とりとめのない日記・雑記(2)

有楽町で中学の同級生と飲んだ帰り、書店を探してあの辺りをふらふらと歩いていた。Googleによると、付近で21時以降も営業しているのは銀座の蔦屋書店だけとのことで、千代田区と中央区の境目はこの辺か?などと考えながら、まだまだ活気のある夜の街を通り抜けて銀座シックスへと向かった。

数分後、銀座シックスへ着いたはいいが、代官山のように路面店でない銀座店は視認できず、ビル全体は消灯済で真っ暗、特に目印もなく、この巨大な直方体のどこから中に入ればいいのかと困惑していた。うろうろ歩き回って見つけたエレベーターの中にすら蔦屋の文字はなく、6F Booksと小さく書かれているだけだった(たしか)。それでも、エレベーターの扉が開くときらびやかな店内が広がっているから不思議な感覚に包まれる。

 

ドトール(コーヒー220円)で作業するということは、ボロ着で体臭のきつい謎のジジイや、隣でぶつぶつとクロスワードパズルを始める謎のジジイに遭遇するリスクを冒すということで、そういう謎のジジイに降参したときは、上島珈琲(コーヒー400円)や純喫茶に移動するのだが、銀座の一等地に立つこの書店は、高貴な喫茶店よろしく広告やデザインの工夫で密かなゾーニングを施して、「謎のジジイ的な何か」を排しているのかも…それとも昼は普通に入れるのかも…などと酔った頭で考えながら、目当ての本を探して棚を見て回った。ブックオフみたいに、椅子で眠り込んでいる人や、閉店まで立ち読みをしている人は見当たらなかった。

 

目的地に辿り着いて機嫌をよくしたので、さっきまで一緒にいたやつと共通の友人に電話をかけた。もしもし、今まで岸田と飲んでたよ、元気してる?の挨拶もそこそこに、今自分の居る本屋がいかに外から分かりづらい場所にあったかを説明した。電話口の女の子は、その話を、
「ああ、偶然入れない場所ってことか」
と要約した。その時不意に、今までの自分の人生で、偶然には辿り着けなかった場所や知りえなかった人、それとは反対に、偶然にしか知り合えなかった人たちのことが頭をよぎった。今電話口にいるこの子も、さっきまで一緒にいたあいつも、中学や高校というあの時分を過ぎれば、二度と交わらない人生だったろうと思った。

 

レジで会計を終えた。突然だったのにありがとう、おやすみなさいと電話を切った。切った途端、自分こそが酔って電話しながら歩く謎のジジイだったことを自覚して笑った。そして、エレベーターの前で待ちながら、この扉の向こうには、今まで自分が通り抜けてきた扉が全部、ずらっと一列に並んでいる…という荒唐無稽な想像にとらわれていた。その中には「偶然には通れなかった扉」「偶然にしか通れなかった扉」がどちらもたくさんあるはずだった。清濁併せ飲むとは、このふたつの扉を往き来することだと謎の合点をした。行きと同じようにひとりでエレベーターを通過した。これで帰りに残された扉は東京メトロと自宅だけになった。

 

帰路の半蔵門線で、自分はなぜ「成人式行かなかった」と高く掲げるみたいにtwitterで言う人種が嫌いなんだろ、地方に生まれた文化オタクの特徴ってなんだろ、などとぼんやり考えた。地方に生まれるのはいろんな意味で非効率だけど、何年かかけて、効率の観点からは取り戻せない何かを負うのも悪くない、と思うようになった。この手の葛藤は、当人にとって結論が決まっているので、何年かかるかの話でしかない。そのあとは地元のことが頭に浮かんだ。土建屋の息子だったのが、父親の死をきっかけに会社を売り払い、今はイスラエルでフリーターをしているという、変てこな経歴を持つ小学生以来の親友を思い出した。SNSを活発にやるわけではない、音楽や映画の趣味が合うわけでもない。家が歩いて5分のところになかったら、そいつとはすれ違う機会すらなかったし、イスラエルレバノンの奇妙な入国審査や、イスラム教徒とユダヤ教徒が恋する現場のことを知ることもなかった。

 

地元を離れた結果、先週トリアーの映画観たんだけどさ、宮本輝の選評やばいんだけどさ、などと(その時々で興味のある映画や本のことを)話し始めても、あっさりそれを受け入れてくれる人たちとばかり遊ぶようになった。気楽になった部分は大きいけど、時折、自分がもう今いる場所にしかフィットしないんじゃないか、二度と戻れないほど偏った人間になってしまったんじゃないか、という不安に襲われる。就職や結婚が関わってくると特に、「わかる人だけわかってくれればいい」というスタンスが通じなくなり、会社の人や自分の母親は「わかってくれる人」ではないという当たり前のところを無視できなくなる。自分の選んだものだけでも、選べなかったものだけでもやっていられないから、自分で自分の人生に補助線を引く。それは結局、背後に延々と続く扉を振り返るということであって、「久しぶり、元気してる?」と誰かにメッセージを送るとき、人は自分がかつて選べなかった何かを選び直しているのではないかと思った。

ヒップホップ警察を追い返せ!!とこの時代のスノビズムについて

昨日からよく見るこの記事。
ヒップホップ警察を追い返せ!!【ゲストぼくのりりっくのぼうよみ】|柴那典 /大谷ノブ彦|心のベストテン
 
 
大して意味もない飲み屋の談義みたいな話だけど、たぶん、ダイノジ大谷に対するそもそもの風当たりの強さや、柴那典の脇の甘さや、みんな日本のゲットーで生まれたヒップホップを全く認知してないところなんかが重なって炎上している。(それでも、ぼくのりりっくのぼうよみの彼は、この件で非難されるのは不憫だなーというくらい穏当なことしか言ってないと思う)
 
どんな分野でも、門外漢が趣味人に叩かれるという図はよくあるけど、(ヒップホップを含めた)ポップ音楽趣味*1な自分の体験に照らすと、どうにもモヤモヤする瞬間は確かにある。例えば、社会学者が邦ロックバンドの受容され方についてコメントする、TLの弁護士がたまたま知ったDirty Projectorsを聴いてあれこれ評する、『UVERworldヴィトゲンシュタイン』という論考の存在を知る、などのタイミングで、「いや、そういうことじゃないんだよな…」と感じてきたのだが、個別の状況は違えど、何らかの文化に膨大な時間をかけてきた趣味人には、似たような経験を持つ人が多いだろう。
 
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ポップ音楽を聴くことには、単に音を聴く以上の意味がある。ゲイのアーティストを数多く知ることで、トランスジェンダーに関する認知や理解が深まるし、大衆性とエッジーさが反比例する様子や、セルアウトの概念を理解する、クラスに1人より稀少な趣味なので、アウトサイダーとしての意識が育つ、ドラッグカルチャーやサイケデリックな音を通してエスケーピズムを理解する、Vampire Weekendの使ったアフリカのビートに対して「白人による文化搾取だ」という論争が起きれば、エスニシティについて考える機会を得る、Arcade FireやWilcoが歌うアメリカの政治の混迷から、アーティストが政治に言及する姿勢を知る、などなど、今思いつくだけでも挙げだすとキリがない。文化搾取や政治性の話なんかも、固有名詞を入れ替えれば、世代に関わらず多くの人が通過するであろう問題意識だ。
 
以前、『(500)日のサマー』『トレインスポッティング』『ウォールフラワー』など、映画好きよりも音楽好きにウケている映画があるけども、あれは一体何なのか、と映画好きの友人に聞かれたことがある。前述の「ポップ音楽を聴くうち自然と身につくエッセンス」がどのように反映されるか、一番分かりやすい例が映画のサウンドトラックだと思っているので、『(500)日のサマー』で主人公が恋に落ちるシーンを例に説明したい。
 
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この映画でおそらく一番有名なそのシーンは、エレベーターでThe Smithsを音漏れさせている主人公が、「スミス聴くの?私も好き!」と、かわいい女の子に話しかけられるくだりである。
 
その手の音楽に興味がない人からすると、「共通の趣味を持つ男女の出会い」としてあっさり処理されうる場面だけど、The Smiths(やそれに類する音楽)を聴く人にとっては、ここで強烈な文脈の流入というか、本歌取りのような現象が起こっていて、スミスのリリックと共に、少し前で挙げた「ポップ音楽を聴くうち自然と身につくエッセンス」が流れ込んでいる。
それに加えて、正直な話、スミスが好きな女というのは学校で圧倒的少数派の内向的な人間で、またその立場に自覚的な人物であり、まず映画のように天真爛漫なかわいい女ではない。また、「私がもっと美人だったらこんなに音楽好きにはならなかった」と言ってのけるような、ひねくれたアイデンティティ形成をしている可能性も高い。だからエレベーターで主人公が、ときめきと共に「え、こんなかわいい子が?」という心境になっていることなんかも分かるけど、その辺の音楽文化を通っていない人からすると、ハイコンテキストすぎて伝わらない。
 
このように、ポップ音楽の文脈を下地にした場面が多いから、音楽ファンとそれ以外でギャップが生じるわけだけど、ここで非常に面白いのは、そのポップ音楽の下地を何らかの意味で「習得」しようにも、あとからスミスのアルバムを聴こうが、ポップ音楽史を調べようが、音楽雑誌を読もうが、「スミス好きな女性のティーン時代の立ち位置とアイデンティティ形成」について直接書いてあるとは考えづらく、その文脈がなかなかに非言説的なところだ。つまり、映画の背景にある文脈が、単なるタグ付けで済む情報の付加ではなく、かつてその音楽を聴いた観客の体験に呼びかけているわけだ。
 
トレインスポッティング』のレントンが部屋でひとりイギーポップを聴くシーン、『ウォールフラワー』で、車から身を乗り出してボウイを大音量で流すシーン、どれもまさしく本歌取りだけど*2、ではそれぞれのシーンが言わんとするところを、まったく門外漢の人に、「このシーンにはこういう意味があるんですよ」と丁寧に列挙していったところで、それは伝わったことになるのか?情報としてフラットに語っただけでは、転写できない体験があるのではないか?ということに最近よく思い至る。そしてこの「君には分からないよ」という、ある種のスノビズムが、「警察」という単語とともに、時流に沿った形で浮上しているのではないか、というのが、この記事の要点に当たる。
 
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余談ながら書いておきたいのが、ジブリの映画が公開されるたびに、ネット上で流行る謎解きについてだ。
あれは、普段アニメも映画も観ないマスな層に作品が放り込まれるから、アニメの手法や映画のショットなど、それぞれのお里の拡張子で作品を観る目を持たないマスな層の受け皿として、謎解きが盛り上がるのだと思っている。村上春樹についても同じだけど、謎解きオタクの残念なところは、描写の美しさ、うまいセリフ回しなんかには盲目なのに、「橋だ!ここから別世界だ!」「エレベーターだ!縦移動だ!」「神話のキャラクターだ!」みたいな安易な結びつけを延々やるところ。宮崎駿村上春樹が特に意識的な援用をしているとはいえ、ポップカルチャーに神話の構造と物語論を適用しだしたらキリがないし、基本的にどこへも繋がらない話なので、視野の狭さに毎回辟易している。
 
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話と時間を少し戻すと、2016年、ドナルド・トランプの当選直後、大きな反発と共にリベラルが結集して、「ああ、スノビズムが死んだな」と強く強く思ったもので、あれからスノッブな態度は、高等遊民の戯れになってしまった感がある。今回の「"ヒップホップ警察"炎上」も、仮にトランプ当選直後なら、恐らくもっと和らげた形での言及が多かったのではないだろうか。他人を目の前にして「お前らに分かってたまるか」、愛のある言い方だと、「半年ROMれ」などと言って壁を作るスノビズムは、せいぜい5年10年の単位だけど、時代のムードに逆行している。今の潮流は、多様な価値観を認めよう、対話をしよう*3、だと言っていい。
 
ちょっと飛躍するけども、そんな理想気体のような思想を体現する言説に、「頭のいい人は難しいことを分かりやすく説明してくれる」があると思っている。日常のレベルでありうる話なのに、耳にするとどうにも胡散臭いと感じる人は多いはずだ。
自分なりにその胡散臭さを言語化すると、まずここで言う「頭のよさ」が、頭の回転の速さや、小さな関連を見出す洞察力、論理性、正確な記憶力、などに関わる一般的な「頭のよさ」とはあまり関係のない弁論術の類であることや、むしろ学問(私は理系なので、ここでは数学や物理なんかを念頭に置いている)において「頭のよさ」は、難解で抽象的な物事を、難解で抽象的なまま処理する能力であることがぱっと思いつく。でもって、分かりやすい説明の外には、伝えるのを断念した部分がある。そして前の段落を踏まえると、体験に依拠した話は、情報として記述しても、なかなか伝わらない部分が生じる。「頭のいい人は難しいことを分かりやすく説明してくれる」という明言に対してほとんど反射的に生じる疑念は、「分かりやすく説明してくれれば分かる」というまさしくその態度への不信であり、スノビズムの本質がそこにある。
 
しかしながら、トランプ当選というある意味ソフト的な事件に対して、ハード的な変化では、twitterにせよApple Musicにせよ、様々な媒体から人のキュレーションを流用するのが簡単になっており、本来なら知るはずのなかった何かに偶然触れるという、いわば「誤配」の機会は増えている。つまり、トランプ後の情勢でPC的な規制がいったんは強まったものの、表面を掬っただけの文化享受が増えているぶん、実はあらゆる分野で「警察」が生じやすい環境にあるということだ。
 
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今回の話にようやく戻ると、「ヒップホップ警察」という言葉ひとつ取っても、「『ロックとは何か』を定義することはほぼ無意味だが、『ヒップホップとは何か』を考えることにはもっと味がある*4」というヒップホップ文化特有の性質ーー要するに「ヒップホップには特に警察が多い」という事情がある。それでも、「あまりクラシックなヒップホップを聴いてるわけではなさそうだけど、そんなこと関係なく推せるな」という、ゆるふわギャングのようなアーティストもいるわけで、つまるところ新参は、単に古典の知識量ではなく、あるジャンルの根っこに宿る精神性に対して敬意があるかどうかで、ファンからイン/アウトの判断がなされるのだが、あの対談からそういう敬意を感じるのは難しい。これはダイノジ大谷の活動全般に言える話だけども。
 
 
まとめると、ここで言いたいのは、音楽の聴き方はこうでなくてはならないとか、よく知らないやつは来るなとか、そういう単純な権威付けや門前払いではない。誰もが最初は新参なわけで、「よく知らないけど面白そう」で掘り進めるうち、ある分野に自然と明るくなるものだと思う。そしてその過程で得たエッセンスを持ち帰るわけだが、どう転んでも、そのエッセンスは排他性を含んでしまうのだ。本当に他者との対話を望むなら、趣味人が門前払いしてはいけないのはもちろん、門外漢は、「◯◯警察」というレッテル貼りが、そもそも対話の可能性を閉ざしていることに自覚的であるべきだし、他者が時間をかけて積み上げた文化には、それなりに敬意を持って接した方がいい。

*1:ここでいうポップ音楽趣味とは、自分の世代なら、10代のときArctic MonkeysやVampire Weekend、同時代の日本のロックバンド、遡って90年代のベストリストや、その前のニューウェイブ、パンクなど(この辺は個人差がある)を聴き、今は大まかに言ってフジロックやピッチフォークフェスに出演するアクトを聴く趣味を持つ人のことです、アーティスト名やジャンルは世代によって多少異なる

*2:同世代の白人、スコットランド人、アメリカ人でこそ感じられる情緒もあるだろうけど

*3:この思想に乗れないわけではなくて、もう少し但し書きが必要だと感じるだけである

*4:ロックの特質は雑食性、何でもありなところに宿っている、ヒップホップの言葉は、元来コミュニティに根ざしたものが多く、ビーフやバトルに見られるように、何がイン/アウトかというシビアな線引きを仲間内で判定しあう文化が強い、くらいの意味

昔を語るということと、20センチュリーウーマンの感想

 

  休みの日に保坂和志のエッセイを読んでいたら、ギリシア悲劇エウリピデスの話が出てきた。話題に上るのは『トロイアの女』なのだが、面白いのは、ギリシア軍に破壊し尽くされたトロイアの街で、トロイアの女王ヘカベがこんな台詞を吐くところだ。

 

「しかしまた、神様が、これほどまで根こそぎに、トロイアを滅ぼされることがなかったら、わたしらは名も知られず、後の世の人に歌いつがれることもなかったであろうし……。」

 

これは時制の上で突出した印象を与える。崩壊したトロイアにあって、その悲劇が語り継がれた未来から話をしているからだ。『トロイアの女』を観ていた客が、あるいは脚本の読み手が、それまで物語に没入していたとしたら、この発言につき当たって誰しもこう思うはずだーーーー未来からの視点で語るお前は、いったい何者なんだ、と。

 

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かなり遠いところから話を始めてしまったけど、この日記で話題にしたいのは一本の映画である。『 20センチュリーウーマン(原題:20th Century Women)*1』は、1979年のサンタバーバラ*2が舞台の映画だ。中学生の主人公が、母親や女友達、同じアパートに住む住人たちとの関わりを通じて成長する様子が描かれる。

観ていて面白いと同時に不可解だったのは、1979年ーー時代はパンク全盛だった、という風なナレーション(うろ覚え)とともに映し出されるのが、主人公が向かったライブハウスではなく、数秒ごとに切り替わる当時の写真だったこと。困惑しながら、「ちゃんとライブの映像を撮れよ…さぼるなよ…」と思っていたけど、観終わってしばらく経った今だと、あれは歴史に対してある意味で誠実な距離の取り方だったのではないかという気がしてきた。この映画には、渦中の人間を撮りながらも、常にそれをどこかへ位置付けるような視点がある。

 

映画で一番大きく描かれる人間関係は母親との関わりだが、その親子関係にしても、映画の終わりごろに現れる決定的な会話、

「父さんと愛し合ってた?」

 

「うーん、と言うよりは、『愛し合うべきだ』と思ってた。誰かと愛し合うことがないまま一生を終えるのが怖くて、そのとき最善の選択をしたの」*3

が挿入され、主人公は「今までと違って、これから母さんは自分に本心を話してくれるようになるだろう」という予感を得る。だがそれに続いて、その予感は裏切られたというナレーションが入る。

ヒロイン(エルファニング)についても同じだ。主人公の幼なじみは、セックスするでもないのに毎晩主人公の部屋に忍び込む。家族ぐるみの付き合いがあり、主人公にとっては昔から最愛の、だが振り向いてはくれない女の子である。スクリーンの中では最重要人物の彼女だが、最後の最後に入るナレーションで、大学進学を機に主人公一家とは疎遠になってしまい、のちに夫とフランスに住んだという未来が語られる。

つまり、この映画の中で、時代を語る場面を担うのは写真であり、物語に決定的な線引きを与えるのは「未来からのナレーション」なのだ。

 

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パンクのムーブメントも、自分にとっての運命の相手も、母と分かり合えたというたしかな手応えも、スクリーンに映し出される限りでは画面の中の事件が全てだけれど、それは実のところ何本もの人生が重なったある一点をぎゅっと拡大したもので、ズームを解けばそれぞれの線は全く別の行き先へ伸びていく。おそらく誰もが経験するように、これが全てだと思えた確かなものは、例外的な時代の例外的な場所で、掠めただけの関係だ。

時代とともに生きる、時代を語る、という行為にはうまく言い難いところがたくさんある。バブルを共に経験した両親と話していても、「どれだけお金を使ってもなくならなかった、タクシーだけで月20万使っていた」と話す父と、「そんなことは全くなかった、今と一緒」と話す公務員の母では、ほぼ同じ場所で同じ空気を吸っていた2人とは思えないくらいの乖離がある。時代の空気というのは、確かにそこにあった気がするのに、2人以上に語らせれば真相は藪の中になってしまうような在り方をしていたり、事後的に生成する可能性や幻想だったりで、そのどれもが簡単には否定できない断片だ。

トロイアの女王や、『20センチュリーウーマン』に登場する人物たちと違って、ふつう人間というものは、自分の身を取り巻いて今まさに起こりつつあることについて、いったい何が決定的なのか、判断がつかないようにできている。だから裁定をつけるのはいつも何かが起こったそのあとで、それはまさしく未来からのナレーションになる。大抵の人は、小銭が落ちていないか気にするように、未来の自分が助言してくれないかと思っているけど、人間がナレーションの聞き手になれないのはもちろん、私たちは必ず、過去へとナレーションを送る側に立っている。そしてそのことは、ぞっとするほどに考えないまま生きている。

そして、とても大事なことだが、『20センチュリーウーマン』はマイク・ミルズの「自伝的」映画である。

 

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ここまで来て、この作品の美しいシーンや軽妙な会話、イカした音楽の使い方を無視して、ある種のメタフィクション性ばかりを強調するのは、映画を踏み台にしすぎたという気持ちがある。ただ、この映画については、どうでもいいことながら、主人公と重なる自分の家庭環境や、15歳当時の音楽趣味なんかを抜きにして観れないし、劇場を出たあと友達と言い合うような感想は恥ずかしくてなかなか言えないところがある。この家庭環境ならこうだよなとか、まあフェミニズムの本読むよなとか、童貞が関わるには早い女の子ばっかだなとか、93年生まれの15歳にはGirlsのLust for Life*4があってよかったよね、的な…。

ではレビューらしいことを書きたいかというと、いちブログで、映画に登場した固有名詞を並べて、後から調べた年号を時系列順に整理して、パンク史やその後のライオトガールがどうのと時代考証をする気も全然ない(ダサい…)。

 

まとめると、言いたいのはこういうことだ。この映画にはパンクもあれば、カーターの演説も、20世紀初頭からの女性の社会進出もある。それと重なり合う形で、アートクソ野郎と呼ばれること、愛し合うの難しさや、女の子との逃避行、子供を持つことの恐怖も描かれる。そういう大文字の歴史と個人史を二重うつしにした状態で、ズームのつまみを回し、ピントをずらすーーーこの映画は、そのときの酩酊や悲哀をつかまえようとしている。

 

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映画のアイコンになっているのは、トレーラーで流れていて、作中でも最高な使われ方をするこの曲。この、優しくてリラックスしているけど、ほんの少し不安なフィーリング、笑いながらはにかんでいるような不確かな感覚、を淡い映像に重ねてくれただけで、観ている間は幸福だった。海岸線から町、球場や学校へと移ってゆく歌詞は、この映画の脚本とも空撮とも呼応していますね。

Talking Heads The Big Country (HQ) - YouTube

 

 

*1:打つ段になって、ようやくwomenが複数形なことに気づいた。この映画は一人の女の生涯を映すが、同時にその時代の女たちの話でもある

*2:西海岸、LAのちょっと北西

*3:この会話も記憶を頼りに書いているので、細かいところは違います

*4:2008年リリース。自分に強い父親がいたら、マッチョな男友達がいたらなあ、そしたらおれはもっとまともになってたはずなんだけどな、という歌。MVも最高で、この世で一番良い歌リストに入るようなやつです

とりとめのない日記・雑記

 

6月〜7月上旬の、とりとめもない日記・雑記です。

 

‪<カメラを向けられる>

訓練されていない人間に、いざ撮影、とカメラを向けると、動きがぎこちなくなる、ただ歩くだけで不自然に見えてしまう、という図は簡単に想像がつく。今日、「そういう時は何かものを持たせて撮ればいいんだよ」という話を聞いて、視界がぱっと開かれたような気持ちになった。

いざカメラを向けられて歩くとき、人は普段自然に行なっていた動作を意識化して、足の角度や力の入れ具合など、思いつく限りの各項目で適切な動作を出力しようとする。そして、その行為の煩雑さがキャパを超えたり、項目が網羅できない部分が多かったりで不自然に写ってしまう。何かを手に持つと、網羅すべき項目が減って、たぶん少しは歩きやすくなるんだろうな。

自分の体験に照らせば、数年前、友人の撮影に付き合ってカメラを向けられたことがあるが、できあがった映像で歩く自分は、まあ驚くほど気味が悪かった。それにはもちろん自身を見る気持ち悪さも含まれるけど、そこに写っていたのは、歩いたりスマホを取り出したりの動作全てが不自然で、いかにもぎこちない、立つ瀬のない人間だった。

だがここで言い訳したいのは、画面の中で歩いていた自分はたしかに「手ぶら」だったということだ。

 ネクタイ結びからブラインドタッチまで、体で覚えている類の記憶は「非宣言的記憶」と呼ばれ、言葉で手順を再現しようにも、何かが抜けたり順序が前後してかえって伝わりにくいようにできている。こういう静的/動的なプロセス(ROMとRAMっぽい)はAIに転写するときどうなるのかとか、記憶宣言的(静的)/非宣言的(動的)という枠組みで人の動作を捉えると、役者は何の訓練をしているのか*1、などと考え出すと興味は尽きないが、記憶と演技の関係、みたいな演劇論は無限にありそうだし、これ以上書くといかにも平田オリザを読みかじった人の演劇話になりそうで恥ずかしい*2のでこの辺で…。

そういえば、先週くらいの『ハイキュー!!』で、主人公チームの控え選手がサーブに立つ、緊張を抑えるため、いつものルーティンをこなそうとするが、練習のとき見えていた非常口の緑の灯りが隠れて見えない、その途端、今まで耳に入らなかった声援や場内アナウンスをはっきり意識してしまい、集中が途切れる、というシーンが描かれていて、この漫画はこういうとこが面白いんだよな〜、流石だな〜と思った。これもスポーツではよくある、非宣言的な技能にふせんを貼る作業だ。

 

 

 <  人生〜 >

⑴「トレインスポッティング評で、レントンの倫理観にダメ出ししたやつがあったよ」と友達から夜中にLINEがきて笑った。トレスポ観たあとで倫理の話すること自体が面白いけど、(ここからネタバレ)聞くと主人公レントンが友人カップルのハメ撮りを勝手に拝借した件でまた笑った。ことの結末から因果でたどっていくと、友人のサムが荒んだ生活の果てに脳炎で死んだきっかけはレントンの盗みにある、という話だけど、当初の意図を抜きにして、因果や可能性を使って大元を導きだすのはまあ不毛な行為だ。

 ⑵フランス映画でよく出てくる"C'est la vie!"というセリフ。直訳は「人生だ」だけど、例えばトリュフォーの映画では、ナンパ師が女の子に声をかける、

 

「でもこれから予定があるのよ」

「そうか、それは残念」

「C'est la vie」

 

と続いたりして、なんとなくのニュアンスは伝わる。「まあ仕方ないよね」「人生そんなもん」みたいな含みだろうか。これは英語なら、たぶんヴォネガット(や、それを流用する村上春樹)の「そういうものだ」に似ていて、日本語ならきっと、関西弁の「しゃーない」に近い。*3だからトレスポでサムが死んじゃったのはかわいそうだけど、まさしくC'est la vie(セラヴィ〜)って感じ。

自分の話のように書いたけど、フランス映画によく出てくるセラヴィがね……という話は恋人が話していて素敵だなと思ったもので、私はトリュフォーの映画を観たことがない。

 

 <外国人の友達>

最近韓国人の友人ができた。私にとって身近な韓国との接点であるDEANやhyukohは何を言っていて、どんな風に聴かれているかとか、「先輩後輩の関係が強固だから、相手の年齢を確認しないと話し方が定まらないって本当?」みたいな文化あるあるを確かめてみたいとか、いろいろ話したいことはあったのだが、彼女は話がそういう韓国文化の方面へ傾くと、少し戸惑った風に「え、なになに、これって文化交流の場?」と言うので、胸をトンと衝かれたような感覚になった。はっとした。

 

日本で外国人の友達というと、その国代表みたいに扱われがちで、出会い頭に形式的な国際交流が始まるのは想像に難くないけど、日本で暮らす韓国人という立場なら、そういうのは何十回も通過していて「またこれか」という感じが頭をよぎるんだろうなと思った。彼女が、意識高いテンプレのような同僚に対して、「留学経験あるからって私と仲良くできると思うなよ!」と毒づいていたのはとても良かった。しばらく話をしたあとで、「でもあなたは儀礼的に国のことを聞いてるんじゃなくて、まっとうに韓国に興味があるって分かるから、質問されるのは嫌じゃないよ」と言ってくれて、だいぶ気持ちが楽になった(とはいえ、やはり根掘り葉掘り聞きたいとも、聞くのが許されたとも思わなかった)。

他人のことを、「自分が何か言うと跳ね返ってくる反響板」くらいにしか捉えていない人はたくさんいて、自分はそうならないよう心がけていたつもりだったけど、「外国人」というベタなファクターが差し込まれて未知の部分が増えるだけで、自分も簡単に無礼な人間になりうるのだと思った。気をつけよう。

 

(余談だけど、その韓国の友人とは関係なく、最近は韓国文化全般や、韓国社会とジェンダーの関わりについての本を図書館で借りて読んだりしていて、何気ないエピソードひとつが興味を惹くものだったりする。

例えば、韓国では出産を終えてすぐワカメのスープを飲む(受験受かった時なんかも、人生のあらゆる節目で飲む)風習があるのだが、ベッドでスープを飲む母は、自身の出生のことや、自分の母のことを思い出すだろうし、そうなると私は、歴史の年表でよくある、始点も終点も違う直線が19xx〜20xxなどといくつも伸びている図を想像する、そこに出産という点が記録され、交わることのない平行な縦線同士に、あみだくじのように出産の点同士をつなぐ横線が引かれる、新しい母親は、自分の母親もこうだったのだろうかと考える、ところで、そもそも他人のことが「わかる」とは、似た回路を他人に見出すそういう補助線のことではなかったか、と考えだすと、あみだくじにはさらに無数の横線が引かれて、複雑になった図が頭の中でグニャグニャ歪む、しかし国の風習レベルでそういう補助線が認定されていて、価値観の再生産がごく自然に行われるのはよくできていて面白いし、それは当然儒教と関わりがある、また、時期がら周りの新入社員を見ていて、エリートたちが休日返上で出し物の稽古をして劇を披露するような風習は極東アジアにしかないだろうな、などと、いろいろなことをまとまりも発展もなく考える、そして、私はそういうことをもっと簡潔に、相手を混乱させないような聞き方で、韓国を知る人に質問してみたいと思っていたわけだ。

ちなみに彼女に、「日本でいう新入社員の劇みたいな風習ある?」と聞いたら、韓国の大企業、LGやサムスンでは会社ごとにダンスが決まっていて、新入社員はそのダンスを覚える、下らない伝統だと思いつつも、大企業に入ること自体が難関なので、みんなその立場に優越感も感じているはず、という話をしてくれた。)

 

 異文化交流といえば、先月観た冨田克也監督の『バンコクナイツ』を思い出す。面白いところもたくさんあるのだが、映画全体としてはあまりに負の断点が多すぎて楽しめなかった。

バンコクナイツ』には作中ではっきり伝えたいことがある。その問題意識は面白いけど、その要約があれば満足というか、作品の方は単に問題意識のネガでしかないと感じてしまう。だから監督の冨田克也は自分にとって、インタビューや書きものには興味があるけど、作品そのものにはそれほどの魅力を見出せないというタイプの作家だ。*4

いろいろな要素が絡むのだが、作中で一番興味深いテーマを約言すると、『片方がもう片方の顔を札束ではたく、それ以外のやり方で文化交流をするにはどうすれば良いか』である。映画の後半でタイの田舎、イサーン地方が出てくるが、撮影班は、現地の人たちにぽんとお金を渡して撮らせてくれと頼み、家にずかずか入る、といういかにも普通のドキュメンタリー的手順を踏まない。話を冒頭のトピックに繋ぐなら、そうして撮られた現地の人々はみな「手ぶら」で「ぎこちない」はずだ*5。『バンコクナイツ』のスタッフたちは、同じ地域で何週間も生活し、打ち解けてきたところで初めてカメラを向ける。こういう手法は掛け値無しに素晴らしいし、その打ち解けた空気を画面に捉えるという試みも実を結んでいると思う。

 

異文化交流という言葉に引っ張られて思い出しただけで、日本人と韓国人の友人関係は、タイの村落にカメラを入れるとか、落書きを美術館に所蔵するとか、そういう文化搾取になりうるものとはまた別で、基本的にもっと水平的なものだと思う。ただ、どんな交流も、沖縄問題のように力関係が働いている背景や、相手の言動をナショナリティや育ちに還元してしまう危険について意識的でありたいよね、という話です。こう書くと当たり前に聞こえるけど、気を付けていてもできない時がある。

最後にこの夏延々聴いてる韓国のアーティストの曲を貼っておきます。

DEAN - love ft. Syd - YouTube

 

 

love (feat. Syd)

love (feat. Syd)

  • DEAN
  • R&B/ソウル
  • ¥250

 


 

*1:濱口竜介感…

*2:人間の俳優は50回、100回と舞台を経るうちに洗練された無駄のない動きになるが、そのぶん新鮮味やリアルさは失われることを、ロボットに演劇をさせる研究で定式化したり、体操選手が難度の高い技を習得するとき、体の動き以外に、天井や床の見え方も含めて記憶するが、それが演劇の稽古でも起こるーー普段見えている小道具を隠すだけでセリフが出てこなくなる、等いろいろ面白いことを言っています。

*3:綿矢りさの『かわいそうだね?』ですね

*4:自分にとってはtofubeatsも似たような存在だったりする

*5:濱口竜介感…②

牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件 感想

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1991年の台湾映画。観てからひと晩経ちはしたものの、いまだに「すごいものを見た」という感覚が自分の中で反響していて、いまいちまとまらない状態のまま書いていく。

 

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この映画にはまず、中国(親)から分かれた台湾(子供)という図*1がある。そしてそれは台湾の内部で、反社会的な子供たちに「大人になれば分かるさ」と告げられるシーンが幾度も描かれることで多重化される。そして、舞台である1961年の台北といえば、中台戦争のただ中にあり、当の大人たち自身も、自らの力では制御できない外部と圧迫を感じている。彼らの子供に対する抑圧的な態度は、この映画に終始不穏なトーンを差し込むが、それは解消不能な不安や、自身の疑念から目をそらそうとする身振りに他ならない。「漢字はアルファベットより書く手間を省けると言いますが、”我”はどうです?」と教師の矛盾を指摘した生徒が、晒し者にされるシーンは象徴的である。日常的なレベルでよくあるように、この映画でも、「大人になれば分かるさ」という言葉は、大人たちが分からなかったことを、神秘化し、次世代にリレーする語彙として現れる。

 

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そして、分かったふりのできない少年たち。縄張りに侵入したよそ者をリンチするところから、賭博場やクラブのシノギ、敵陣への討ち入りまで、節々でどぎつい暴力をやってのけるものの、彼らはせいぜい10代半ばから後半であり、現代の日本人から見ると、現実感や、自他の生命に対するリアリティをあまりに欠いている(ものの言いようで、これは全く反対かもしれない)と感じる。白か黒か。緩衝材になるような対話がないために、事態はどんどん先鋭化し、互いに死人が出るまでに発展する。戦いをしやすくするため、敵を空白に置くのは戦争の定説だが、そういう意図の介在する以前にも、空白を以って敵は敵となる、という様相をじっくりと見せられた。
血なまぐさい描写は多いが、画の綺麗さ、街並みの魅力や、当時の台北の暮らしに宿る息づかいはこの映画の大きな美点であり、ひとつの時代を描く物語として、でたらめな強度(ベタな修辞、、)を持っている。

 

 

そして何よりも女たち。この映画において、お互いを兄弟と呼び合い、俺たち男の友情は女には分からない、女のこと(些細なこと)で男が争うなんて馬鹿馬鹿しい、これだから女はーーーーと断じる男たちは、簡単に「女」を理解不能なものとして域外へ追い出してしまう。ここで女たちが等しく(一様に、多様さがないまま)放逐されるのが、ディテールのない真っ暗闇な外部である(誰かの笑い声とボールだけが転がってくるような…)。だからこそ女たちはその鈍感な抑圧に目ざといし、男たちの安易な誘いをはねのける。そこに主体同士の関係がないからだ。ヒロインである小明の言葉を借りればこうなる。


「変えられないーーー私もこの社会も同じよ」

他人が自分の感覚の上を走り抜けていくだけの像であるならば、主人公・張震の愛情があんな形をとってしまったことにも少しは合点がいく。張震は、相手を自分の望む形に変えることでしか関係を築けないが、それは、彼の言い分に耳を傾けないまま処遇を決めてきた、あらゆる抑圧の再生産にも映る。

1961年ーー台北しか知らない主人公の世代と、中国本土から渡ってきた公務員の親世代にはそもそも深い溝が横たわる。国民党政府に連行された父の事情を、張震が理解しているとは思えないし、彼にとっては、抗争のための刃物はリアルでも、道をゆく戦車はデートの背景でしかない。身内を洗う政府、敵対するギャング、そして大人たち*2。どれも有無を言わせぬ力とともに迫ってきながら、抱えこんだ事情をなかなかこちらに明かしてはくれなかった。なぜ父親は連行され、なぜ解放されたのか。なぜハニーは殺されたのか。カメラのレンズを通した観客にはまだしも、当事者たちにとって、因果を支える根本にはぼやぼやとした虚無が残る。

この映画に現れるさまざまな齟齬は、噛み合わない両者が、互いにとって*3他者以前の外部で、細部を持ちえない遠い存在であったことに起因する。「牯嶺街少年殺人事件」は、齟齬の生まれやすい時代と場所で、軋みを立てながら暮らす市井の人々の記録である。

 

映画のラストシーンには救いがない。あまりに遠い存在であったエルヴィス・プレスリーから親密な返事が届くのに、その報せは獄中の張震に届かず、季節はひと回りし、冒頭と同じシーンがリフレインされる。だが、抗争から逃れた不良は暇つぶしにトルストイを読むかもしれない、姉はキリスト教を説くかもしれない、もう1人の姉はアメリカへ留学するかもしれない。いや、外国のもの*4である必要はないのだーー何より、恋した女の子によって、触れ得ぬ他者への触れ方を教わることができたかもしれない。

張震の持つ懐中電灯は、ほんとうは彼女を照らすための灯りだった。希望は静かにサインを送っていたのである。

*1:元々は台湾の国民党政府が本丸なので語弊はあるが、なんにせよ台湾島へ敗走したのは国民党の方である

*2:Don't trust over 30的な風潮がどんなときに浮上するのか、台湾を通じて明確な見取り図をもらったような気がした。さらに蛇足ながら、Don't trust over 30を唱えたキッズがやがて30を越えるというアイロニーの魅力について最近よく考える

*3:女にとって、のみが相互的でないのが図として面白い。ただこれは根本的な原理をなぞるトートロジーかもしれない

*4:外国のもの、を傍観者のように捉えていて、ここで他者として登場することに違和感を感じる人もいるかも知れないが、本文の文脈では他者と傍観者を区別することにあまり効果がない