「そういう気分じゃなくなった」からそれまで、という事案がある、その裏側で、男の方は「今日は俺なんかまずいこと言ったかも…」とモヤモヤ考え続ける、という図が世の中には無数に転がっていて、ホテルから電話で伝わったこの話に教訓を見い出すとすれば、そのモヤモヤは不毛であること、そしてもちろん、女の方のステータスも同等に考えようね、というところだろうか。
リリーアレンが2ndアルバムのタイトル『It's Not Me, It's You』について語っていたインタビューを思い出す。男が別れ話のたびに言う「君のせいじゃないよ、全部俺のせいなんだ」がムカつくからひっくり返してみた、というのがリリーアレンの言である。読んだ高校生当時はピンと来なかった話だが、今となっては分かるところがある…*1

なんにしても、一度寝た女の子に断られるというのはかなり恥ずかしい上に情緒ある(?)事件なので、男の方では尾を引いて覚えているだろうな…そういう、どう転んでもダサい役回りはできるだけ演じたくないな、まあダサい役回りだという意識を持ちえないのが当事者性だから…などとぼんやり考えるうちに『やれたかも委員会』のことを思い出して、今この日記を書いている。

 

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やれたかも委員会 1巻

やれたかも委員会 1巻

 

 

『やれたかも委員会』は、cakesやnoteなどで連載中の、吉田貴司氏による漫画である。「やれたかもしれない思い出」を抱えた男たち*2が現れ、審査員の前でその思い出を語る、そして、本当にやれたのかどうかを審査員たちがジャッジする、という構成を取っている。


この作品の魅力を伝えたいのだが、そのために、いったん迂回してスポーツの話から始めたい。
野球でも陸上でも、スポーツの一番重要な戦いは一発勝負になることが多い。ペナントレースで圧勝しても、ポストシーズンの大一番を落とせばそれまでだし、100メートル走なら、今シーズン一番いいタイムを出した人に金メダルをあげます、とはもちろんならずに、スタートや風向きなど、不確定要素の多い一回の施行で全てを決めてしまう。番狂わせの起きそうな要素を除くために、例えばもしサッカーで、支配率に応じて0.1点刻みで加点、枠内にシュートを打てば0.2点、などの仕組みにすれば、実力がはっきり現れる公平なルールになるが、ゲームとしての面白さはかなり失われるだろう。
要するに、観ている側としては「実力は発揮されるべきだが、勝負事はランダムな要素を含んでいてほしい」と思っているわけだ。

 

『やれたかも委員会』が面白いのは、男女の関係の中で、こういうランダムな要素に読み手の関心を収束させるところで、恋愛のドタバタにうまいことスポーツ観戦のスリルを織り込んでいる。漫画の世界に限らず、デートの末に意中の女の子と寝ることを、「ゴール」「優勝」などと形容するのは、ゆえなきことではないはずだ。

あの夜はなぜうまく行かなかったのだろうか?何かまずいことを言ってしまったのか?『やれたかも委員会』は、答え合わせの機会を失った男たちに、とりあえずはジャッジをつけてくれる。
ちなみにもし、この物語が女性視点だったならば、ある時やれた男は望めば今もやれる男で、やれなかった男は今もやれない男、というパターンが多くなりがちで、ある意味ではスリルの欠けたものになるのではないかと思う。

 

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冒頭の女友達の話に戻ると、彼女はクラブで懐かしい顔と出会ったその日、不意の再会にときめいて彼とお酒を飲んでいた。けれども、しばらくして気持ちが落ち着くと、反動的に帰国後の資格試験が頭を占めて、ホテルで参考書でもおさらいして寝ようかしら、という気持ちになったらしい。

資格試験の勉強!!相手の男がこの答え合わせを知ったら絶句するだろうな、という気持ちが湧き上がって、電話しながら笑ってしまった。物事を反対から見てみると、男の方で状況を左右するどころか、察することすら厳しい案件である。

似たような状況で、近場のホテルを検索するが低速でなかなか結果が出ない、ちょっとお金下ろすわとコンビニに寄って相手を待たせる、などのモタついた時間で女の子が我に帰って、めんどくさいし帰ろうかな、なんて気持ちになる場面は容易に想像がつくが、「女は押しに弱い」という警句は、こういう現象の裏返しを意味するのではないだろうか。興が乗るときもあれば醒めるときもあり、片方の頑張りでは操縦しようもない興に振り回されてしまうのだ。

 

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興味深いと思うのは、やれたかもしれない後悔について考えるとき、男はまず「(俺の)何がいけなかったのだろう」というモノローグに終始してしまうところで、「相手にどんな事情があったのだろう」という発想に至る回路が弱い*3
私見だけども、「女好き」と「女嫌いのセックス好き」が、同列に女好きという言葉でまとめられがちなのは大変な事態だ、と日頃から感じていて、この二者の差は、今挙げたように、主体性を相手に認められるかどうかにかかっている。そして、ちゃんとした「女好き」は、その多くが女性作家の作品に登場する人物だ。
これは、主体として自分勝手に振る舞うか、客体として相手の要望を汲み取るか、という、ちょっと安易な対立でもあるのだが、この対立を読み解く例として、川上弘美の『ニシノユキヒコの恋と冒険』(おもに映画の方)が面白い。ハンサムで相手の気持ちによく気づくニシノユキヒコは大変モテるものの、最後の最後で女性にフラれてしまう。いろいろな仕掛けがあって楽しい作品なのだが、作中で扱っている大きなテーマを約言してしまうと、主体性が弱い男の魅力と、その決定的な魅力の無さ、だと言える。

ただ主体として振る舞うだけでは駄目、しかし客体としてうまく相手に対応するだけの男に、人は夢中になれないのだ。まとめると、いわゆる男女の駆け引きにおいては、ある中間地点にセクシーさがある。平均して男は片方に寄りすぎているためにモテないが、理念的にもう片方の極点を描いてみると、そのセクシーすぎる男は、どうにも最後の1ピースが欠けているーーということだ。

 

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途中から『やれたかも委員会』とは別の話が続いてしまったけれども、元々はかの漫画が、答え合わせの機会を失って男の中で回り続ける疑問に焦点を当てていたからこそいろいろと思い出した話なので、一応感想として書きました。つい昨日決まった実写化に伴って、現在8話までを無料公開(!)しているので、気が向いた方は読んでみてください。

 

 

 

 

 

 

*1:「女心が分からない」という男のぼやきが、単に相手のステータスを認知できないところから来てるとしたら怖いなとふと思った。

*2:女性のパターンも例外的にある

*3:これは男のホモフォビア・性的客体への転落する恐怖、みたいな文脈だけど、性別に関係なく、人生経験を積むことで後者に傾いていくものでもあると思う。

パターソン感想

 *註釈がいくつもあるのですが、その都度読まずに、記事全体を読み終えてから気になるところを見てもらえればありがたいです。

 

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ジム・ジャームッシュによる、ある詩人の一週間を描いた作品。共に暮らす妻はチャーミングで、ブルドッグのマーヴィンは視界に入るだけで思わず微笑んでしまう愛らしさである。詩の素晴らしさ、最後の永瀬正敏のシーンのひどさ*1などいろいろと見所のある映画なのだが、「何も起こらない」「筋がない」「日常の話」という前評判で観たらけっこうな違和感を感じたので、そのことについて書いておきたい。

まず、かなり構成的な上、ちょっとあざといやり方で観客に気を持たせるので、「筋がない」という評は当たらない。

 

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この映画では、毎日同じ路線を巡るバス運転手の視点を通して、実は少しずつズレた街を描いていく。主人公は仕事の合間に書く詩を密かな楽しみとしているのだが、妻から、発表はしないのか、せめて詩のコピーを取らないか、と説得される。主人公は渋るが、妻の押しに最後は根負けして、コピーを約束するーーこの時点で、作品に週末という期限が定まるとともに、不吉な陰影が彫り込まれることになる。複製を作ることができない/複製によって何か重要なものが変質してしまう、などの結末を観客は想像し、そのあとの一週間をかけて、複製、交換、双子、などのモチーフに触れながら、積み重ねた一日一日が層を成してゆく。そういえば、週は人間が時間の移ろいに刻んだ韻で、双子は遺伝子の押韻である。

 

こんな風に書くと伝わると思うが、構成が明確な上に、隠喩が点々と配置された作品で、観終わった観客にはそれらしいヒントがいくつも残される。以前にもちらっと書いた*2のだが、私はこういう作品の呼び寄せやすい読解が、というか、単純なコードに反応するだけのメタファー探偵のような評論を怪しく思っている。それは例えば、「円環」「直線」「十字」「入れ替わり」等々を巡って延々考察する映画評のことだが、線のない映画も、入れ替わりを見出せない映画も存在しない。上映のあいだずっと円環、直線といった小規模なモチーフ探しに意識を割くのは、手間はかかっても、その気さえあれば一番誰にでもできる見方ではなかろうか。

 

何にせよ、ミニマルで単線的な物語において、このように構成的なところがくっきり示されれば、どうにもあざとく映るということを指摘したい。観ていると、まるで自分が点々と置かれたパンくずを追う小鳥になったような気がして、窮屈に感じてしまう。作品の核を成すような断片が、もっと多彩に、もっと縦横無尽に現れる過剰な作品が好きで、私はそれらが有機的に立ち上がっていくところが見たい。そういう点では少し物足りなかったが、映画の見どころは他にある。

 

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パターソンの一番のフックは、主人公の書く詩にある。挿入される詩がどれも上質で、それぞれが、交換不可能な存在について、名付けてしまったせいで素通りするようになった現象について、生活の代謝について、驚くほどの巧みさで表現している。何より、画面に一行ずつ現れる文章を追うというスタイルが、詩を味わう上で素晴らしい。あんな風に詩を生き生きと楽しんだのはいつぶりだろう(詩の朗読会へ行く人は、こういう感覚を求めているのだろうか)、という感想が来るのと同時に、翻って普段の自分の読書についても考えることになった。

 

劇中では、一行の詩が余裕を持ってゆっくりと現れるからこそ映えるのだが、現実の読書で、一行にあれだけの時間を使うことはめずらしい。普通私たちは、素早く全体を見渡し、要点を整理し、理解に勤めようとする。学校でそうしてきたように。子供のころから情報処理や分析を目的に活字を追っていると、読むスピードは自然に速くなるが、情報として全ての行に目を通すことと、そこに込められた詩情を味わうことには当然大きな差がある。

素早く目を通すこと、情報を処理することーーー『パターソン』では、効率や、社会の要請に応じたやり方で詩に接したとき、取りこぼしてしまうものを拾い上げていく。観終わってぼんやりと考える中で、ポエジーがスピードによって遠ざかる(!)、という、当たり前のようで切実な問題に胸を衝かれていた。

 

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映画の中盤までは、誰もがiPhoneを持つ場所で、主人公にだけ持たせないのは作者の不実ではないか、というぼやきが頭に浮かんでいた*3が、主人公のパターソンは、効率や複製、ひいては現代的な合理に覆われる前のポエジーを採掘する存在であり、決して複製芸術(人文書を読む人なら、この作品を観たとき脳裏に『複製技術時代の芸術』がちらつくのではないだろうか。この記事では詩と絡めてポエジーと言っているけども、ベンヤミンが言うところのアウラと重なる部分も大きい。)的なものに手を貸してはならないのだ。彼はその日あった特別な出来事を妻に伝えるとき、iPhoneのシャッターを切ったり、カメラロールを覗き込ませたりはしない。詩として書き、家に帰って時々聞かせてやるだけだ。映画の終盤、予告された週末にブルドッグのマーヴィンがしたことは、*4主人公の、ひいては夫婦の救済だったと言える。

 

そういえばこの映画は、和やかな目覚めのシーンで始まったのだ。朝日の差すベッドで、寝ぼけた妻ローラ*5が夫に話しかける、「私たち、夢の中で双子の子供がいたのよ」。そして、不穏にもこう続く。


私たち2人に1人ずつ。

 

 

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速い方が、効率の優れた方が、同じ轍を踏まない方が、替えのある方が良いーー『パターソン』は、あらゆるスピードによって、合理によって、学習によって、目の前の事象を0と1の羅列に変換しようとする力によって、隠されてしまったポエジーを掘り起こす作品である。つまり、詩を扱った作品ならではの鋭利さを持っているということだが、注意しなければ、その鋭さすら見落としてしまう。なぜならこれは、「何も起こらない日常の素晴らしさを描いた話」と簡単に合点してしまった途端、霧となって消えゆくものについての映画なのだから。

 

 

 

*1:「(確率で考えれば、こんな奇遇な事件に恵まれる1週間は稀だけど)こんなことも起こるだろうな」という映画の中のリアリティにずっと馴染んだ状態で観ていたのに、最後に出てくる永瀬正敏が、英語の発音から鞄のかけ方まで強烈に自分のよく知る日本的な現実感でもって差し込まれて、こんなことは起こらないよ、と耳元で言われたみたいに我に返ってしまった。

*2:ヒップホップ警察を追い返せ!!とこの時代のスノビズムについて - 屋上から

*3:ただの一般論で、年老いた作者が登場人物をSNSスマホに近づけず、往年のやり方でドラマを書くのは怠慢だ、という意味です。

*4:ちなみにその裏で主人公夫妻がしていたことと言えば、「久しくしていなかった映画(複製芸術)観賞」である。

*5:auraにエルを足したLauraという名前なのがあざとくていやだ〜

とりとめのない日記・雑記(2)

有楽町で中学の同級生と飲んだ帰り、書店を探してあの辺りをふらふらと歩いていた。Googleによると、付近で21時以降も営業しているのは銀座の蔦屋書店だけとのことで、千代田区と中央区の境目はこの辺か?などと考えながら、まだまだ活気のある夜の街を通り抜けて銀座シックスへと向かった。

数分後、銀座シックスへ着いたはいいが、代官山のように路面店でない銀座店は視認できず、ビル全体は消灯済で真っ暗、特に目印もなく、この巨大な直方体のどこから中に入ればいいのかと困惑していた。うろうろ歩き回って見つけたエレベーターの中にすら蔦屋の文字はなく、6F Booksと小さく書かれているだけだった(たしか)。それでも、エレベーターの扉が開くときらびやかな店内が広がっているから不思議な感覚に包まれる。

 

ドトール(コーヒー220円)で作業するということは、ボロ着で体臭のきつい謎のジジイや、隣でぶつぶつとクロスワードパズルを始める謎のジジイに遭遇するリスクを冒すということで、そういう謎のジジイに降参したときは、上島珈琲(コーヒー400円)や純喫茶に移動するのだが、銀座の一等地に立つこの書店は、高貴な喫茶店よろしく広告やデザインの工夫で密かなゾーニングを施して、「謎のジジイ的な何か」を排しているのかも…それとも昼は普通に入れるのかも…などと酔った頭で考えながら、目当ての本を探して棚を見て回った。ブックオフみたいに、椅子で眠り込んでいる人や、閉店まで立ち読みをしている人は見当たらなかった。

 

目的地に辿り着いて機嫌をよくしたので、さっきまで一緒にいたやつと共通の友人に電話をかけた。もしもし、今まで岸田と飲んでたよ、元気してる?の挨拶もそこそこに、今自分の居る本屋がいかに外から分かりづらい場所にあったかを説明した。電話口の女の子は、その話を、
「ああ、偶然入れない場所ってことか」
と要約した。その時不意に、今までの自分の人生で、偶然には辿り着けなかった場所や知りえなかった人、それとは反対に、偶然にしか知り合えなかった人たちのことが頭をよぎった。今電話口にいるこの子も、さっきまで一緒にいたあいつも、中学や高校というあの時分を過ぎれば、二度と交わらない人生だったろうと思った。

 

レジで会計を終えた。突然だったのにありがとう、おやすみなさいと電話を切った。切った途端、自分こそが酔って電話しながら歩く謎のジジイだったことを自覚して笑った。そして、エレベーターの前で待ちながら、この扉の向こうには、今まで自分が通り抜けてきた扉が全部、ずらっと一列に並んでいる…という荒唐無稽な想像にとらわれていた。その中には「偶然には通れなかった扉」「偶然にしか通れなかった扉」がどちらもたくさんあるはずだった。清濁併せ飲むとは、このふたつの扉を往き来することだと謎の合点をした。行きと同じようにひとりでエレベーターを通過した。これで帰りに残された扉は東京メトロと自宅だけになった。

 

帰路の半蔵門線で、自分はなぜ「成人式行かなかった」と高く掲げるみたいにtwitterで言う人種が嫌いなんだろ、地方に生まれた文化オタクの特徴ってなんだろ、などとぼんやり考えた。地方に生まれるのはいろんな意味で非効率だけど、何年かかけて、効率の観点からは取り戻せない何かを負うのも悪くない、と思うようになった。この手の葛藤は、当人にとって結論が決まっているので、何年かかるかの話でしかない。そのあとは地元のことが頭に浮かんだ。土建屋の息子だったのが、父親の死をきっかけに会社を売り払い、今はイスラエルでフリーターをしているという、変てこな経歴を持つ小学生以来の親友を思い出した。SNSを活発にやるわけではない、音楽や映画の趣味が合うわけでもない。家が歩いて5分のところになかったら、そいつとはすれ違う機会すらなかったし、イスラエルレバノンの奇妙な入国審査や、イスラム教徒とユダヤ教徒が恋する現場のことを知ることもなかった。

 

地元を離れた結果、先週トリアーの映画観たんだけどさ、宮本輝の選評やばいんだけどさ、などと(その時々で興味のある映画や本のことを)話し始めても、あっさりそれを受け入れてくれる人たちとばかり遊ぶようになった。気楽になった部分は大きいけど、時折、自分がもう今いる場所にしかフィットしないんじゃないか、二度と戻れないほど偏った人間になってしまったんじゃないか、という不安に襲われる。就職や結婚が関わってくると特に、「わかる人だけわかってくれればいい」というスタンスが通じなくなり、会社の人や自分の母親は「わかってくれる人」ではないという当たり前のところを無視できなくなる。自分の選んだものだけでも、選べなかったものだけでもやっていられないから、自分で自分の人生に補助線を引く。それは結局、背後に延々と続く扉を振り返るということであって、「久しぶり、元気してる?」と誰かにメッセージを送るとき、人は自分がかつて選べなかった何かを選び直しているのではないかと思った。

ヒップホップ警察を追い返せ!!と、この時代のスノビズムについて

昨日からよく見るこの記事。
ヒップホップ警察を追い返せ!!【ゲストぼくのりりっくのぼうよみ】|柴那典 /大谷ノブ彦|心のベストテン
 
 
大して意味もない飲み屋の談義みたいな話だけど、たぶん、ダイノジ大谷に対するそもそもの風当たりの強さや、柴那典の脇の甘さや、みんな日本のゲットーで生まれたヒップホップを全く認知してないところなんかが重なって炎上している。(それでも、ぼくのりりっくのぼうよみの彼は、この件で非難されるのは不憫だなーというくらい穏当なことしか言ってないと思う)
 
どんな分野でも、門外漢が趣味人に叩かれるという図はよくあるが、(ヒップホップを含めた)ポップ音楽趣味*1な自分の体験に照らすと、どうにもモヤモヤする瞬間は確かにある。例えば、社会学者が邦ロックバンドの受容され方についてコメントする、TLの弁護士がたまたま知ったDirty Projectorsを聴いてあれこれ評する、『UVERworldヴィトゲンシュタイン』という論考の存在を知る、などのタイミングで、「いや、そういうことじゃないんだよな…」と感じてきたのだが、個別の状況は違えど、何らかの文化に膨大な時間をかけてきた趣味人には、似たような経験を持つ人が多いだろう。
 
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ポップ音楽を聴くことには、単に音を聴く以上の意味がある。ゲイのアーティストを数多く知ることで、トランスジェンダーに関する認知や理解が深まるし、大衆性とエッジーさが反比例する様子や、セルアウトの概念を理解する、クラスに1人より稀少な趣味なので、アウトサイダーとしての意識が育つ、ドラッグカルチャーやサイケデリックな音を通してエスケーピズムを理解する、Vampire Weekendの使ったアフリカのビートに対して「白人による文化搾取だ」という論争が起きれば、エスニシティについて考える機会を得る、Arcade FireやWilcoが歌うアメリカの政治の混迷から、アーティストが政治に言及する姿勢を知る、などなど、今思いつくだけでも挙げだすとキリがない。文化搾取や政治性の話なんかも、固有名詞を入れ替えれば、世代に関わらず多くの人が通過するであろう問題意識だ。
 
以前、『(500)日のサマー』『トレインスポッティング』『ウォールフラワー』など、映画好きよりも音楽好きにウケている映画があるけども、あれは一体何なのか、と映画好きの友人に聞かれたことがある。前述の「ポップ音楽を聴くうち自然と身につくエッセンス」がどのように反映されるか、一番分かりやすい例が映画のサウンドトラックだと思っているので、『(500)日のサマー』で主人公が恋に落ちるシーンを例に説明したい。
 
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この映画でおそらく一番有名なそのシーンは、エレベーターでThe Smithsを音漏れさせている主人公が、「スミス聴くの?私も好き!」と、かわいい女の子に話しかけられるくだりである。
 
その手の音楽に興味がない人からすると、「共通の趣味を持つ男女の出会い」としてあっさり処理されうる場面だが、スミスを聴く人にとっては、ここで強烈な文脈の流入というか、本歌取りのような現象が起こっていて、スミスのリリックと共に、少し前で挙げた「ポップ音楽を聴くうち自然と身につくエッセンス」が流れ込んでいる。
加えて、正直なところ、スミスが好きな女なんてのは学校で圧倒的少数派の内向的な人間で、またその立場に自覚的な人物である。まず映画のように天真爛漫なかわいい女ではない。また、「私がもっと美人だったらこんなに音楽好きにはならなかった」と言ってのけるような、ひねくれたアイデンティティ形成をしている可能性も高い。だからエレベーターで主人公が、ときめきと共に「え、こんなかわいい子が?」という心境になっていることなんかも分かるけど、その辺の音楽文化を通っていない人からすると、ハイコンテキストすぎて伝わらない。
 
このように、ポップ音楽の文脈を下地にした場面が多いから、音楽ファンとそれ以外でギャップが生じるわけだけど、ここで非常に面白いのは、そのポップ音楽の下地を何らかの意味で「習得」しようにも、あとからスミスのアルバムを聴こうが、ポップ音楽史を調べようが、音楽雑誌を読もうが、「スミス好きな女性のティーン時代の立ち位置とアイデンティティ形成」について直接書いてあるとは考えづらく、その文脈がなかなかに非言説的なところだ。つまり、映画の背景にある文脈が、単なるタグ付けで済む情報の付加ではなく、かつてその音楽を聴いた観客の体験に呼びかけているわけだ。
 
トレインスポッティング』のレントンが部屋でひとりイギーポップを聴くシーン、『ウォールフラワー』で、車から身を乗り出してボウイを大音量で流すシーン、どれもまさしく本歌取りだが(同世代の白人、スコットランド人、アメリカ人でこそ感じられる情緒もあるだろう)、では、それぞれのシーンが言わんとするところを、まったく門外漢の人に、「このシーンにはこういう意味があるんですよ」と丁寧に列挙していったところで、それは伝わったことになるのか?情報としてフラットに語っただけでは、転写できない体験があるのではないか?というところに最近よく思い至る。そしてこの「君には分からないよ」という、ある種のスノビズムが、「警察」という単語とともに、時流に沿った形で浮上しているのではないか、というのが、この記事の要点に当たる。
 
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余談ながら書いておきたいのが、ジブリの映画が公開されるたびに、ネット上で流行る謎解きについてである。
あの現象は、普段アニメも映画も観ないマスな層に作品が放り込まれるせいで、アニメの手法や映画のショットなど、お里の拡張子で作品を観る目を持たないマスな層の受け皿として、謎解きが盛り上がるのだと思っている。村上春樹なんかの場合も同様だが、謎解きオタクの残念なところは、描写の美しさ、うまいセリフ回しなんかには盲目なのに、「橋だ!ここから別世界だ!」「エレベーターだ!縦移動だ!」「神話のキャラクターだ!」みたいな安易な結びつけを延々やるところ。宮崎駿村上春樹が特に意識的な援用をしているとはいえ、ポップカルチャーに神話の構造と物語論を適用しだしたらキリがないし、基本的にどこへも繋がらない話なので、視野の狭さに毎回辟易している。
 
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話と時間を少し戻すと、2016年、ドナルド・トランプの当選直後、大きな反発と共にリベラルが結集して、「ああ、スノビズムが死んだな」と強く強く思ったもので、あれからスノッブな態度は、高等遊民の戯れになってしまった感がある。今回の「"ヒップホップ警察"炎上」も、仮にトランプ当選直後なら、恐らくもっと和らげた形での言及が多かったのではないだろうか。他人を目の前にして「お前らに分かってたまるか」、愛のある言い方だと、「半年ROMれ」などと言って壁を作るスノビズムは、せいぜい5年10年の単位とはいえ、時代のムードに逆行している。今の潮流は、多様な価値観を認めよう、対話をしよう*2、だと言っていい。
 
少々話が飛躍するけども、そんな理想気体のような思想を体現する言説に、「頭のいい人は難しいことを分かりやすく説明してくれる」があると思っている。日常のレベルでありうる話なのに、耳にするとどうにも胡散臭いと感じる人は多いはずだ。
自分なりにその胡散臭さを言語化すると、まずここで言う「頭のよさ」が、頭の回転の速さや、小さな関連を見出す洞察力、論理性、正確な記憶力、などに関わる一般的な「頭のよさ」とはあまり関係のない弁論術の類であることが挙げられる。むしろ学問(ここでは数学や物理なんかを念頭に置いている)において「頭のよさ」は、難解で抽象的な物事を、難解で抽象的なまま処理する能力である。でもって、分かりやすい説明の外には、伝えることを断念した部分がある。前の段落を踏まえると、体験に依拠した話は、情報として記述しても、なかなか伝わらない部分が生じる。「頭のいい人は難しいことを分かりやすく説明してくれる」という明言に対してほとんど反射的に生じる疑念は、「分かりやすく説明してくれれば分かる」というまさしくその態度への不信であり、スノビズムの本質がそこにある。
 
しかしながら、トランプ当選というある意味ソフト的な事件に対して、ハード的な変化では、twitterにせよApple Musicにせよ、様々な媒体から人のキュレーションを流用するのが簡単になっており、本来なら知るはずのなかった何かに偶然触れるという、いわば「誤配」の機会は増えている。つまり、トランプ後の情勢でPC的な規制がいったんは強まったものの、表面を掬っただけの文化享受が増えているぶん、実はあらゆる分野で「警察」が生じやすい環境にあるといえるのではないだろうか。
 
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今回の話にようやく戻ると、「ヒップホップ警察」という言葉ひとつ取っても、「『ロックとは何か』を定義することはほぼ無意味だが、『ヒップホップとは何か』を考えることにはもっと味がある*3」というヒップホップ文化特有の性質ーー要するに「ヒップホップには特に警察が多い」という事情がある。それでも、「あまりクラシックなヒップホップを聴いてるわけではなさそうだけど、そんなこと関係なく推せるな」という、ゆるふわギャングのようなアーティストもいるわけで、つまるところ新参は、単に古典の知識量ではなく、あるジャンルの根っこに宿る精神性に対して敬意があるかどうかで、ファンからイン/アウトの判断がなされるのだが、あの対談からそういう敬意を感じるのは難しい。これはダイノジ大谷の活動全般に言える話だけども。
 
 
まとめると、ここで言いたいのは、音楽の聴き方はこうでなくてはならないとか、よく知らないやつは来るなとか、そういう単純な権威付けや門前払いではない。誰もが最初は新参なわけで、「よく知らないけど面白そう」で掘り進めるうち、ある分野に自然と明るくなるものだ。そしてその過程で得たエッセンスを持ち帰るわけだが、どう転んでも、そのエッセンスは排他性を含んでしまう。本当に他者との対話を望むなら、趣味人が門前払いしてはいけないのはもちろん、門外漢は、「◯◯警察」というレッテル貼りが、そもそも対話の可能性を閉ざしていることに自覚的であるべきだし、他者が時間をかけて積み上げた文化には、それなりに敬意を持って接した方がいい。
 
 
 
 

*1:ここでいうポップ音楽趣味とは、自分の世代なら、10代のときArctic MonkeysやVampire Weekend、同時代の日本のロックバンド、遡って90年代のベストリストや、その前のニューウェイブ、パンクなど(この辺は個人差がある)を聴き、今は大まかに言ってフジロックやピッチフォークフェスに出演するアクトを聴く趣味を持つ人のことです、アーティスト名やジャンルは世代によって多少異なる

*2:この思想に乗れないわけではなくて、もう少し但し書きが必要だと感じるだけである

*3:ロックの特質は雑食性、何でもありなところに宿っている、ヒップホップの言葉は、元来コミュニティに根ざしたものが多く、ビーフやバトルに見られるように、何がイン/アウトかというシビアな線引きを仲間内で判定しあう文化が強い、くらいの意味

昔を語るということと、20センチュリーウーマンの感想

 

  休みの日に保坂和志のエッセイを読んでいたら、ギリシア悲劇エウリピデスの話が出てきた。話題に上るのは『トロイアの女』なのだが、面白いのは、ギリシア軍に破壊し尽くされたトロイアの街で、トロイアの女王ヘカベがこんな台詞を吐くところだ。

 

「しかしまた、神様が、これほどまで根こそぎに、トロイアを滅ぼされることがなかったら、わたしらは名も知られず、後の世の人に歌いつがれることもなかったであろうし……。」

 

これは時制の上で突出した印象を与える。崩壊したトロイアにあって、その悲劇が語り継がれた未来から話をしているからだ。『トロイアの女』を観ていた客が、あるいは脚本の読み手が、それまで物語に没入していたとしたら、この発言につき当たって誰しもこう思うはずだーーーー未来からの視点で語るお前は、いったい何者なんだ、と。

 

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かなり遠いところから話を始めてしまったけど、この日記で話題にしたいのは一本の映画である。『 20センチュリーウーマン(原題:20th Century Women)*1』は、1979年のサンタバーバラ*2が舞台の映画だ。中学生の主人公が、母親や女友達、同じアパートに住む住人たちとの関わりを通じて成長する様子が描かれる。

観ていて面白いと同時に不可解だったのは、1979年ーー時代はパンク全盛だった、という風なナレーション(うろ覚え)とともに映し出されるのが、主人公が向かったライブハウスではなく、数秒ごとに切り替わる当時の写真だったこと。困惑しながら、「ちゃんとライブの映像を撮れよ…さぼるなよ…」と思っていたけど、観終わってしばらく経った今だと、あれは歴史に対してある意味で誠実な距離の取り方だったのではないかという気がしてきた。この映画には、渦中の人間を撮りながらも、常にそれをどこかへ位置付けるような視点がある。

 

映画で一番大きく描かれる人間関係は母親との関わりだが、その親子関係にしても、映画の終わりごろに現れる決定的な会話、

「父さんと愛し合ってた?」

 

「うーん、と言うよりは、『愛し合うべきだ』と思ってた。誰かと愛し合うことがないまま一生を終えるのが怖くて、そのとき最善の選択をしたの」*3

が挿入され、主人公は「今までと違って、これから母さんは自分に本心を話してくれるようになるだろう」という予感を得る。だがそれに続いて、その予感は裏切られたというナレーションが入る。

ヒロイン(エルファニング)についても同じだ。主人公の幼なじみは、セックスするでもないのに毎晩主人公の部屋に忍び込む。家族ぐるみの付き合いがあり、主人公にとっては昔から最愛の、だが振り向いてはくれない女の子である。スクリーンの中では最重要人物の彼女だが、最後の最後に入るナレーションで、大学進学を機に主人公一家とは疎遠になってしまい、のちに夫とフランスに住んだという未来が語られる。

つまり、この映画の中で、時代を語る場面を担うのは写真であり、物語に決定的な線引きを与えるのは「未来からのナレーション」なのだ。

 

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パンクのムーブメントも、自分にとっての運命の相手も、母と分かり合えたというたしかな手応えも、スクリーンに映し出される限りでは画面の中の事件が全てだけれど、それは実のところ何本もの人生が重なったある一点をぎゅっと拡大したもので、ズームを解けばそれぞれの線は全く別の行き先へ伸びていく。おそらく誰もが経験するように、これが全てだと思えた確かなものは、例外的な時代の例外的な場所で、掠めただけの関係だ。

時代とともに生きる、時代を語る、という行為にはうまく言い難いところがたくさんある。バブルを共に経験した両親と話していても、「どれだけお金を使ってもなくならなかった、タクシーだけで月20万使っていた」と話す父と、「そんなことは全くなかった、今と一緒」と話す公務員の母では、ほぼ同じ場所で同じ空気を吸っていた2人とは思えないくらいの乖離がある。時代の空気というのは、確かにそこにあった気がするのに、2人以上に語らせれば真相は藪の中になってしまうような在り方をしていたり、事後的に生成する可能性や幻想だったりで、そのどれもが簡単には否定できない断片だ。

トロイアの女王や、『20センチュリーウーマン』に登場する人物たちと違って、ふつう人間というものは、自分の身を取り巻いて今まさに起こりつつあることについて、いったい何が決定的なのか、判断がつかないようにできている。だから裁定をつけるのはいつも何かが起こったそのあとで、それはまさしく未来からのナレーションになる。大抵の人は、小銭が落ちていないか気にするように、未来の自分が助言してくれないかと思っているけど、人間がナレーションの聞き手になれないのはもちろん、私たちは必ず、過去へとナレーションを送る側に立っている。そしてそのことは、ぞっとするほどに考えないまま生きている。

そして、とても大事なことだが、『20センチュリーウーマン』はマイク・ミルズの「自伝的」映画である。

 

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ここまで来て、この作品の美しいシーンや軽妙な会話、イカした音楽の使い方を無視して、ある種のメタフィクション性ばかりを強調するのは、映画を踏み台にしすぎたという気持ちがある。ただ、この映画については、どうでもいいことながら、主人公と重なる自分の家庭環境や、15歳当時の音楽趣味なんかを抜きにして観れないし、劇場を出たあと友達と言い合うような感想は恥ずかしくてなかなか言えないところがある。この家庭環境ならこうだよなとか、まあフェミニズムの本読むよなとか、童貞が関わるには早い女の子ばっかだなとか、93年生まれの15歳にはGirlsのLust for Life*4があってよかったよね、的な…。

ではレビューらしいことを書きたいかというと、いちブログで、映画に登場した固有名詞を並べて、後から調べた年号を時系列順に整理して、パンク史やその後のライオトガールがどうのと時代考証をする気も全然ない(ダサい…)。

 

まとめると、言いたいのはこういうことだ。この映画にはパンクもあれば、カーターの演説も、20世紀初頭からの女性の社会進出もある。それと重なり合う形で、アートクソ野郎と呼ばれること、愛し合うの難しさや、女の子との逃避行、子供を持つことの恐怖も描かれる。そういう大文字の歴史と個人史を二重うつしにした状態で、ズームのつまみを回し、ピントをずらすーーーこの映画は、そのときの酩酊や悲哀をつかまえようとしている。

 

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映画のアイコンになっているのは、トレーラーで流れていて、作中でも最高な使われ方をするこの曲。この、優しくてリラックスしているけど、ほんの少し不安なフィーリング、笑いながらはにかんでいるような不確かな感覚、を淡い映像に重ねてくれただけで、観ている間は幸福だった。海岸線から町、球場や学校へと移ってゆく歌詞は、この映画の脚本とも空撮とも呼応していますね。

Talking Heads The Big Country (HQ) - YouTube

 

 

*1:打つ段になって、ようやくwomenが複数形なことに気づいた。この映画は一人の女の生涯を映すが、同時にその時代の女たちの話でもある

*2:西海岸、LAのちょっと北西

*3:この会話も記憶を頼りに書いているので、細かいところは違います

*4:2008年リリース。自分に強い父親がいたら、マッチョな男友達がいたらなあ、そしたらおれはもっとまともになってたはずなんだけどな、という歌。MVも最高で、この世で一番良い歌リストに入るようなやつです

とりとめのない日記・雑記

 

6月〜7月上旬の、とりとめもない日記・雑記です。

 

‪<カメラを向けられる>

訓練されていない人間に、いざ撮影、とカメラを向けると、動きがぎこちなくなる、ただ歩くだけで不自然に見えてしまう、という図は簡単に想像がつく。今日、「そういう時は何かものを持たせて撮ればいいんだよ」という話を聞いて、視界がぱっと開かれたような気持ちになった。

いざカメラを向けられて歩くとき、人は普段自然に行なっていた動作を意識化して、足の角度や力の入れ具合など、思いつく限りの各項目で適切な動作を出力しようとする。そして、その行為の煩雑さがキャパを超えたり、項目が網羅できない部分が多かったりで不自然に写ってしまう。何かを手に持つと、網羅すべき項目が減って、たぶん少しは歩きやすくなるんだろうな。

自分の体験に照らせば、数年前、友人の撮影に付き合ってカメラを向けられたことがあるが、できあがった映像で歩く自分は、まあ驚くほど気味が悪かった。それにはもちろん自身を見る気持ち悪さも含まれるけど、そこに写っていたのは、歩いたりスマホを取り出したりの動作全てが不自然で、いかにもぎこちない、立つ瀬のない人間だった。

だがここで言い訳したいのは、画面の中で歩いていた自分はたしかに「手ぶら」だったということだ。

 ネクタイ結びからブラインドタッチまで、体で覚えている類の記憶は「非宣言的記憶」と呼ばれ、言葉で手順を再現しようにも、何かが抜けたり順序が前後してかえって伝わりにくいようにできている。こういう静的/動的なプロセス(ROMとRAMっぽい)はAIに転写するときどうなるのかとか、記憶宣言的(静的)/非宣言的(動的)という枠組みで人の動作を捉えると、役者は何の訓練をしているのか*1、などと考え出すと興味は尽きないが、記憶と演技の関係、みたいな演劇論は無限にありそうだし、これ以上書くといかにも平田オリザを読みかじった人の演劇話になりそうで恥ずかしい*2のでこの辺で…。

そういえば、先週くらいの『ハイキュー!!』で、主人公チームの控え選手がサーブに立つ、緊張を抑えるため、いつものルーティンをこなそうとするが、練習のとき見えていた非常口の緑の灯りが隠れて見えない、その途端、今まで耳に入らなかった声援や場内アナウンスをはっきり意識してしまい、集中が途切れる、というシーンが描かれていて、この漫画はこういうとこが面白いんだよな〜、流石だな〜と思った。これもスポーツではよくある、非宣言的な技能にふせんを貼る作業だ。

 

 

 <  人生〜 >

⑴「トレインスポッティング評で、レントンの倫理観にダメ出ししたやつがあったよ」と友達から夜中にLINEがきて笑った。トレスポ観たあとで倫理の話すること自体が面白いけど、(ここからネタバレ)聞くと主人公レントンが友人カップルのハメ撮りを勝手に拝借した件でまた笑った。ことの結末から因果でたどっていくと、友人のサムが荒んだ生活の果てに脳炎で死んだきっかけはレントンの盗みにある、という話だけど、当初の意図を抜きにして、因果や可能性を使って大元を導きだすのはまあ不毛な行為だ。

 ⑵フランス映画でよく出てくる"C'est la vie!"というセリフ。直訳は「人生だ」だけど、例えばトリュフォーの映画では、ナンパ師が女の子に声をかける、

 

「でもこれから予定があるのよ」

「そうか、それは残念」

「C'est la vie」

 

と続いたりして、なんとなくのニュアンスは伝わる。「まあ仕方ないよね」「人生そんなもん」みたいな含みだろうか。これは英語なら、たぶんヴォネガット(や、それを流用する村上春樹)の「そういうものだ」に似ていて、日本語ならきっと、関西弁の「しゃーない」に近い。*3だからトレスポでサムが死んじゃったのはかわいそうだけど、まさしくC'est la vie(セラヴィ〜)って感じ。

自分の話のように書いたけど、フランス映画によく出てくるセラヴィがね……という話は恋人が話していて素敵だなと思ったもので、私はトリュフォーの映画を観たことがない。

 

 <外国人の友達>

最近韓国人の友人ができた。私にとって身近な韓国との接点であるDEANやhyukohは何を言っていて、どんな風に聴かれているかとか、「先輩後輩の関係が強固だから、相手の年齢を確認しないと話し方が定まらないって本当?」みたいな文化あるあるを確かめてみたいとか、いろいろ話したいことはあったのだが、彼女は話がそういう韓国文化の方面へ傾くと、少し戸惑った風に「え、なになに、これって文化交流の場?」と言うので、胸をトンと衝かれたような感覚になった。はっとした。

 

日本で外国人の友達というと、その国代表みたいに扱われがちで、出会い頭に形式的な国際交流が始まるのは想像に難くないけど、日本で暮らす韓国人という立場なら、そういうのは何十回も通過していて「またこれか」という感じが頭をよぎるんだろうなと思った。彼女が、意識高いテンプレのような同僚に対して、「留学経験あるからって私と仲良くできると思うなよ!」と毒づいていたのはとても良かった。しばらく話をしたあとで、「でもあなたは儀礼的に国のことを聞いてるんじゃなくて、まっとうに韓国に興味があるって分かるから、質問されるのは嫌じゃないよ」と言ってくれて、だいぶ気持ちが楽になった(とはいえ、やはり根掘り葉掘り聞きたいとも、聞くのが許されたとも思わなかった)。

他人のことを、「自分が何か言うと跳ね返ってくる反響板」くらいにしか捉えていない人はたくさんいて、自分はそうならないよう心がけていたつもりだったけど、「外国人」というベタなファクターが差し込まれて未知の部分が増えるだけで、自分も簡単に無礼な人間になりうるのだと思った。気をつけよう。

 

(余談だけど、その韓国の友人とは関係なく、最近は韓国文化全般や、韓国社会とジェンダーの関わりについての本を図書館で借りて読んだりしていて、何気ないエピソードひとつが興味を惹くものだったりする。

例えば、韓国では出産を終えてすぐワカメのスープを飲む(受験受かった時なんかも、人生のあらゆる節目で飲む)風習があるのだが、ベッドでスープを飲む母は、自身の出生のことや、自分の母のことを思い出すだろうし、そうなると私は、歴史の年表でよくある、始点も終点も違う直線が19xx〜20xxなどといくつも伸びている図を想像する、そこに出産という点が記録され、交わることのない平行な縦線同士に、あみだくじのように出産の点同士をつなぐ横線が引かれる、新しい母親は、自分の母親もこうだったのだろうかと考える、ところで、そもそも他人のことが「わかる」とは、似た回路を他人に見出すそういう補助線のことではなかったか、と考えだすと、あみだくじにはさらに無数の横線が引かれて、複雑になった図が頭の中でグニャグニャ歪む、しかし国の風習レベルでそういう補助線が認定されていて、価値観の再生産がごく自然に行われるのはよくできていて面白いし、それは当然儒教と関わりがある、また、時期がら周りの新入社員を見ていて、エリートたちが休日返上で出し物の稽古をして劇を披露するような風習は極東アジアにしかないだろうな、などと、いろいろなことをまとまりも発展もなく考える、そして、私はそういうことをもっと簡潔に、相手を混乱させないような聞き方で、韓国を知る人に質問してみたいと思っていたわけだ。

ちなみに彼女に、「日本でいう新入社員の劇みたいな風習ある?」と聞いたら、韓国の大企業、LGやサムスンでは会社ごとにダンスが決まっていて、新入社員はそのダンスを覚える、下らない伝統だと思いつつも、大企業に入ること自体が難関なので、みんなその立場に優越感も感じているはず、という話をしてくれた。)

 

 異文化交流といえば、先月観た冨田克也監督の『バンコクナイツ』を思い出す。面白いところもたくさんあるのだが、映画全体としてはあまりに負の断点が多すぎて楽しめなかった。

バンコクナイツ』には作中ではっきり伝えたいことがある。その問題意識は面白いけど、その要約があれば満足というか、作品の方は単に問題意識のネガでしかないと感じてしまう。だから監督の冨田克也は自分にとって、インタビューや書きものには興味があるけど、作品そのものにはそれほどの魅力を見出せないというタイプの作家だ。*4

いろいろな要素が絡むのだが、作中で一番興味深いテーマを約言すると、『片方がもう片方の顔を札束ではたく、それ以外のやり方で文化交流をするにはどうすれば良いか』である。映画の後半でタイの田舎、イサーン地方が出てくるが、撮影班は、現地の人たちにぽんとお金を渡して撮らせてくれと頼み、家にずかずか入る、といういかにも普通のドキュメンタリー的手順を踏まない。話を冒頭のトピックに繋ぐなら、そうして撮られた現地の人々はみな「手ぶら」で「ぎこちない」はずだ*5。『バンコクナイツ』のスタッフたちは、同じ地域で何週間も生活し、打ち解けてきたところで初めてカメラを向ける。こういう手法は掛け値無しに素晴らしいし、その打ち解けた空気を画面に捉えるという試みも実を結んでいると思う。

 

異文化交流という言葉に引っ張られて思い出しただけで、日本人と韓国人の友人関係は、タイの村落にカメラを入れるとか、落書きを美術館に所蔵するとか、そういう文化搾取になりうるものとはまた別で、基本的にもっと水平的なものだと思う。ただ、どんな交流も、沖縄問題のように力関係が働いている背景や、相手の言動をナショナリティや育ちに還元してしまう危険について意識的でありたいよね、という話です。こう書くと当たり前に聞こえるけど、気を付けていてもできない時がある。

最後にこの夏延々聴いてる韓国のアーティストの曲を貼っておきます。

DEAN - love ft. Syd - YouTube

 

 

love (feat. Syd)

love (feat. Syd)

  • DEAN
  • R&B/ソウル
  • ¥250

 


 

*1:濱口竜介感…

*2:人間の俳優は50回、100回と舞台を経るうちに洗練された無駄のない動きになるが、そのぶん新鮮味やリアルさは失われることを、ロボットに演劇をさせる研究で定式化したり、体操選手が難度の高い技を習得するとき、体の動き以外に、天井や床の見え方も含めて記憶するが、それが演劇の稽古でも起こるーー普段見えている小道具を隠すだけでセリフが出てこなくなる、等いろいろ面白いことを言っています。

*3:綿矢りさの『かわいそうだね?』ですね

*4:自分にとってはtofubeatsも似たような存在だったりする

*5:濱口竜介感…②